「毅然」とちがい、攻撃性も有する「大胆さ」

2012年05月31日 | 勇気について

4-2-2-2.「毅然」とちがい、攻撃性も有する「大胆さ」
 危険なものを前にしたとき、これに対決姿勢をもつあり方に、大胆さと、もうひとつ、「毅然」とした姿勢がよく言われる。大胆は、その危険を小と見なして危険に無頓着な態度で、毅然は、その危険が迫ってきた場合、それによる被害や妨害を断固として拒否する強い姿勢であろう。
 大胆さは、危険な脅かすものを前にして、これに怯えることなく、堂々と対決する姿勢をもつ。危険をものともせず、これにかまわず事を進める大様な姿勢である。「大胆なファッション」は、自分に自信があって、危険・非難が多いとしても、そのことに臆しひるむことなく、非難殺到を覚悟し、安全など度外視してするものである。そこでの批判非難に無頓着なのが、大胆である。大胆さは、危険の排斥にも無頓着でその被害が生じても、些細と無頓着に放置することになろう。これに比して、毅然とした態度は、大胆とちがい、危険に無頓着ではなく、どちらかというと過敏で、少しの危険も許さない厳しさをもつことになろうか。批判・非難で不当と思うところは断固として拒否し、自己をしっかりと防衛する姿勢をもつものになろう。
 「毅然」とすることと大胆さは、危険なものへの対決姿勢として似通ったものがあるが、相違も大きい。毅然とした態度は、受動的であり、攻撃的なものではない。大胆さの方は、攻撃的な対決姿勢でもある。領海侵犯でいうと、侵犯されそうな側は、毅然として対処する。侵犯する攻撃的な方は、毅然と侵犯するのではなく、(危険を冒して)大胆に侵犯するのである。毅然として対応する場合も、もちろん、危険に対してこれに臆することなく、ひるむことなく断固として対応し、危険を排撃することになるが、根本的に受身であり、自身から攻撃的に出るものではなかろう。身に降りかかる火の粉・危険は断固排除しようという姿勢であって、自身から攻撃にでることを意志しているものではない。だが、大胆さは、その受身に限定するというしばりはない。はじめから攻撃的であってよい。
 「毅然」とした態度は、根本において、防御的で受動的ではあるが、その妨害・危険の排除の意志自体は、強力である。そういう妨害・侵害等は断じて許さないという強い意志を毅然という態度はもっている。毅然とした態度には、他を侵そうというような攻撃性はないが、侵害・妨害を徹底的に排除するということでは、攻撃的になることも辞さない勢いがある。ただし、あくまでも、侵害を排除する点までで、それを越えて侵略的攻撃的になるものではない。その点では、大胆の方には、強い意志での対抗ということはかならずしも含まれていない。単に危険について無頓着で気にしないという態度がその中軸になろう。なお、攻撃的勇気で、大胆とならぶ果敢さの方は、強い意志からなる。毅然どころではない、激しい攻撃意志を貫徹するのが果敢さの勇気である。


.「大胆さ」は、危険と対決しなくてはならない。

2012年05月28日 | 勇気について

4-2-2-1.「大胆さ」は、怖じないだけではなく、危険と対決もしなくてはならない。
 大胆さは、恐怖を無視できることにある。危険な恐ろしいものに対して、これに怖じず臆さず大胆になるのである。では、恐怖がゼロになった状態なら大いに大胆になるのかというと、恐怖がないところでは、勇気の大胆自体もいわれなくなる。蛇を手の上にのせているひとが大胆と形容されるのは、蛇を怖いと思っているひとに限られる。蛇の好きなひとがそうしていてもだれも大胆とは見なさない。ましてや当人は、愛着しているへびなのに、勇気をふるって大胆になっているという意識などもつはずがない。大胆さは恐怖をもっていてのものである。恐怖を心にいだきつつ、これをものともしないで、小とみなし、その恐怖にとらわれないのであり、これを度外視する、大きな心(胆)をもつのである。
 へびに臆さず、この恐怖を抑制できていることが大胆さには求められるが、それだけでは、大胆には不足する。それで終わるのなら恐怖に忍耐する勇気にとどまる。大胆さには、これをふまえて、さらに、そとの危険なものへの積極的な対応がなくてはならない。危険と積極的に対決していき、必要なら危険を排除しようという能動的な対応が求められる。へびに大胆になるひとは、単に恐怖を制御できているだけではなく、大胆に何かをするのである。へびのそばを平然として通ってなすべきことをなすとか、へびに触れたり、これを首に巻いたりといった能動的な行為にまででるのである。もちろん、好きではなく、怖いのだから積極的に頬擦りをするような行為ではなく、警戒心をいだきつつ、必要な限りでの行為をなすのである。
 恐怖にしっかり忍耐できている受動的な状態は、「動じない」「平然としている」「胆が太い」といった形容で表される。だが、それだけでは、まだ大胆ではなかろう。恐怖をもたらすそとの危険と対決する構え・振る舞いをあわせ持ってはじめて、「大胆」となるのである。「度胸がある」ということをこの対決姿勢にいうことがあるが、これはまだ、恐怖の抑制の方に注目したものであろう。対決姿勢自体を言い表すよりは、そこでの恐怖への忍耐を評価しているのではないか。手術台にのった患者は、「大胆」ではなく、おびえず平然としていて「度胸がある」と言われるに留まる。受身であり恐怖の忍耐が中心になる。かれに大胆さがストレートには言いにくいのは、まな板の上の鯉になった状態では、手術の危険については、これと積極的に対決する能動性はもてないからであろう。手術で「大胆」になるのは、なるとしたら、危険と能動的に向き合う医者の方になる。手術に失敗して死なせる危険があるが、賭けてみようと大胆になるのである。大胆さは結果として大禍をもたらすかもしれない。それを覚悟した危険との積極的な対決である。


危険に無頓着な大胆さ

2012年05月24日 | 勇気について

4-2-1.危険に無頓着な大胆さ
 大胆さは、危険について、これを小・些細と見なし、取るに足りないと軽視して、頓着せず、危険を平然と冒す姿勢をもつことであろう。一言でいうと、「危険に無頓着なこと」である。
 大胆さは、その危険の度合いによって区別立てできよう。ひとつは、危険の可能性はあるが、まだ現実的でない場合である。熊が出る山に登るというとき、現に出合っているのではないが、その可能性はあるという場合である。そこには、危険情報など無視して平然と登山をするといった、危険に無頓着な大胆さがある。危険があることは知っているが、まず出合うことなどなかろう、そんなものは、どうでもいいと、頓着しないで、自分の目的行動を突き進めていくのである。
 さらに大胆なのは、危険が実際に生じているのに、これを無視する大胆さである。大分先に熊を見つけた状態で、これを避けるのでなく、この熊のいる方にと、目の前にある危険を冒す行動をとることである。その危険が現実化することなど平気だ、熊も突然だと襲ってくるが、早めに気づかせるなら逃げていく、危険は小さい、と危険を冒し、これに無頓着な大胆さである。
 危険度が大きいと自覚しつつ、これを冒す大胆さもある。その危険が現実の禍いになっても、大したことではないと無頓着に留まるのである。さらに、深刻な禍いになると自覚しても、冒してでも進まなくてはならない場合もある。それを覚悟して危険を大胆に冒すのである。ここでは、単純に危険に無頓着とはいかないであろう。それでも、その覚悟は、危険・禍いに無頓着な面をもっていて大胆なのである。深刻な事態にくよくよせず、気に病まないで、平然と危険と禍いを甘受する心構えである。これもまた無頓着な精神をもって対応する大胆さになるであろう。
 現に迫ってくる危険を冒す大胆さは、果敢と重なることがある。果敢に戦うに際して相手からの反撃などの危険が生じるとき、この危険に怯まず頓着しないで、些事と見なして、大胆に対決していくような場合である。大胆に(危険を冒し、防御を軽視して)、果敢に(激しく闘志を燃やして)攻撃を進めていくものとなる。 
 大胆さは、危険を無視し頓着しないが、危険なものへの対決的姿勢は常にもっている。まったく危険への意識がないのなら、それは、勇気でも大胆でもなかろう。強者が弱者に対するとき、危険はないから、危険の意識はもたないが、その危険意識の無、平静状態を大胆とはいわない。ネコは、ネズミに対しては、大胆になることは不要である。大胆という以上は、危険があり、なんらかの形で危険への意識があるというべきであろう。ネズミは、ネコには、大胆になる必要がある。危険への対決意識をもちつつ、その危険は小、取るに足りないと見なすのである。大胆さの無頓着は、危険でありつつ、これに拘泥しない、とらわれないという、その危険と危険意識を突き放した、対決的な精神をもった無頓着さなのであろう。


大胆不敵の勇気-危険・恐怖をものともしない大胆さ

2012年05月20日 | 勇気について

4-2. 大胆不敵の勇気-危険・恐怖をものともしない大胆さ
 危険なものは、放置しておくと、禍いをもたらす。勇気は、危険への恐怖を制御するとともに、危険なもの自体と対決する姿勢をもつことが必要となる。大胆といわれる姿勢がこれになる。大胆の勇気は、危険なものを前に、これに臆することなく、なすべきことを平然として展開していく姿勢をもつ。心中の恐怖を忍耐する心中の勇気ではなく、それを前提にしつつ、そとに心を向けて外の危険なものと対決するという積極的な勇気である。
 「大胆」は、危険なものと対決する勇気である。これに相当する勇気のあり方をヨーロッパでも似たことばで「magnanimitas」(magnus=大 animus=心)と表現している。大胆とは、大きな心(胆)である。うちにと小さく萎縮する恐怖した心(小心状態)とは反対で、これを抑制して大らかに、外向きになり、危険なものに堂々と対決するのである。危険なものは、恐怖する者にとっては、禍いをもたらす可能性をもった大きな存在である。この危険と対決することができるには、それに見合う大きな存在にと勇気ある者がならなくてはならない。強い危険なものを排撃するには、強い力が必要だが、大胆さをもって対決する時点では、そこまでは、まだ、求められないのであろう。強いことは、実際に排撃的に対決してわかることである。だが、大胆さのレベルでは、なお、危険なものと果敢な戦いを挑むまでには至らなくてよい。「ひるまないぞ」と対決姿勢を示すのである。強いかどうかは不明だが、そとから比較してみて、大きさとしては、危険なものに対決できる大きさになっているのが大胆という姿勢になるのであろう。動物は、戦うとき、まずは、威嚇して自分をできるだけ大きく見せかける。戦闘的に「強」胆にまでは先鋭化してなくて、外的に対決姿勢をしめしての「大」胆ということである。
 大胆になるとき、ひとは、危険なものと対等になるのみでなく、むしろ、危険なものを些細なもの、敵とするまでもないものと見下している。大胆不敵である。その大胆の「大」は、危険なものを「小」と見なす大である。ふつうなら、その危険なものに対してひるみ臆するものを、大胆な者は、小と見下して、ものともしない態度をとる。
 大胆さは、恐怖の危険をものともしない、危険への無頓着の態度をもつのだが、果敢の勇気に比しては、なお、恐怖の余韻をのこし、これにとらわれているところがある。「大胆なふるまい」と「果敢なふるまい」のちがいである。果敢さは、激しく突進する攻撃性を指し、恐怖を抑えてなどということはもう吹き飛んでいる。だが、大胆なふるまいは、危険に対して恐怖することになるものを、それを軽視・無視してと、恐怖をふまえこれを抑圧してということで、なお、恐怖の痕跡をとどめる。恐怖などなんでもないと踏ん張っている状態である。「大胆なファッション」は、批判・非難の危険を想定しつつ、それへの恐怖を前提にし、なんらかの形でこれを気にしつつ、しかし、これにとらわれず、ものともしないでと、対抗的になった挑発的で過激なファッションであろう。


勇気は、危機・危険をチャンスにする。

2012年05月17日 | 勇気について

4-1-9.勇気は、危機・危険をチャンスにする。
 大胆と果敢は、危険への異なった関わりになることがある。果敢にという場合は、すでに危険なものが現前していて、これに勇猛果敢に闘志を燃やすのである。だが、「大胆な」という場合は、そういう危険がなお存在しないときにもいわれる心構えになる。つまり、そこでは、ことさらに動かなければ、平穏無事な状態にあるのである。大胆に振舞うということは、わざわざに危険を背負うことをする、危険を呼び込むということである。そうするのは、その危険を呼ぶことになる行動が、大きな価値をもたらすからである。その価値獲得のためになら、新規の危険も買って出ようというのが、大胆という勇気にはある。いわゆる「虎穴にいらずんば虎児を得ず」である。
 大胆な勇気をふるって、いまにも落ちそうな朽ちた橋を渡る危険を冒すことがある。もし、その渡河によって大きな価値獲得がなるのでないとしたら、だれもそういう危険を冒そうという者はいないであろう。危険を手段として、目的としての価値獲得がなるから、危険をあえて背負うのである。危険・リスクを背負わないなら安泰だが、好機をのがすことになる。大胆さは、リスクをひきうけ、その好機をものとするのである。
 チャンスは、リスクを背負うことでめぐってくる。賭けである。リスクの大きさと価値獲得の大きさ、そのチャンスの大きさを計算して、理性の勇気は、これに賭ける決断をする。そこでは、リスク・危険が現実化することへの不安・恐怖をいだく。この恐怖に耐えこれを抑制して、躊躇しがちのところを、断固として危険に賭ける勢いをもつのが、大胆という勇気になる。リスクをもっての大胆な取り組みでは、かならずしも、リスク・危険は現実化しない。賭けだといっても、危険を放置して待つことはないのである。危険を回避できる方法をさぐりつつチャンスを実現していく。うまく展開できれば、危険は現実化しないで犠牲なしで価値獲得がなる。場合によっては、ある程度の犠牲を払って、目的が成就することもあろう。肉を切らせて骨を切る、である。
 大胆さは、危険に無頓着で、危険となることを回避しないのだが、なお、危険の現実化していないことがある。が、果敢は、現にある危険を排撃することへの激しい闘志である。勇猛果敢に戦いをすることで危険を排除し、禍いを被ることを防ぎ、価値剥奪となることを阻止する。それがめざすのは、危険の無化であり、安全・安心である。その点では、消極的な結果になるが、危険の排撃をもって、新規のチャンスを招くこともあるのは大胆の勇気と同様である。猛犬に襲われて果敢に対応する場合は、価値剥奪を阻止するだけで、チャンスとなるものではない。だが、不況で倒産とか解雇という事態を前にして、その禍いなりその危険に対して果敢に対応するなかでは、新規の道を見出し、未来へのチャンスをそこに作っていくことを意識しているものでもあろう。