同じ忍耐でも、原因への関与については個人差が大きい

2020年06月28日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-6. 同じ忍耐でも、原因への関与については個人差が大きい
 苦痛を回避するひとは、その原因について、それを同じく回避することもあれば、原因までは問題とせず、これを受け入れたり放置しておくことがある。苦痛を忍耐して受け入れるひとも、苦痛と原因が一体でない場合、その時々で、その原因へのかかわり方には、異なった対応をする。苦痛は生じていることだから受け入れるが、その原因は、苦痛の源のこと、排除しようということもあれば、苦痛を受け入れるのだから、原因も我慢して受け入れようということもあろう。それは、忍耐する人の心構えと、苦痛の原因の在り方で各様になるといえる。
 同じように蚊にさされても、その痛みとその原因の蚊への対応は、ひとによって異なる。蚊も生命あるもので尊いとすれば、刺された痒みは我慢せず掻くとしても、これを殺すことは、できるなら避けようとするだろう。だが、蚊の生命の尊厳という言葉にたじろがないひとは、万物の霊長の自分の生の尊厳を守るために、刺さないオスも区別できないからと蚊を見つけ次第これを殺すであろう。あるいは、静穏の求められる人前では、蚊の刺す苦痛にのみか、蚊自体の存在にも知らぬ顔をして我慢することもある。その場とその人の心構えしだいで苦痛とその原因への対応は、異なったものとなる。
 同じ事物が、苦痛となるひともあれば、ならないひともある。さらに、苦痛になり、したがってその事物が苦痛の原因であるとしても、その苦痛を甘受する忍耐のひとの間でも、苦痛の原因については、これを同じく忍耐の対象にすることもあれば、それは、忍耐の対象とはせず、受け入れない場合も生じる。忍耐は、まちがいなく、現に存在している苦痛にする。が、苦痛の原因については、何を苦痛と感じ何を原因とみなすかを含めて、忍耐する場の主体的状況しだいで、忍耐の(甘受する)対象になったりならなかったりということになる。

あの世での生は、永遠とみなされる

2020年06月23日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
3.永遠の国(天国と地獄) 
【3-1.あの世での生は、永遠とみなされる】昔話(メルヘン)では、この世界と端的に異なる世界、しかも時間のあり方までが異なる世界といえば、浦島太郎の話のような実在的な異世界に関わってのものとともに、死者のいく霊的な世界にかかわってのものがよく語られる。後者の代表は、「永遠」の「あの世」の体験というものになろう。あの世は、この無常の有為転変の世界とちがって常世の永遠のもとにあり、その時間があるとすると、非常にゆっくりと、我々には感知できないぐらいスローテンポで展開するものと考えられるのが普通である。  
 キリスト教世界での、「永遠の国へ行った花婿」の話は、あの世の永遠、あるいはあの世の時間が超スローであることを垣間見せてくれている。それは、結婚式の途中のことだった。花婿のまえに、死んだ友人が現れて、ほんの30分ほど、彼は、天国へとさそわれて行ってみることになった。だが、帰ってみたら、30分どころか、もう100年もこの世では経っていたという(山室静『新編世界むかし話集2 ドイツ・スイス編』 社会思想社 1981年 「永遠の国へ行った花婿」 参照)。
 他方では、天国へいってきても、時間は、この世界と同じで、同じ速度、同じ時間経過をもって展開するというのもある。グリムの「天国のからざお Der Dreschflegel von Himmel」(KHM112)によると、かぶらの種から芽が出て大きくなり巨大な幹となりそれが天までとどき、これをのぼっていった百姓は、天国にあった「つるはし」などをもって、もどってくる。が、穴におちてしまい、そのつるはしで階段をつくって地上にでられた、という話である。ここでは、天国とこの世との時間的差異などなかったかのようである。
 あの世の時間がこの世と異なるのか同じなのかは、実際のところは、分からない。第一、あの世自体があるのかどうかということもある。しかし、あの世があると前提した場合、天国でも極楽でも、生は永遠で、時間があるとしてもごくゆっくり過ぎるとの理解は、昔話がかたるのみではなく、宗教界での一般的な理解でもある。極楽は不老不死の世界で、想定される時間は、極めてゆっくりと動くものと見なされている。常世としてのあの世と、無常のこの世である。
 民間信仰の神祇や身近な神の使いの蛇やきつねが死なずに永遠の生を見せるのは、これをまつるひとびとが時間設定を怠って、いうなら時間的には無(無記述)になっているのを、時間的展開(老化等)ゼロと錯覚していることに起因する。あるいは、古池の主の大蛇が、殺されたはずなのに、不死身でよみがえっていると思うのは、本当は死んで別の蛇と入れ替わっているのに、細長い奇怪な蛇というだけのことしか見ておらず、違いを見ないで、違いが分からないから、つまり、認識にルーズだから不死になっているだけのことである。常陸坊とか柿右衛門とかが、初代から何百年経っていても同じ名前なので、彼らがずっと生きていると錯覚するようなものである。
 単に消極的に時間設定にルーズだから時間経過がなく不死というのではなく、時間自体がないのが神の世界だという考え方をすることもある。この有限な人間界が有限なのは時間のうちでの存在だからで、その時間という無常の世界を超越した恒常・恒久のものが、永遠が神の世界だということである。超越神の世界にいう超越性の一端は、時間という有限の世界を超えたところに、無限に、永遠に見出される。時間そのもののないのが絶対神のあの世なのだとするが、それは民間信仰の神祇や霊獣が抽象的で時間をもって描くことにルーズだから不死になっているのと同じく、その時間超越は、この世的な時間が拒否・否定されているだけで、実証されている話ではない。今浦島の異時間感覚は、錯覚でも実際の、だれでものに可能な体験である。だが、絶対神の時間の超越自体は、その神の有と同様に、その時間の無も、そう想定・希求されているだけであって証明されているわけではない。

忍耐の持続は、苦痛を無化し、その原因も無化して、忍耐を無用とする

2020年06月18日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-5-4. 忍耐の持続は、苦痛を無化し、その原因も無化して、忍耐を無用とする 
 忍耐のはじめは、苦痛は苦痛で、その原因も原因として働いているが、忍耐していると、それらが変わってくることがある。苦痛は、傷害や妨害が生じていることを知覚してのものであり、苦痛の原因がある限りは、苦痛をもって警告するのが生にはふさわしい。忍耐していると、損傷が大きくなるから、苦痛は激しくなって、ついには、忍耐を断念することもある。だが、苦痛自体は損傷を大きくも小さくもしないのが普通であり、意識にこれを知らせたら役目は終わりというものもある。そういう場合は、苦痛が与える衝撃度は意識にとって小さくなった方がよく、忍耐していると、苦痛の軽減するものがある。意識が感受性の度合いを低くしていく。臭いの苦痛は、すぐに慣れて、なくなっていく。熱い風呂も、やけどしない程度の場合は、すぐに慣れて心地よくすらなっていくことである。口やかましい人には、はじめは、強い不快感をもって我慢していても、だんだん慣れて、苦痛でなくなって忍耐無用になる。受け取る感度をさげ相手への評価を下げて、騒音一般のなかに入れて無視できるようになる。
 忍耐で苦痛に耐えていると、これへの抗体ができ抵抗力ができてくることがある。よりよく対抗することができるように、筋力がつき、各種の能力が高められていく。スポーツのトレーニングは、身体に苦痛となる負荷をあたえて鍛え、その身体能力を高める。戦争では、はじめは、遠くの爆弾にも仰天して冷静さを失うが、その恐怖に耐えて慣れてくると、爆撃機からの爆弾を見ながら、自分のところに落ちてくるのか、反れるものなのか等を平然と判断もできるようになるという。大体のものは、忍耐を経験するたびに忍耐力が大きくなり、少々では苦痛を苦痛とすることがなくなって、同じ苦痛の原因が発動した場合は、平気になり、忍耐がいらなくなる。苦痛がなくなれば、苦痛の原因も(その事象はそのままあっても)原因としては消滅する。
 逆境に生きるものは、順境の者からいうと多大の苦痛を甘受させられるが、慣れてくるとそれに対抗できる力を身につけ、意外に忍耐を意識することは少なくなる。大きな忍耐力を身につけて、順境のものが四苦八苦する少々の困難(苦痛とその原因)など平気で前にすすむことになる。




未来の時間に、浦島的な異時間を語るのは難しかろう

2020年06月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【2-4.未来の時間に、浦島的な異時間を語るのは難しかろう】異時間体験を語る浦島のような昔話は、過去・現在・未来の時間について、過去と現在を問題にするが、未来は、語ることがない。時間の長さの感覚は、記憶を踏まえる。過去の記憶が抜け落ちているところでは、時間経過はゼロで、それと、記憶更新をつづけている時間とのギャップに二つの時間を感じて奇怪な浦島体験となった。この記憶という点からは、未来方向には、異時間感覚は成り立たない。記憶することで蓄積される時間は、まだないのだからである。未来は想像・予期をもってなりたつ。未来の時間は、なお、どこにもない。未だ来ていない時間である。一つもない時間についての二つの異なった時間という異時間体験など、成立しようがない。  
 しかし、陶潜『捜神後記』の桃源郷のように、空間重視で、時間については過去に固まったままで古い生き方をしている異境ということでは、異境・異世界を介して未来的なものを語ることがありうる。過去の古い時代のままに孤立し固定している異境の者、桃源郷の住人の方からいうと、そとの世界に踏み出していけば、自分たちの未来になるような先進的な世界を垣間見ることになるはずである。空間化された時間は、時間自体とちがって逆方向にも、つまり、彼我の世界は現に共に存在しているものとして、未来から過去へも過去から未来へも進みうる。 
 西洋の昔話(メルヘン)は、日本では、自分たちには未来になるような世界だったのではないか。豊かな王さま・おきさきさまのメルヘンは、貧しい日本の明治期からつい最近までの子供たちにとっては、夢のような世界であり、「むかし、あるところに」と語り始められたとしても、過去ではなく、その「あるところに」とは、欧米という自分たちの夢であり、ありたい未来ではなかったか。昔話(メルヘン)以上に、現実の社会そのものにおいて、欧米は自分たちの夢のような未来であった。日本から欧米に行くことは、未来の世界へと旅することであった。最近でも、アメリカにいき、郊外での大型店舗の隆盛をみて、自分たちの未来を見出し、帰ってから、そういうことへの先進的な投資をするといったことがあった。古い時代の遣隋使・遣唐使では、もっと大きな時代のギャップが感じられていたことであろう。隋や唐は、未来の国へと旅することであった。その帆船は、タイムマシンであった。帰りは、未来の国から後進的な祖国日本に向かうことであった。日本人にとって、この国の外は、異邦人の異世界は、過去の時代に留まっている世界ではなく、逆で、自分たちにとっては未来の異世界であることが多かった。未知の世界、異世界を見知ることは、過去方向ではなく、未来方向に見出されるものだったといえる。
 つい最近まで、庶民にとっては、都市と田舎のギャップは大きく、都会の者には、田舎は過去の世界にいくことであったし、田舎の者には、都会にいくことは、未来の国に行くことであった。田舎のいろりを囲んでの者には、ガスや電気での生活は、未来のことであった。桃源郷のひとたちが現代史の只中に入ることは、未来に飛躍することであったろう。ただし、そういう未来を望んだかどうかは、分からない。のんびりした時間のすぎる田舎の鼠と、時間に追われる都会の鼠のどちらがよりよい生であるのかは、好みの問題になろう。これまで主として歴史の時間は、田舎を都市化し、後進国も先進国化するという未来への展開をしてきた。だが、その(空間的な)未来は、時間そのものとちがい逆方向に動くことも可能である。豊かな自然に囲まれて生きるのんびりした過去風の田舎の方こそが、人間らしい生活になるかも知れない。田舎の生活水準が都市と同じになっているいまは、田舎の方がよいとする人も多くなっている。 
 異時間体験のなりたつ浦島的な時間は、記憶をもとにした過去・現在の時間である。だが、時間には未来がある。これは、既定の過去とちがい、なお未定で未だ来たらずの未来であり、記憶にかかわる異時間体験は存在しないが、想像によって成り立ち、未定のものとして、自分たちが自由に選択し切り開いていける時間・世界である。過去のことは、どんなに後悔しようとも、タイムマシンでもないと変えようがない。だが、未来は、そんな夢のマシンを使わなくても、万人、自分で思うように変えていける自由の時間である。浦島も、過去や現在に目を奪われず、いわゆる浦島体験は些事として放擲して、未来に生きることをしたならば、「たちまち太郎はおじいさん」とはならずに済んだことであろう。いくら失敗してもこれを過去に流して、未来は、希望をもって幾度でも自由に時間を展開させてくれるから、浦島も、みじめな最期は送らないで済んだ可能性が高い。老い先短いとしても、ともに生きている人たちの未来に託すものがあろうし、すぐ先に、あの世を、極楽も地獄も自由に、妄想たくましく描いていけることである。


忍耐自体が苦痛の原因ともみなせる

2020年06月08日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-5-3. 忍耐自体が苦痛の原因ともみなせる 
 欲求を抑制して忍耐することは、辛いことである。そこで苦痛をなくするには、忍耐をやめればよい。忍耐するから、苦痛が続き辛いことになる。損傷の苦痛も、その苦痛・損傷から逃げないでこれを甘受し忍耐するから、苦痛が続くのである。忍耐せず逃げられるのなら、損傷も苦痛もなくて済む。忍耐するから、損傷となり苦痛となる。忍耐が苦痛の原因ということになる。
 もちろん、忍耐自体は、苦痛を生み出している原因ではない。忍耐は、原因といっても、機会原因(causa occasionalis)といわれるものになる。きっかけをつくる原因である。忍耐の意志があっても、損傷を作る原因、作用因、運動因自体がないなら、苦痛は生じない。忍耐の意志は、結果を作り出す作用因(causa efficiens)ではない。普通に言われる原因は、作用因、運動、作用としての原因の方である。忍耐(の意志)ではなく、損傷を作り出す作用因(例えば、刺すハチ)が、結果(刺されての痛み)を産出する原因である。しかし、運動因、作用因が生起するには、その切っ掛け(ハチの巣をつつく等)のいることがある。損傷を回避することなく、これが生じるように仕向けるなら、苦痛が生じてくる。欲求の不充足感が大きくなるようにしていけば、苦痛が生じる。忍耐は、苦痛を回避できる自然的な道、楽な方向を塞いで、苦痛となる方向へと向ける。忍耐が苦痛をもたらすことになる。 
 無意味な忍耐、無駄な忍耐がある。そういうものは、自然にしたがい苦痛回避の歩みをとっておれば、苦痛なく楽に進めるものになる。無意味な忍耐は、忍耐が苦痛をわざわざに生じさせているのだから、忍耐が苦痛の原因になっているということができる。無駄な苦痛を被ることの原因をいう場合は、切っ掛け、機会原因としての忍耐(の意志なり強制)をことあげすることが多い。火事の原因をいうとき、作用因のガソリン等の可燃物をいうよりは、切っ掛けとしてのたばこの火を原因としてとりあげて責任を問うが、これと同じである。