喜び・悲しみや希望・絶望では、対立感情は互角となる 

2023年12月26日 | 苦痛の価値論
3-7-1-2. 喜び・悲しみや希望・絶望では、対立感情は互角となる
 絶望や悲しみ(苦痛)の反対の希望・喜び(快)は、皮膚の快とか危険への安心とはちがって、無でも一時的なものでもなく、その快感情は、反対(苦)の感情と対等かそれ以上に積極的に感じられるものであろう。それらの快・苦(不快)の感情は、対等に存立し、相互にしっかりと際立たせあうものにもなる。
 喜びと悲しみは、価値物の獲得と喪失の感情であろうが、ここでは、苦痛の悲しみに対応した積極的なものとして喜びの感情がある。皮膚でいえば、冷覚と温覚のように、価値をめぐって、その獲得と喪失の二つを独立した感情が担っている。皮膚の苦痛感情の場合、その無は無感情であり、安心・不安では、危険(の可能性)への不安が中心で、それのなくなった消極的感情として危険の無を安心と感じる。だが、喜び・悲しみでは、価値の獲得と喪失の事態への感情として、それぞれが独立的にいだかれる。価値を新規に獲得すれば、喜びの感情となる。価値を奪われ、喪失すれば、悲しみとなる。皮膚の痛みとその無、危険への不安とその無の安心では、マイナスになるかそれがゼロに回復するかを測る感情だが、喜び・悲しみは、プラスの価値になるか、マイナスの反価値(価値の剥奪)になるかである。喜びと悲しみは、心身の伸張と萎縮の反対の反応をもって相互に際立たせあうが、それは同一人における同じ価値物をめぐっての対立感情になることは少なかろう。一人の者が別々のことで喜悲の感情をいだく。それでも、同じように反対の反応を心身はするから、相互に際立たせるとともに、相殺しあいもする。
 希望と絶望の感情の場合、絶望がより強く感じられることでは、普通の苦痛感情と同じであろう。だが、絶望(苦痛)がなくなったからといって、不安の解消で安心がなるようにはならない。絶望や悲しみ自体は、無化しても、希望や喜びは生まない。独立した反対感情である。喜びの感情が生じるには、単に喪失が無化するだけではなく、積極的に価値物が新規に獲得されることが必要である。絶望の場合も、暗黒の絶望が無化しただけでは、おそらく、希望は生じない。もっとも、絶望の場合は、喜び悲しみとちがい、絶望の無化がなるには、暗黒の精神状態にかすかな希望の光が見えることが一番であろうから、絶望の無化は、即希望となる場合が多いだろう。絶望の無化によって希望が生じるのではなく、希望が生じてきたから絶望が無化するという展開である。絶望は、希望を必死に求め、希望を際立たせる。希望も、未来にあるから、放置しておくと絶望の結果になる可能性があり、絶望を意識する。絶望・希望の相互が相互を際立たせる。

不安・安心と、皮膚の痛み・快の異同

2023年12月19日 | 苦痛の価値論
3-7-1-1. 不安・安心と、皮膚の痛み・快の異同 
 不安・安心と、皮膚の痛み・快では、それぞれの後者、安心と皮膚の快は、痛み・不安があって、これの消失したことにいだく快になる。安心の方は、よく意識する快感情だが、皮膚の良好状態は、快と意識するような積極的な感情とはならないのが一般であろう。皮膚の場合、その安心に相当する快適な状態は、通常は無にとどまる。
 不安は危険の可能性にいだくもので、それがなくなった状態は、安心・安堵として積極的に快感として成立する。だが、皮膚の場合、損傷に苦痛を感じるけれども、それが解消できている状態は、苦痛がないだけで、快を積極的に感じることはなかろう。皮膚には痛覚はあるが、冷覚に対する温覚のような、対立的な快覚はない。不安のなくなった反対の安心はあるが、皮膚の痛みのなくなった状態は、本質的には無にとどまるのではないか。痛みが消えた瞬時は、痛みでの緊張を解いた弛緩の感覚はもつだろうが、皮膚自体に積極的な快を感じるほどのことはないだろう。皮膚においては、痛覚とその痛み(の感覚と感情)はあるが、それを解消した苦痛の無の皮膚は、快覚をもたず、快感という感覚や感情はもたない。もっとも、痛み解消のときは、身体は緊張・萎縮の苦痛反応を解いて弛緩の快反応をするだろうし、脳内にはおそらく快楽系のホルモン分泌等があるだろうから、その点でいえば、快であろうか。ただ、それを、痛みと違って、損傷(の解消)部分に投影しないだけというべきかも知れない。
 かりに、痛み(損傷)のない部位に快感情をいだくのだとすると、損傷のない無事の皮膚が一斉に快を感じることになる。到るところからの快感に圧倒されて、何も手につかないことになってしまうであろう。皮膚の無事の感覚・感情が無であるから落着いた生の営為は可能になっているのである。同じ皮膚での触覚とか温覚・冷覚では、快がそれ自体として感じられることがある。が、損傷の有無の、痛みとそれのない快適な状態では、快は痛みに対応するその部位の感覚を有さない。苦痛のなくなった緊張解除の弛緩状態を全心身で快と感じることはあろうが、これをその痛みのなくなった部位に投影することはない。せいぜい、痛みの緊張・萎縮等の反応の残像が残っている間だけの弛緩の自覚としての快にとどまる。くすぐると触覚が特殊なかたちで発動して快となるが、これは、苦痛の無の特殊な在り方であろう。つまり、痛みになりそうでならない痛みの無を当該の部位に触覚をもって感じ取ったものではないか。この痛みの特殊な無、くすぐったさの快のようなものが全身から湧き上がるようでは、痛み以上に苦しいことになってしまう。
 これに対して、安心の方は、皮膚の痛みの無とちがい、独立した感情として存在する。不安のない状態は、単に無ではなく、安心・安堵の感情となる。危険に対して不安・恐怖をいだいて、これに火急の対応をする。その危険がなくなった状態は、無ではあるが、意識されて安心という感情をもつ。危険がないという無は、心身の危険への緊張・萎縮の不快を解除して、それを弛緩・伸張という快の心身反応とする。快感となる。それが安心・安堵の感情である。危険について、それは、一時なくなったり、当分構えを不要にするようになるとしても、再度その危険が生じる可能性もあることであれば、それへの意識を常々もつ。原発への安全・安心は、危険が完全には消えず根底に残っていての安心である。原発が存在しない(危険の不可能、ゼロの)場合は、それへの安全も安心も存在しない。危険の可能性(不安)を踏まえていて、さしあたり、それのないという状態が安全であり安心である。その意識が、当分危険の可能性なしと判断すれば、危険は根底にあり続けているが、これをゼロとみて安全との判断をし、感情的には、安堵安心の弛緩・伸張の構えをとることになる。それも、長くなれば、その危険を思わなくなり、その段階になると皮膚の損傷の無と同じく、これを安心感情とすることもなくなる。

不安は、安心を際立たせる

2023年12月12日 | 苦痛の価値論
3-7-1. 不安は、安心を際立たせる  
 味覚での不快の苦味は美味の甘味を際立たせるが、精神的生においても、苦痛は快を際立たせる。不安があるから、安心・安堵の快が際立つ。安心に慣れたら、それへの感情はもたなくなり、安心感はことさらにはいだかない。だが、不安があると、その不安の苦痛をなくしたいと思い、それが実現できたときには、安堵・安心の感情を強く感じることになる。
 逆のばあいは、どうであろう。安心・安堵があるから、不安の苦痛をより強く感じるということが言えるであろうか。ふつうは、不安は、安心が先行するしないにかかわらず、危険の可能性を見出せば感じる苦痛である。安心があったから、ことさら不安を強く感じるということはないのではないか。安心は、続いている場合、無となる。意識して感じることがなくなる。多くの場合、その無の状態の後に不安は成立するから、安心があってその快に比して不安の不快・苦痛が大きく感じられるということはなかろう。安心を感じる状態は、まだ危険や不安の残像がある段階であろうから、危険への構えをまだ残している。したがって、安全・安心を感じているところへ不安が生起した場合は、不安を少し小さく感じることになるかも知れない。危険のない安心が続いていた場合は、安心自体を感じることがなくなり、この無は、危険・不安への構えを大きく後退させる。そこに不安が感じられるときには、むしろ、これに過剰な対応をして大きな不安を抱くことであろう。
 皮膚の痛覚刺激での苦痛とそれのない無(痛)は、もっと極端で、苦痛がない状態は、快であるというより、無感覚状態である。そこに生じる苦痛は、無に続いての刺激であり、苦痛がありのままに、増幅・縮小なしに感じられることである。逆に苦痛があって、とげが刺さったり、火傷しそうな強い熱への痛みがあって、これがなくなった場合、緊張を解き、快を抱く。苦痛があることで、その無が、苦痛の残像がある限りで、快となる。苦痛は、苦痛がないという快を際立たせる。だが、皮膚の快自体が苦痛を際立たせることは一般的ではなかろう。皮膚は、何もなければ、無感覚・無感情状態になる。仮に、皮膚の良好な状態自体に快をいだくのだとすると、全身から快が沸き起こって手が付けられなくなることであろう。順調であれば、皮膚の快などは無となって、損傷を受け不調になったところのみが、警告の苦痛を発すればよいのである。そういうところでの快は、不快・苦痛が消失したことを知らせる消極的なものであり、苦痛のない状態がそれ自体で快と感じられるものではなかろう。皮膚には、痛覚はあっても快覚は存在しない。快との対比においてではなく、皮膚の痛みは、(感覚・感情の)無の状態から生じるのである。
 不安・安心の感情は、皮膚の苦痛感情と類似的で、安心(快)だけでは存在せず、不快感情の不安があって、これがなくなるということで、不安の苦痛が安心をもたらす。安心が定着したら、皮膚の損傷(苦痛)消滅の安堵と同じように、安心感情自体も消える。不安という苦痛感情は、安心を切実に求め、これが可能になるところでは安心感情を強く感じさせる。逆の安心感情があるところでは、危険・不安の残像があっての安心だから、不安・危険への構えを残していて、不安に対して過剰反応せず、むしろこれを小さく感じるのではないか。

苦痛は、ときに快を際立たせる価値をもつ

2023年12月05日 | 苦痛の価値論
3-7. 苦痛は、ときに快を際立たせる価値をもつ   
 苦痛・不快は、快を際立たせるために使われることがある。甘さを際立たせるために塩をつかう。美味をしっかりと出すために、それ自体は不快な苦味や酸味を加える。苦味、酸味は、それら自体は、不快なもので、強ければ苦痛となる。だが、その不快な酸味などをほどほどに感じる場合は、同時的に進行している美味が際立つ。その不快・苦痛と対比して快楽が強調されて意識されるのであろう。さらに、不快な苦みや酸味を甘みにミックスすると独特の美味(快)ともなる。
 逆に、不快な味わいが美味のものとの比較で強く感じられる場合もある。甘い食べ物と酸っぱいものとでは、食べる時、酸っぱいものを先にした方がいいという。甘味があったあとに、酸味がくると、この酸味が強く感じられ不快となる。逆であれば、酸味が甘味を引き立ててより美味しくさせる。美味しい物と不味いもの一般について、これはいえる。美味しいものを食べたあとに不味いものを食べるとそのまずさが際立つ。快が不快・苦痛を際立たせる。不味くても比較なしなら、食糧不足の時代にはよくあったことだが、空腹時だと満足できたことである。そして、のちに、美味と言われるものを口にすれば、比較して、美味が強調される。苦痛が快を際立たせる。
 寒くて苦痛のとき、暖かな部屋に入ると、快適である。寒さの不快感の残っている間、あるいは、暖かさに慣れて快でなくなるまでの間、寒さの不快感は、暖かさへの快を感じさせる。だが、暖かさを感じていても、そのことが長くなり当たり前のことになって、それが寒さの不快刺激と対立的に意識に上らない状態になっていると、快も消失する。反対に、暖かい快適な部屋から寒いところへ出ると、その寒さの苦痛が強く感じられる。対立する快不快の感情は、その対立する感情の残像があるかぎりでは、現に感じている快不快の感情をより際立たせることになる。
 精神的レベルの感情においても、対立する快不快の感情が相互を際立たせることがあろう。絶望は希望を際立たせる。戦争などの悲惨な状態で絶望的になっているときは、小さな希望でも、際立ってくる。喜び・悲しみも、並んでいたら相互を際立たせる。おみくじには凶が入れてある。みんな大吉が出るようにしていたのでは、喜びは薄れる。凶を引いたひとを見れば大吉の喜びは大きくなる。逆の凶を引いたひとも、みんなが凶ならば悲しさはさして大きくもならないであろうが、吉を引いた者を見たら、自身の凶を一層悲しく思うことになろう。