貪欲の発現の機会を少な目に

2016年02月26日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-1-6. 貪欲の発現の機会を少な目に
 食欲が貪欲のままでも、それの発現の回数を少なくすれば、総量を限定したトレイ盛り切りと同様に、その貪欲は、少な目にと制限できることになる。刑務所も病院も食事の回数は、3回のみに限定され、肥満のひとに多い間食は、なしであろう。過食の節制をするとき、食事の回数を3回から2回とか1回に減らす方法をとることがある。日に3回は、近代の食習慣で、それ以前は、日に2回とか1回が多かったようである。
 美味への食欲は、空腹感とちがい、食事のときに発現する。現に食事を始めるところに美味への貪欲は顔をだす。食べだすと、美味しいものはどんなものでも、「やめられない、とまらない」状態になって過食となるのである。お菓子の袋があってもまだ貪欲にはならない。袋を切って口にして美味と分かると、とたんに貪欲が目覚めて、ガソリンに火がついたように、最後までなめつくし食べつくさないと気がおさまらないことになる。その機会・回数を減らせば、一日の量としては、過食にまでは到らないで済む可能性が大きくなる。
 一日の食事回数は、現代の日本では、実は3回よりも増える傾向にあるという。夕食が遅くなり夜更かしするので、お八つと夜食が入って5食になることがあるのだとか。各食事は軽食化しているので、そこでの3食なら過食にはならずに済むことであろう。あるいは、5食のうちでメリハリをつけて、時間が取れる食は美味しいもので貪欲を満足させ、ほかはごく軽食・粗食にともっていく手もあるであろうか。


刑務所・病院では、性欲はおとなしくなっている 

2016年02月19日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-1-5. 刑務所・病院では、性欲はおとなしくなっている 
 性欲の檻というと、うちの寝室になる。夫婦の間のみに性欲の貪欲を発揮するように外枠をはめることである。というより、外からの悪影響、外的な挑発を阻止するフェンス・防護壁を自身において作っておくことであろう。食欲とちがい、性欲は、異性を見るだけで挑発される。最近はウェブで簡単に挑発的情報にふれることができるので、日頃からの注意が必要となっている。
 刑務所は異性なし挑発なしで、性欲をおとなしくさせるには理想的であるが、病院でも、スタッフの身なり(白衣)・化粧からはじめて様々に反挑発的な配慮をしていることである。異性なしというのは無理なことだが、それでも、位置関係が対等な異性ではなく、患者ということである。病気が重いほど、治療者に依存することで、異性としてより、頼りがいのある姉兄、慈母慈父に見立てられることであろう。どんなに魅力的な女性であっても男性が(人間の場合)実母・実姉に性欲をいだくことはない。制服の質素で清潔な白衣は、天使のもの、聖なる衣装である。葬儀は昔はみんな白衣で参列したとか。その主人公はいまでも白衣である。
 白衣は聖なるものというが、性的挑発を目的とする写真に使われることがある。これは、おそらく、聖なるものを犯すという特殊な犯罪心理をかきたてるためであろう。そうだとすると、尼僧姿もあってよさそうだが、ポピュラーでない。マザーテレサとか寂聴尼といった中身に性欲が恐縮するのであろう。


刑務所・病院は、盛り切りにして過食を不可能にする

2016年02月12日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-1-4-2. 刑務所・病院は、盛り切りにして過食を不可能にする
 食の節制が無理なくできている刑務所も病院も、適正な全体量をひとつのトレイに盛りきって出す。過食する自由がないという有り方である。
 粗食にと思っても、料理する者でなければ、そううまくはいかない。あとは、出来た料理をどれだけの量にするかということになる。摂食量をはっきりさせることであるが、それには、単純には病院でもそうするように、その食の全体を盛りきりのお膳とかトレイに載せることである。そのお膳のうちで食の貪欲を存分に発現させて、そのうちに限定してこれを楽しませるのである(食欲不振の病人では逆に、「これを空に!」と元気づける)。それをはみだす「おかわり」とか「デザート」は、それが過食部分とわかって節制すべきものが明快となる。
 たくさんご馳走があっても、仮想のトレイを頭の中につくって、そのトレイのうちに、卵焼きは二切れのみ、ぶたの角煮は一つのみと入れておくような、仮想の盛りきり方もあろうか。定食とか、お弁当といわれるものも、それで全体になっているのであれば、盛り切りのトレイ・お膳のあり方と同じことになる。
 もちろん、そのトレイは、いっぱい入れても過食にならないものでありたい。お皿やコップに入れるときも、容量の小さいものを用意することが過食を防ぐ。食べだすと「とまらない」駄菓子類の入れ物の大きさは、日本ではお茶碗レベルであるが、バケツ大にして肥満を助長する国もある。


病院食は、うすあじで、過食をさそうことが少ない

2016年02月05日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-1-4-1. 病院食は、うすあじで、過食をさそうことが少ない
 病院食が塩分・糖分たっぷりということは考えられない。薄味の料理になろう。薄味にすれば、肉にしてもスープ類にしても、過食の貪欲が顔を出すことは少なくなる(塩や砂糖で味付けした肉は過食をさそうが、調味料がゼロだと、そうはならない)。かつ、薄味によっては、いまどきの優秀な食材のこと、微妙な味わいをひきたてることもある。濃い味におされて貪欲にそそくさと飲み込むのではなく、薄い味わいには、味覚は働きを強くしその微妙なものを探し出してじっくり味わおうとすることであろう。過食にならずに、食のより高度の繊細な快楽を味わえるようになる。
 塩や砂糖といった調味料は、食欲をそそる。かつては、塩は、保存食のために使用することが第一であったが、昨今の塩は、美味にすることが第一の感がある。塩分の過多は、高血圧など身体の不健康のもとであり、これを少なめにすることが保健関係ではやかましくいわれている。減塩は、健康になり、かつ、食欲をむやみにさそわないこととなって、好都合である。
 病院食は小皿をたくさんということもある。少しずつでも多くの皿なら多くを食べた気分になり食の満足感は生じやすい。満足には、美味であることとともに、たくさん食べたという感覚もいる。それには、たくさんのお皿に多種類の料理があることであり、かつ、それらを何回口に出来たかという口数もものをいう。一口で食べられる羊羹でも、小さく切って食べれば何倍も舌鼓を打てる。