忍耐での手段の苦痛は、目的実現を確実にする

2022年12月27日 | 苦痛の価値論
3-2-5. 忍耐での手段の苦痛は、目的実現を確実にする
 忍耐では、苦痛を手段として受け止めて、これから逃げず、苦痛甘受を不可避のステップにして、価値ある目的を実現していく。目的の手段としては、かならずしも苦痛がなくてはならないわけではない。その手段が快であれば、楽に目的が実現されるから、それに越したことはない。だが、目的のための手段の過程が、かりに快になるものだった場合、その快に埋没して、先に進まないことが時に生じる。目的に進むことがひとの多くの営為では大切になるが、快を手段においた場合は、快に安住して、目的は放置されることになりかねない。
 目的実現が最大の価値であれば、これの実現にかならず向かうようにと手段を設定しなくてはならない。その点で、手段が苦痛の場合は、これがスムースとなる。手段が苦痛だとすると、苦痛はできるだけ早く終わりにしたいので、この手段の過程で落ち着いてなどいないで、早々に片づけて目的へと駆り立てられていくからである。もちろん、苦痛回避の衝動は大きいから、場合によると、忍耐の手段を手際よく進めて目的へと向かうのではなく、横道にそれたり、手段の苦痛を回避して忍耐自体を放棄するようなことも生じる。そういう逃げ道をふさいでおれば、残された道は、目的実現の道のみとなって、全力を尽くして苦痛から逃れようと目的に向けて邁進することとなる。
 実際的効果的なやり方は、苦痛を適度なものにすることであろうか。激しい苦痛では、へこたれたり、その忍耐の手段を放棄して逃げることになる。といって快にしたのでは、それにのめり込み充足してしまって動かなくなる。ほどほどの苦痛をもってして、目的実現でその苦痛はなくなることをはっきりさせ、目的実現の価値の大きいことを自覚させて、苦痛の手段の過程を急いで片付けさせることであろう。
 これは、長期に渡る忍耐でも同様である。人生に不如意で苦労する者は、苦労をはやく抜け出したいと、その先の価値ある未来へと自身を駆り立てていく。安楽に生きた者は、その結果は、よくない。三代目は家をつぶすという。安楽に成長した者は、その安楽に埋没してしまい、先へと進めることがなくなりがちである。その点、苦難に耐えて成長する者は、これを克服して、よりよい生へと自身を懸命に駆り立てていく。同時にその苦難の過程において、創意工夫もして自身の能力を開発もしていくから、差は大きくなる。

快の想像と実際

2022年12月20日 | 苦痛の価値論
3-2-4-1. 快の想像と実際  
 快も、予期で動く苦痛と同じく、それの予期と想像が快獲得へ向けてひとを駆り立てて、快あるいは有益なものの獲得へと進める。快自体ではなく、快への予期が、快がもたらされるに違いないという快享受への期待がひとを駆り立てる。アメ(快)とムチ(苦痛)は人と動物を駆り立てるが、苦痛(ムチ)では、多くの場合、現にこれを被ることで、ムチ打たれることで、これから逃げようと動く。だが、快(アメ)は、さきに与えたら駄目で、その快にのめり込み、先へと駆り立てることには失敗する。快を享受することに夢中となって、生に油断も生じる。快楽という餌につられてこれにのめり込み油断大敵となって大事なものを奪われることになれば、快は、大きな反価値ともなる。快のエサにつられて餌食になるのは、動物のみのことではない。
 さらに、過度の快・価値あるものの獲得で、生に害を生じることもある。苦痛は損傷が存在するかぎり持続するが、快は、獲得するとすぐに消えるので、快を享受し続けようという場合、とめどもなく、これを新規に受け入れていくことになる。食での美味の快がいつまでも続くのなら、一口入れた美味の食べ物をいつまでも味わっていくことになり、食はその一口で停滞して栄養摂取は進まなくなる。すぐ快が消えるからつぎつぎと食べ物を口にしていくのである。塩味の快とか甘味の快はとめどもなく食をさそい、過剰な栄養摂取となって、肥満とか高血圧をもたらし、不健康状態を招く。
 なお、生理的快楽では、例えば食の場合、栄養価値ゼロでも、少々は有害でも、快、美味なら享受したいものとして価値であるが、精神的営為では、快は些事である。その営為は、価値物の獲得を目指すのであって、快ではない。その獲得が快であるかどうかは、問題にならず、かりに快のみがあって価値あるものの獲得がならない場合は、「ぬか喜び」として、快は反価値となる。苦痛の方は、絶望や不安のように、苦痛自体が感じたくない大きな反価値の感情で、反価値の生じる原因はそのままに放置しておいてでも、その絶望の苦悩などを解消したいともがくことである。苦痛は精神的営為でも快とちがって些事ではない。

苦痛の想像と実際

2022年12月13日 | 苦痛の価値論
3-2-4. 苦痛の想像と実際  
 生は、自己保護を根幹の営為とするが、それには、苦痛が大きな働きをする。まず、苦痛発生の前からして苦痛は役立ちをする。損傷に感じる苦痛を予期すると、この損傷と苦痛を回避する動きにでる。その予期的な動きによって、苦痛が避けられることになり、したがって損傷を免れることとなる。苦痛という大きな反価値は感情的に回避の衝動をもたらし、出来るだけ少ない苦痛でと火急の対応へと向かわせるので、予期できるなら、苦痛発生以前に苦痛(したがって損傷)回避の対応に出る。苦痛という嫌な反価値の感情の予期・想像がしばしば損傷回避の主役となる。
 苦痛の予期は、損傷回避に効果的で価値ある対応をとらせるが、ときには、逆のマイナスの作用をする場合もある。いやな苦痛が予想・予期されると、ことの実行をためらうようになる。苦痛がひとをおびえさせ、現実には苦痛が生じているわけではないのに、その苦痛をともなうことになりそうな営為を人は回避しようとする。いわゆる「恐れ」とか「脅し」は、この苦痛の予期を過度なものにと感じさせて、苦痛になる有意の営為の実行を躊躇させる。
 苦痛は、現に感じる段になると、なんといっても不快の代表で、抑鬱・嫌悪・焦燥等をもたらし消耗・疲労困憊になってもいくことで、なんとしても排除したい反価値となる。同時に、強い回避衝動を生じる苦痛は、その苦痛と損傷をなくするようにと向かわせるから、苦痛は、生保護への切迫的行動をもたらす価値ある感情ということになる。その度合いは、苦痛を予期していた段階の比ではなく、強力な力となって、大きな価値ある営為となっていく。しかも、苦痛を感じる限り、これに集中して、損傷からの回復へと力を注ぐ姿勢を持続させていくから、苦痛は頼もしい生保護の感情となる。

苦痛甘受の忍耐に比して、快楽抑止は、些事である  

2022年12月06日 | 苦痛の価値論
3-2-3-2. 苦痛甘受の忍耐に比して、快楽抑止は、些事である  
 忍耐は、損傷になること必須の苦痛を前にして、これを甘受する。回避衝動をともなう苦痛に対して、これから逃げずこれを耐え続ける。苦痛甘受という反自然の持続は、疲労困憊をまねく。忍耐、苦痛の甘受は、意を決して行わねばならないものである。それに比して、快楽の抑止は、余裕をもって行え、深刻になるようなことは少なかろう。苦痛甘受は、現に生じている苦痛を耐えるのであるが、快享受の抑止は、通常、まだ存在していない快を、そのままにして現実化させないだけである。美味のものを食べるのを禁止するのは、まだそれを味わう前である。口に入れてから、美味を楽しむのを禁じるのではない。しかも、それを享受しないでおくことは、単にプラスのものを(場合によっては、余分の好物を)さし控えておくというだけであって、余裕をもって対処できる。快楽抑止は、それを受け止めることは、些事である。
 だが、苦痛は、そういうやさしいものではない。生保存・保護ができないような危機的な状態において、損傷・犠牲の生じる場に直面して出てくるのが、苦痛である。その苦痛の自然にしたがって逃げるならば、損傷を回避したり小さくして生保存がなる。忍耐は、この苦痛の自然、生の自己保存の営為に逆らう。苦痛の回避衝動をもって生の保護されるのを、拒否して、苦痛を甘受するのが忍耐である。その苦痛・損傷のマイナスより大きな価値が忍耐で可能になるから、その未来の目的のために、苦痛を敢えて受け入れる。が、目的のかなわないこともしばしばであり、その場合は、損傷のみが残る。目的が達成できれば、大きな価値が得られるが、それでも、苦痛甘受という大きな犠牲を払わねばならないのである。