ネズミの勇気とひとの勇気のちがい

2012年04月30日 | 勇気について

4-1-5-3.ネズミの勇気とひとの勇気のちがい。
 ひとの勇気は、理性による自然(危険と恐怖)の抑制・支配としてある。では、理性を欠く動物の場合は、勇気がないことになるのであろうか。勇気は、危険・恐怖にもかかわらず、これから逃げず対決することだとしたら、動物にもある。動物は、当然、反自然・超自然の理性においてではなく、自然的存在として自然の営みにおいてそうしているはずである。
 動物の勇気は、ひとつには、恐怖に勝る他の衝動が生じて恐怖の逃走衝動等が阻止されることにあるといえよう。食や性の衝動が危険への恐怖より強い場合、恐怖による逃走衝動は抑えられ、危険であっても食や性の衝動の方をとり、危険を無視したり、これと対決する勇気ある振る舞いになることである。もうひとつは、「窮鼠猫を咬む」ということである。やぶれかぶれ、である。恐怖にしたがった生防衛は無力になり、つまり逃走は駄目(=死)、萎縮していても駄目(=死)と、恐怖にしたがった道が閉ざされ、あとは、あるとすれば危険を排撃する道のみということで、元気を残している場合、その一か八かの危険排撃に最後の力を尽くすのであろう。あらゆる方向から必死の猛火が迫り、唯一、ネコのいる方向が助かる可能性を残しているということで、ネコの方へと突進するのである。
 危険にいどむ動物の勇気は、同時に生じる本能・衝動が恐怖に勝っているとき生じるということは、そこで、恐怖の方が大きくなったら(または他の衝動の方が小さくなったら)再度恐怖にしたがって逃走するということでもある。ひとの理性的な勇気なら、どんなに恐怖が強くなっても、理性がこれを抑圧しているので、勇気を貫徹することができる。恐怖という自然を小さめにと制御もできる。だが、虎から我が子を守る勇敢な母鹿は、ある限度をすぎたら、人から見ると無情な感じで子を捨てて逃走してしまう。 
 ひとの勇気は、理性の自律のもとにあって、動物にはない広範な勇気をもつ。理性的な特性にしたがって、普遍性や公共性にしたがった勇気もとられる。個人的にはなんの欲求でもない他人のための正義とか全体のための戦争で勇気を出すことができる。鹿は、他の鹿が虎に襲われていても、知らぬ顔であるが、ひとなら見知らぬ他人が暴漢に襲われている場合(実際に行動がとれるかどうかは別として)、無関心ではおれない。理性にしたがった勇気であれば、動物のように恐怖より強い衝動などがなくても、勇気ある行動がとれる。母性本能のはたらかない男性も子供が猛犬に襲われていたら、勇気をもってこれを救助する行動をとる。 
 もちろん、ひとも動物であるから、動物的な形での勇気ももつ。母性本能にしたがって母親は、日頃の臆病からは信じられないような果敢な勇気を我が子の救済のために発揮する。それでも、この本能を理性が抑制する必要があるとしたら、理性にしたがう。我が子が悲痛な叫び声をあげていても、それが手術なら、本能・動転を抑止し、理性的な態度を母親はとるはずである。


勇気は、ひとを悲惨から尊厳へと飛翔させてくれる。

2012年04月26日 | 勇気について

4-1-5-2.勇気は、ひとを悲惨から尊厳へと飛翔させてくれる。
 勇気は、自然感性の恐怖に対抗し、これを理性のもとに制御・支配して、反自然的に不快の恐怖を甘受し忍耐しつづける。ひとの理性的な尊厳をそこに見ることができる。さらに、勇気では、危険なものに大胆・果敢にいどむ。危険になるのは弱者だからであり、自然的には弱者は、強者の危険を避け、強者に服従する。だが、ひとは、弱者(または弱点をもって危うい存在)なのに、この危険に対抗し果敢にこれを排撃する勇気をだす。この勇気のもと、自然的秩序に対立して弱者が強者にいどみ、これを排撃し、戦いに勝利することが可能になる。
 自然的には、ひとは、おそらく、もっとも弱い部類の大型霊長類であろう。アフリカの豊かな森を(ゴリラやチンパンジーに?)惨めにも追い出され、草原に暮らすこととなった。が、草食動物に徹したわけでも、ライオンのような肉食獣になれたのでもない。一説によると、惨めにも、死肉をむさぼるハイエナなどの食事のあとの残飯、つまり、かれらの残した骨を砕きその骨片を食べて生き延びていたのではともいわれる(骨髄をふくめて、食べる気になれば骨そのものは結構な栄養食品だとか)。手と歯、居住跡の骨片等からそう推定できるのだそうで、手は石を握る(骨を砕く)のに適した形になり、その臼歯は骨片を磨り潰すのに適したものになっているという。草原の最後の掃除係りとしてやっと生き延びていたことになる。それでも生存が危うくなったのか、とうとうアフリカを去ることになり、あちこちをさすらい極寒の氷河期を経て今のわれわれが出来上がったのである。悲惨きわまりない自然存在が人類であった可能性が高い。そのわれわれが、理性を獲得し、その勇気を振るえるようになって、至高の存在に、尊厳を担うものになって今に到っているのである。
 パスカルは、人間を「考える葦」と言い表した。自然的には、か弱い葦のような存在で、自然の風の一吹きでその存在がむなしくなるような、惨めな存在である。だが、考えるということで、知性をもち理性的存在であることにおいて、自然を超越して、全自然を相手にまわすことができるような偉大な存在となりえているのである。ひとは、悲惨と偉大(尊厳)の矛盾する二規定の一体化した存在となっている訳である。
 勇気は、自然的には悲惨な弱者であるひとが、自然の秩序を超越して、大胆・果敢に危険な強者にと挑戦していくものである。ひとは、自然的には弱者として様々な危険にとりかこまれて、これらにおののく存在である。だが、これを理性の勇気は制御し克服していくことができる。恐怖の自然を制御しその不快を忍耐できる。危険なものから逃げないで、これに挑戦して危険を排撃できる。危険な強者としての自然には、自然的にはしたがうものを、弱者にもかかわらず、自然的秩序に逆らうのが人間である。理性をもってその危険を大胆に果敢に排撃して自然に対抗して、理性的自律に生きるのである。


弱者の闘争本能を満たす攻撃的勇気

2012年04月23日 | 勇気について

4-1-5-1.弱者の闘争本能を満たす攻撃的勇気
 同じ勇気でも、恐怖に忍耐する勇気は、恐怖の不快に、忍耐の不快を重ねるもので、辛い。自然的には、恐怖からは逃げたいのに、これを抑止して、忍耐するのであり、感性的自然を抑圧した理性的自律の営みとして、反自然的・超自然的である。これに比しては、大胆・果敢の勇気は、自分にとって不快な危険なものを排撃しようというのであり、その不快排除の欲求は生あるもののごく自然の自己保護の営みである。不快な恐怖の忍耐とちがって、果敢な勇気は、快でありうる。ひともそうだが、生あるものは、価値物獲得のために攻撃的になり、生否定的なものを排除しようと攻撃的になる。生には闘争本能が備わる。勇気の攻撃的な大胆さ・果敢さは、この闘争の欲求を満たす。勇気に必須の恐怖への忍耐が小さくてすめば、この自然的欲求の充足は、爽快なものとなりうる。
 動物の自然世界では、強いものが弱いものを攻撃して、前者が自分の生のために、よりよい状態を獲得しようとする。本源的に弱肉強食である。だが、ひとは、それと同時に逆のかたちで弱い者が、理性をもって恐怖や弱さの自然状態を克服して、強い者に攻撃的になりうる。ひとの勇気では、弱い者は、強(こわ)いものを怖がるに留まらず、その恐怖を我慢し、この危険なもの・強者に、大胆・果敢に攻撃的に挑む。動物とちがい、ひとでは、強者のみか弱者も勇気をもつことによって闘争的となることができる(動物でも弱いのに強いものに特殊的には立ち向かうことがある。戦ってみないと強弱が不明なときとか、恐怖を凌駕する別の強力な食や性の本能が機能するときである。だが、危険に恐怖することが主となった場面では、ひとと違って、恐怖にしたがって危険なものからは逃走するだけであろう)。動物では原則的には、恐怖する弱者への強者による攻撃・威嚇があるだけだが、ひとでは、さらに弱者も対等となるのであり、いわば「万人に対する万人の戦い」となりうる。
 理性をもつことによって、弱者も勇気を出して強者を排撃することが可能となる。自然的には弱者であるから、無理をし「敢」えて攻撃的になって、ことを「果」すという果敢さをもち、常日頃の心(=「胆」)を無理矢理膨らませて「大」きくした大胆さをもって、強者に挑むのである。動物とちがって、弱者もその闘争本能を充足することが可能となる。どんな弱者も、自律の理性精神をもって勇気を出せば、いかなる強者・危険にも屈することなく、繰返してこれに粘り強く挑戦していくことができる。
 ひとは、個体差が小さく、各人が弱点をもっていて、そこを突かれれば危険となり、だれもが弱者として恐怖することになる。その恐怖を抑制して危険排撃に努めるなら、みんな勇気あることとなる。それをせず、恐怖にまけて動物と同じ状態になる場合は、強(こわ)いものを怖がるだけの臆病者ということになる。勇気ある者になるのはもとより、臆病になるのも、ひとの場合、自身の選択によってなることである。


自負心をもった対決的攻撃的勇気

2012年04月19日 | 勇気について

4-1-5.自負心をもった対決的攻撃的勇気
 勇気は、危険にいだくのだから、危険になる弱者、あるいは弱点を有する者が必要とするものである。かつ、勇気をもつことで、勇気ある弱者は、その危険を乗越えて強者・覇者となることが可能となる。危険には恐怖してこれから逃走するのが自然である。だが、勇気は、これを拒否し自然を超越して、恐怖を抑制し、危険に屈することなく、これに対決し排撃する戦いを挑む。もちろん、その攻撃・対抗の力しだいでは、危険なものの禍いを防ぐ事ができない結果となることもあろう。それでも、勇気がこれに屈することなく、抵抗・挑戦の精神を堅持しているかぎりにおいて、挑戦に失敗して敗北したとしても、捲土重来を期す事が可能であり、雪辱を未来に描ける。
 弱者ゆえに身は強者に拘束され屈辱を甘受することになるかも知れないが、その魂が屈することなく勇気をふるってこれに抵抗し挑み続けるかぎり、この弱者は、危険な強者に呑みこまれないで独立自存の尊厳を維持しているのである。どんな強者も、弱者が勇気を堅持して抵抗の意志をもっている限り、そのこころの中までを支配することはできない。ここでは、危険な強(こわ)い相手は、自然的には強者であるが、人間存在としては、むしろ、劣位に位置することになる。相手は、強いのなら勇気は不要であり、その点では自然にとどまったままである。だが、弱者(あるいは弱点を突かれて危険となっている者)の方は、勇気を発揮しないと対抗的に並び立つことができない。勇気は、感性的自然を超越して、これを抑圧し、危険から逃げることなく、自然的には弱い者が、強者に挑むという理性的自律のもとに立つ。自律的理性の、人間固有の尊厳をそこに体現している。強者が力をもった自然存在にとどまっているのに対して、勇気をもった弱者は、自然を超越し人間的尊厳を顕在化させた高貴な理性存在となっているのである。
 勇気は、単に危険なものに屈しないのみではなく、これを排撃して危険を無化して安全を確保しようとする。弱者としての自然的な弱さ、その不足分を、勇気は、大胆・果敢の振る舞いをもって補う。果敢な勇気の振る舞いが危険なものを越える勢いを生み出すことができるならば、危険を排撃でき、勝利をもたらすこととなる。
 勇気をもつことで、ひとは、恐怖に打ち勝ち、危険に屈することなく、これに対抗し、しばしばこれを排撃もできる。弱者としての人間が、覇者となり、その尊厳を顕示することができるのである。いまは弱者である。であるからこそ禍いの危険が感じられ、強(こわ)いものを怖がり恐怖している。だが、勇気をもつことで、その未来は、危険を排除し安全・安寧の生を確保する可能性をもつ。覇者となる可能性をもつことができる。そういう誇らしい未来となるかどうかは、ひとえに、勇気を出すかどうかにかかっている。


防御の構えをもちつつの大胆・果敢の勇気

2012年04月16日 | 勇気について

4-1-4.防御の構えをもちつつの大胆・果敢の勇気
 大胆・果敢の勇気は、対決的、攻撃的なものであるが、それは、ただ単に攻撃的なだけではない。他方では、通常は同時に防御・防衛の構えをもっている。危険への勇気であり、脅かす危険への防御的対応を踏まえることを大前提にしての対決・攻撃である。ネコがネズミを猛烈に追いかける時には、ネコには防御は不要である。危険はないからである。かつ危険がないから大胆・果敢の勇気も不要である。だが、ネズミがネコに攻撃的になる場合は、強(こわ)い(=怖い)ものへ勇気を出して大胆に果敢になるのである。その攻撃的な勇気は、自身を強(こわ)く危険なネコから防御するためである。大胆・果敢といえども、それが勇気である限り、(危険への)防衛・防御を踏まえていることになる。
 勇気をもって果敢に攻撃すると、相手は、多くの場合、反撃してくることになる。果敢の勇気は、この新規の反撃の危険に防御の構えをもつことも必要となる。もともと危険な相手は自身に比して強者なのであり、自分の方からの一方的な攻撃のみで済むことは期待しにくい。「捨て身」を別として、ふつうには反撃を前提にしてこれへの防御の構えをもちつつ果敢になるのである。果敢になるには、防御に割く力を小さくして攻撃に力をまわすことが求められるが、最低限の防御体制はもたねばならない。剣士は剣とともに楯をもってする。楯がない場合は、その剣を防御にも使うことになる。
 勇気は、危険から身を守ることが大目的である。その果敢な攻撃は、この守りのためのもの、危険排除のためである。かりに堅固な防護が実現されていたら、その限りでは危険はないから、そのことでの勇気は不要である。圧倒的な強者が敵を攻撃することに軟弱だというときは、「もっと気合いをいれろ」等とはいっても、敵からの危険がないのだとしたら、「大胆に!」とか「果敢に!」といった勇気のことばはかけないのではないか。とくに「大胆」は、危険を些細とみて無頓着になるものだから、危険自体がないのでは、大胆になりようがない。身の安全が確保されていての攻撃というと、現代の最先端技術をもっての戦争では、戦場を遠く離れて計器の操作だけになり、おそらく戦闘自体についての勇気は無用であろう。テレビゲームと同一であり、ゲーム感覚にとどまる。戦闘上の死の危険は皆無で、防御の対応も恐怖もその限りもつことはなく、危険がないのだから大胆や果敢の勇気も出番がない。
 大胆・果敢の勇気は、危険なものを排撃して身の安全を得ようとするものである。勇気の前には危険があり、したがって、勇気は、陰に陽に危険への防衛・防御の構えを根本に有したものだということができよう。ネズミが果敢な勇気をふるうのは、危険なネコからおのれを守るために、防衛のために、そうするのである。ネコはネズミには勇敢になれない。ネズミが危険ではなく、それから防御することが不要だからである。