2-5-5-2. 苦痛の原因に対決することで、苦痛を生じる場合も多い
欲求を抑制する場合、そのはじめは、欲求が小さければ苦痛ではなかろう。だが、抑制をつづけていると、欲求不充足の不快が生じてきて苦痛になってくる。こういう段階からは欲求抑制の持続は、困難度をまし、それを維持していくには、生じ始めた苦痛を回避せず受け入れていく意志が発動しなくてはならない。苦痛甘受の忍耐の登場となる。その忍耐を続けるということは、苦痛を受け入れ続けることであり、それは、しばしばより大きな苦痛になってもくる。呼吸では、はじめはその欲求の抑制を不快と感じないか、あってもごく小さいが、これを抑制しているとだんだんと苦痛になってきて、苦痛になる段階から忍耐が必要となってくる。忍耐を続けていると、苦痛はどんどん大きくなっていく。苦痛を回避しない忍耐の意志が苦痛をもたらしていると言いたくなる。
外的な傷害でも同様な場合があろう。まず、小さな傷害があっても痛まないのなら、これから逃げようというような気にもならず、忍耐はいらないであろう。忍耐がいるのは、その傷害が大きくなって苦痛が深刻になりはじめてからである。忍耐しないのなら、その苦痛・傷害からは逃げて、苦痛を被ることはない。忍耐するから、苦痛が顕在化し大きくもなる。忍耐が苦痛を招いているとも言える。
いやなことをいやがらず、ほしいものをほしがらず、という振舞い・態度を持続させていると、この態度を続けて行ける限度になってくることが多い。それを知らせるのが苦痛である。この苦痛という限度をさらに超えていくことがひとにはできる。自然を超越して苦痛を甘受しつづける、忍耐である。欲求・反欲求という原因があって、それを抑制する営為の中で苦痛が生じることになると、その持続には忍耐が必要となる。忍耐は、主観に生じたこの苦痛に耐える。苦痛を回避しても問題ないのに、そうせず忍耐するのだとしたら、苦痛生起の責任は、忍耐する者の意志にあるのであり、忍耐が苦痛をもたらしていることになる。
欲求を抑制する場合、そのはじめは、欲求が小さければ苦痛ではなかろう。だが、抑制をつづけていると、欲求不充足の不快が生じてきて苦痛になってくる。こういう段階からは欲求抑制の持続は、困難度をまし、それを維持していくには、生じ始めた苦痛を回避せず受け入れていく意志が発動しなくてはならない。苦痛甘受の忍耐の登場となる。その忍耐を続けるということは、苦痛を受け入れ続けることであり、それは、しばしばより大きな苦痛になってもくる。呼吸では、はじめはその欲求の抑制を不快と感じないか、あってもごく小さいが、これを抑制しているとだんだんと苦痛になってきて、苦痛になる段階から忍耐が必要となってくる。忍耐を続けていると、苦痛はどんどん大きくなっていく。苦痛を回避しない忍耐の意志が苦痛をもたらしていると言いたくなる。
外的な傷害でも同様な場合があろう。まず、小さな傷害があっても痛まないのなら、これから逃げようというような気にもならず、忍耐はいらないであろう。忍耐がいるのは、その傷害が大きくなって苦痛が深刻になりはじめてからである。忍耐しないのなら、その苦痛・傷害からは逃げて、苦痛を被ることはない。忍耐するから、苦痛が顕在化し大きくもなる。忍耐が苦痛を招いているとも言える。
いやなことをいやがらず、ほしいものをほしがらず、という振舞い・態度を持続させていると、この態度を続けて行ける限度になってくることが多い。それを知らせるのが苦痛である。この苦痛という限度をさらに超えていくことがひとにはできる。自然を超越して苦痛を甘受しつづける、忍耐である。欲求・反欲求という原因があって、それを抑制する営為の中で苦痛が生じることになると、その持続には忍耐が必要となる。忍耐は、主観に生じたこの苦痛に耐える。苦痛を回避しても問題ないのに、そうせず忍耐するのだとしたら、苦痛生起の責任は、忍耐する者の意志にあるのであり、忍耐が苦痛をもたらしていることになる。