2-5-6. 同じ忍耐でも、原因への関与については個人差が大きい
苦痛を回避するひとは、その原因について、それを同じく回避することもあれば、原因までは問題とせず、これを受け入れたり放置しておくことがある。苦痛を忍耐して受け入れるひとも、苦痛と原因が一体でない場合、その時々で、その原因へのかかわり方には、異なった対応をする。苦痛は生じていることだから受け入れるが、その原因は、苦痛の源のこと、排除しようということもあれば、苦痛を受け入れるのだから、原因も我慢して受け入れようということもあろう。それは、忍耐する人の心構えと、苦痛の原因の在り方で各様になるといえる。
同じように蚊にさされても、その痛みとその原因の蚊への対応は、ひとによって異なる。蚊も生命あるもので尊いとすれば、刺された痒みは我慢せず掻くとしても、これを殺すことは、できるなら避けようとするだろう。だが、蚊の生命の尊厳という言葉にたじろがないひとは、万物の霊長の自分の生の尊厳を守るために、刺さないオスも区別できないからと蚊を見つけ次第これを殺すであろう。あるいは、静穏の求められる人前では、蚊の刺す苦痛にのみか、蚊自体の存在にも知らぬ顔をして我慢することもある。その場とその人の心構えしだいで苦痛とその原因への対応は、異なったものとなる。
同じ事物が、苦痛となるひともあれば、ならないひともある。さらに、苦痛になり、したがってその事物が苦痛の原因であるとしても、その苦痛を甘受する忍耐のひとの間でも、苦痛の原因については、これを同じく忍耐の対象にすることもあれば、それは、忍耐の対象とはせず、受け入れない場合も生じる。忍耐は、まちがいなく、現に存在している苦痛にする。が、苦痛の原因については、何を苦痛と感じ何を原因とみなすかを含めて、忍耐する場の主体的状況しだいで、忍耐の(甘受する)対象になったりならなかったりということになる。
苦痛を回避するひとは、その原因について、それを同じく回避することもあれば、原因までは問題とせず、これを受け入れたり放置しておくことがある。苦痛を忍耐して受け入れるひとも、苦痛と原因が一体でない場合、その時々で、その原因へのかかわり方には、異なった対応をする。苦痛は生じていることだから受け入れるが、その原因は、苦痛の源のこと、排除しようということもあれば、苦痛を受け入れるのだから、原因も我慢して受け入れようということもあろう。それは、忍耐する人の心構えと、苦痛の原因の在り方で各様になるといえる。
同じように蚊にさされても、その痛みとその原因の蚊への対応は、ひとによって異なる。蚊も生命あるもので尊いとすれば、刺された痒みは我慢せず掻くとしても、これを殺すことは、できるなら避けようとするだろう。だが、蚊の生命の尊厳という言葉にたじろがないひとは、万物の霊長の自分の生の尊厳を守るために、刺さないオスも区別できないからと蚊を見つけ次第これを殺すであろう。あるいは、静穏の求められる人前では、蚊の刺す苦痛にのみか、蚊自体の存在にも知らぬ顔をして我慢することもある。その場とその人の心構えしだいで苦痛とその原因への対応は、異なったものとなる。
同じ事物が、苦痛となるひともあれば、ならないひともある。さらに、苦痛になり、したがってその事物が苦痛の原因であるとしても、その苦痛を甘受する忍耐のひとの間でも、苦痛の原因については、これを同じく忍耐の対象にすることもあれば、それは、忍耐の対象とはせず、受け入れない場合も生じる。忍耐は、まちがいなく、現に存在している苦痛にする。が、苦痛の原因については、何を苦痛と感じ何を原因とみなすかを含めて、忍耐する場の主体的状況しだいで、忍耐の(甘受する)対象になったりならなかったりということになる。