自然(個我の感性)への内在(束縛)と超越(自由)

2019年07月26日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-5-2. 自然(個我の感性)への内在(束縛)と超越(自由)
 忍耐は、不快・苦痛にする。快不快のもとに生きる個我の自然状態において、この快の欲求を抑制し、自然的には排除される不快・苦痛を受け入れ甘受するのが忍耐である。その忍耐の対象の快不快、欲求や反欲求はすべて個我のうちにある。かつこれを甘受する忍耐も同様にこの個我にあって自らがその自然状態を超越しようとする営為である。抑制する主体は、個我のうちの個の意志であり、抑制されるのも、個我のうちの快不快の自然である。
 生きる個我は、身体をもって個別実在として存在する。身体反応を必須とする快不快の感情は、この個我の根本的な様態になる。個我の自然は、快不快をもって動く個別身体存在としてある。動物的な生のレベルのみではなく、高度の精神的な営為も、個我のそれとしては、その身体反応の感情をもっている。個我に有益なら快、有害なら不快・苦痛の反応をし、それにしたがうことで個我の存在は自然的に営まれている。だが、同時にひとの個我のうちには普遍性・合理性・客観性・全体を見渡す理性・知性があり、これによって単なる動物的自然存在を超えた生き方をするものでもある。
 その個我の自然的な快不快にしたがう営為が理性からみて合理性を欠いている場合、ひとは、この快不快にしたがわず、理性的に生きることができる。快とその欲求は自然的には受け入れたいものだが、これが不都合なら抑止できる。回避したい不快・苦痛も、必要ならこれを反自然的に甘受できる。忍耐できるのである。
 忍耐は、快を抑制し不快・苦痛を受け入れる反自然・超自然の営為として、個我自然から自由である。動物も忍耐することがあるが、それは、より大きな快のために、あるいは、大きな不快回避のために、小さな快を抑制したり小さな不快を受け入れるだけのことで、自然のうちでの自然的選択として忍耐があるだけである。自然に埋没した状態での忍耐にとどまる。因果必然の自然のなかに動物はとどまる。だが、ひとは、この自然自体を超越しこれから自由になる形での忍耐をとりうる。自身の求めるものを自由に目的として立てて、因果を利用しつつ目的論的にことを展開する。場合によれば、因果(苦痛=原因は、即、これの回避=結果にと結ぶ自然)を中断して目的の方向にと転回していく(苦痛を回避せず持続させ反自然的に目的とするものへと結んでいく)。自然的な快のためにではなく、自然を超越した精神的な価値(お金とか名誉など)を目的にして自然的不快を甘受する。
 ひとの忍耐は、真理なり善の価値のために、自然的な快の価値を放棄し不快という反価値を甘受する。もちろん、自然的には、快不快のもとにあって、これに常々したがっているのではある。忍耐が反自然的に苦痛を忍ぶとしても、その苦痛を苦痛として、できれば排除したいと感じている。その点では、忍耐するとしても、あくまでも個我の自然に属しつづけている。だが、他方で、その自然的苦痛を排除せず甘受するのが忍耐であり、超自然的反自然的に振舞うことでその忍耐は成り立っている。嫌いな、通常は出会うのも避けているような相手であっても、その主張が正義にかなっておれば、この人のいう事を感情的には不愉快に思いつつも、理性的な個我は、受け入れる。忍耐は、自然個我に束縛されつつ個我からの自由を得ているのだといいうるであろう。
 個我においても、合理的な理性のみの支配する場面もある(満腹状態で好きなお菓子を等分する場合)。そこでは、忍耐は無用である。忍耐が登場する場面は、理性的普遍や全体に道理があるのに、個我の快不快の自然が反対するところにある(空腹状態で好きなお菓子を等分する場合)。快不快の感情的な個我を、理性的全体・普遍の立場から、抑制する忍耐である。ひとの忍耐は、理性の意志を貫徹するためにこれに逆らう感性的な快不快のあり方を抑制し、この個我の自然感性に反自然的なものを強いる。不快を持続的に受け入れ、欲求・快を抑止する。個我が反理性的に振舞おうとするところで、超自然的に理性意志を貫徹する、人間的忍耐である。個我のうちにあって個我を超えたものとして、ひとの忍耐はある。

忍耐は、万般にわたるが、身体をもつ個我に限定したこと

2019年07月18日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-5-1. 忍耐は、万般にわたるが、身体をもつ個我に限定したこと
知性のみ理性のみの事柄には、忍耐はいらない。快不快は身体的反応をもった感情の事柄であるから、肉体・身体をもたないところでは、苦痛への忍耐も働きようがない。理性そのものは、快不快によってではなく、真偽・善悪等を価値基準にして動く。
 立腹が、かりに理性のもとでのみ展開することがあったとすると、これに身体反応としての感情がない場合は、ごくごく冷静にことを展開していく。気障りな相手と判定してこれに懲罰が必要と立腹したとしても、感情的なものがないなら、淡々とこの懲罰を行っていくことであろう。怒りは過度にも過少にもならず、その仕打ちの程度を知り、これにふさわしい仕返し・懲罰を考え、適切な手段を見出してこれを実行するばかりである。不快も快もなければ、怒りの衝動で見境ない反応をすることもない。このような展開は、自分の感情を交えない懲罰は、自分に関係のない喧嘩への助太刀などで、通常でも行っていることである。戦争を指導する者は、おそらく感情的になっては見境なくなるから、ごくごく合理的に冷静にことを取り仕切る。おのれの個我のこととして感情的になるところでは、激怒にかられて取り返しのつかないことをする場合がある。が、冷静に合理的に展開するならば、理不尽な仕打ちに対しては、なぐったり殺めて憂さ晴らしするのではなく、第三者としての弁護士がするように、冷ややかに計算して損害賠償を求めるだけのことである。
 こういう没感情の場では、快不快なく快抑制の不快も苦痛もなく、したがって、忍耐も無用となる。忍耐が登場するのは、快苦の感情があり、したがって身体がある個別個我のもとに限定される。個我は、理性でもってことの真偽を知り善悪等を知って、これらの価値基準のもとに立つことができるが、その同じ個我のうちにある感情・快不快の価値基準では、合理的に判断しての真や善が取られるとは限らない。個我は、自己中心的である。常に世界の中心に自分をおく。各自の身体のもとでの個我の好都合を快と感じ、不都合を不快・苦痛とする。快をとり、不快を避ける。個我のもとでの快不快だから、自分(や家族といった拡大した自分)が傷つけば苦痛だが、他人が傷ついても不快は生じない。快不快の感情は、高度の精神世界のことでも個我のもとで生じて、国家や宗教について、自分が属しているものには個我を拡大した感情をもつ。自分の国家が損をすれば、悲しく不快になり、自分の宗教がけなされると自分がけなされているように不快感を生じる。したがって、個我において、その属する諸組織の利益不利益の問題などへの苦痛・不快に対処する忍耐が必要となる。

忍耐は、快不快の感情で動く個我を超える

2019年07月12日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-5. 忍耐は、快不快の感情で動く個我を超える
 ひとの日常は、個我において営まれている。各自に個別的に与えられた身体と心をもって、身体反応なしにはありえない感情、快不快のもとに個我(小我・エゴ)として存在している。もちろん、その個我のうちで理性的精神が全体をリードして社会的人間的な高度の営みを展開している。
 個我は、快不快の感情をもってこれに自然的には動かされている。食ひとつとっても、基本は、感性的な食欲があって、快不快にしたがい美味しいものを摂取し、美味しくない有害なものを排除して、自然的にうまく生は維持されている。だが、同時に、ひとは、より高度に理性的にも生きていく存在であり、自然的な食欲の快不快にしたがうだけでは栄養不足になるようなことがあれば、これを理性の高みから見て、制御し抑制することができる。反自然の振る舞いをとって、食の感性・個我の好悪を抑圧する。よりよい状態を可能とするために、合理性・普遍性をもった理性・知性のリードのもと、個我・感性を排して反自然・超自然に生きることになる。
 そこに忍耐が登場する。理性的精神のもとに、個我の自然を抑制し不快・苦痛を甘受する。個我も感性も快不快の摂理にしたがってうごく。これを停止するのが忍耐である。快を抑制してその不快・苦痛を甘受して忍耐する。不快・苦痛を排除する自然を停止して、苦痛を甘受する。忍耐である。快不快の個我の自然から自由になり、これを制御し、必要ならこれを停止して、超自然的に、快を拒否し、不快・苦痛を甘受する。
 ひとの感性・個我は、実在的身体のもとにその快不快の自然にしたがって動く。だが、ひとは、他方において、理性精神をもったものであり、それは、快不快の個我の自然から超越していて、合理性をもった普遍的客観的で全体(個我超越の大我や社会全体)にかなう方向へと個我を振り向けていく。その個我の自然が反理性・反普遍・反真理の方向に向かうようなときには、これを理性精神は抑制できる。この、個我・感性の愚行を抑えて理性的意志を貫くのは、そういう人の尊厳を貫くのは、苦痛甘受の忍耐をもってである。

辛苦に耐え安寧の未来を求めるキリスト教など

2019年07月05日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-4-3. 辛苦に耐え安寧の未来を求めるキリスト教など
 忍耐を必要とするような状態が重なると、ひとは、この世は苦に満ち満ちていると嘆きたくなる。仏教のみでなく、キリスト教でも神道でも、神仏にすがりつきたくなるのは、苦が耐え難くなるときである。仏教は、苦を無化するが、ほかの宗教では、苦をもっと積極的なものとみなす。神頼みをするとき、普通は、(この世の忍耐が成果を生み出す道理が、神にも通じるとみて)宗教的な苦痛に忍耐して願を成就しようとする。願を受け入れてもらうために、毎日神社仏閣にでかけお百度を踏む苦労もする。その苦を手段としてそれに見合う願を実現してもらおうというのである。人柱・人身御供も、多大な犠牲を払うことで、願いを神々に聞いてもらおうということであった。苦痛を手段にしての目的の成就であるが、この世でのそれは、大体、価値ある目的へと実在的につながっている。だが、あの世の神々とのかかわりでは、苦痛は現にあるが、成果は単なる願望である。多くの場合、単なる気休めと心得ており、願不成就も覚悟しているのが普通である。ただし、ときには、不成就の場合、神に怒りをぶつけて、ご神体を泥水に投げ入れてうさばらしをするようなこともあった。
 この世の辛苦を忍耐するということでは、キリスト教は、典型的な宗教的な解釈と実践をもっている。キリスト教では、この世の不幸・苦労は、あの世の至福のためにあるという。この世で苦痛を甘受して忍耐することをもって、あの世で幸福が得られるという。したがってこの世の苦・不幸は、実は幸福なのだということにもなる。あるいは、この世の災難は、神が自分を選んで与えてくれた試練と解釈してうけいれる。その苦痛に神を見出すようなことになる(他人の子は無視しても、かわいいわが子であればこそ、嫌いなニンジンを我慢させる)。かりにこの世で苦労と忍耐に見合うものが獲得できないとしても、苦労・苦難の一生であっても、それはあの世への貯金となるもの、積善として受け止めることになる。打ち続く苦痛・不幸に不足を言わずこれに耐えていこうという姿勢を最期まで持ち続けることができる。この世の不幸・悲惨の先をたどっていくとこの世の支配者の金庫につながっていると啓蒙家はいうが、信者は、あの世での至福につながっているという説教の方をありがたがる。