3-2-5. 忍耐での手段の苦痛は、目的実現を確実にする
忍耐では、苦痛を手段として受け止めて、これから逃げず、苦痛甘受を不可避のステップにして、価値ある目的を実現していく。目的の手段としては、かならずしも苦痛がなくてはならないわけではない。その手段が快であれば、楽に目的が実現されるから、それに越したことはない。だが、目的のための手段の過程が、かりに快になるものだった場合、その快に埋没して、先に進まないことが時に生じる。目的に進むことがひとの多くの営為では大切になるが、快を手段においた場合は、快に安住して、目的は放置されることになりかねない。
目的実現が最大の価値であれば、これの実現にかならず向かうようにと手段を設定しなくてはならない。その点で、手段が苦痛の場合は、これがスムースとなる。手段が苦痛だとすると、苦痛はできるだけ早く終わりにしたいので、この手段の過程で落ち着いてなどいないで、早々に片づけて目的へと駆り立てられていくからである。もちろん、苦痛回避の衝動は大きいから、場合によると、忍耐の手段を手際よく進めて目的へと向かうのではなく、横道にそれたり、手段の苦痛を回避して忍耐自体を放棄するようなことも生じる。そういう逃げ道をふさいでおれば、残された道は、目的実現の道のみとなって、全力を尽くして苦痛から逃れようと目的に向けて邁進することとなる。
実際的効果的なやり方は、苦痛を適度なものにすることであろうか。激しい苦痛では、へこたれたり、その忍耐の手段を放棄して逃げることになる。といって快にしたのでは、それにのめり込み充足してしまって動かなくなる。ほどほどの苦痛をもってして、目的実現でその苦痛はなくなることをはっきりさせ、目的実現の価値の大きいことを自覚させて、苦痛の手段の過程を急いで片付けさせることであろう。
これは、長期に渡る忍耐でも同様である。人生に不如意で苦労する者は、苦労をはやく抜け出したいと、その先の価値ある未来へと自身を駆り立てていく。安楽に生きた者は、その結果は、よくない。三代目は家をつぶすという。安楽に成長した者は、その安楽に埋没してしまい、先へと進めることがなくなりがちである。その点、苦難に耐えて成長する者は、これを克服して、よりよい生へと自身を懸命に駆り立てていく。同時にその苦難の過程において、創意工夫もして自身の能力を開発もしていくから、差は大きくなる。
忍耐では、苦痛を手段として受け止めて、これから逃げず、苦痛甘受を不可避のステップにして、価値ある目的を実現していく。目的の手段としては、かならずしも苦痛がなくてはならないわけではない。その手段が快であれば、楽に目的が実現されるから、それに越したことはない。だが、目的のための手段の過程が、かりに快になるものだった場合、その快に埋没して、先に進まないことが時に生じる。目的に進むことがひとの多くの営為では大切になるが、快を手段においた場合は、快に安住して、目的は放置されることになりかねない。
目的実現が最大の価値であれば、これの実現にかならず向かうようにと手段を設定しなくてはならない。その点で、手段が苦痛の場合は、これがスムースとなる。手段が苦痛だとすると、苦痛はできるだけ早く終わりにしたいので、この手段の過程で落ち着いてなどいないで、早々に片づけて目的へと駆り立てられていくからである。もちろん、苦痛回避の衝動は大きいから、場合によると、忍耐の手段を手際よく進めて目的へと向かうのではなく、横道にそれたり、手段の苦痛を回避して忍耐自体を放棄するようなことも生じる。そういう逃げ道をふさいでおれば、残された道は、目的実現の道のみとなって、全力を尽くして苦痛から逃れようと目的に向けて邁進することとなる。
実際的効果的なやり方は、苦痛を適度なものにすることであろうか。激しい苦痛では、へこたれたり、その忍耐の手段を放棄して逃げることになる。といって快にしたのでは、それにのめり込み充足してしまって動かなくなる。ほどほどの苦痛をもってして、目的実現でその苦痛はなくなることをはっきりさせ、目的実現の価値の大きいことを自覚させて、苦痛の手段の過程を急いで片付けさせることであろう。
これは、長期に渡る忍耐でも同様である。人生に不如意で苦労する者は、苦労をはやく抜け出したいと、その先の価値ある未来へと自身を駆り立てていく。安楽に生きた者は、その結果は、よくない。三代目は家をつぶすという。安楽に成長した者は、その安楽に埋没してしまい、先へと進めることがなくなりがちである。その点、苦難に耐えて成長する者は、これを克服して、よりよい生へと自身を懸命に駆り立てていく。同時にその苦難の過程において、創意工夫もして自身の能力を開発もしていくから、差は大きくなる。