満足は、主観的な妄念であってはならない

2016年04月29日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-5-3. 満足は、主観的な妄念であってはならない
 江戸の封建の世では、贅沢が禁じられ、知足が求められた。だが、食うか食わずの貧困な状態に満足(知足)をいっていたのである。客観的には栄養不足のなかでやせ我慢をさせられていたのである。ひとの心は、融通がきき、不足状態にも満足できるし、現代のように充足できていても不満をいだくこともできる。江戸時代は、多くの餓死者を出す飢饉を繰り返していた。食料不足ゆえに間引き(嬰児殺し)の行われていた時代である。その客観的な窮乏のもとでのやせ我慢は、単なる妄念の知足でしかなかった。
 現代のスローライフなどのエコの生活をいう人たちは、江戸期とちがい、客観的に足りたその最小限に満足しようというのであるから、これは、ひとつの理想的な姿勢と見ることができよう。食でなら、バランスのとれた栄養で客観的に充足しつつ、摂食の過多・贅沢をいましめ、環境への負担の小さい節度ある生活を求めるといったことになろうか。
 食の快楽をほどほどに満足をという姿勢は尊いが、無思慮なやり方は避けねばならない。主観的に思い込みで節するのではなく、客観的にしっかり事を解明し、よく理解をしてのものである必要があろう。塩分は控えめで満足すべきだという思いは立派でも、なにに塩分が多いのか、その方面の分析をよくふまえたものでなくては、空振りとなろう。たとえば、食パンは、塩分がないかのように見えるが、実際は、結構塩分が入っているものだという。


スローライフ

2016年04月27日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-5-2. スローライフ
 現代人の欲求は、貪欲で、欲望は、肥大化して留まることを知らない。この欲求を満たし続けると、自然の諸資源は近々枯渇するとすら言われている。その点で、江戸時代の生活様式は、環境に大きな負担をかけず、エコロジーの点からみて優れた体制になっていたと見直されている。過食抑制の無用な、節制以前の貧しさにあった時代だが、欲求を抑え、質素・倹約に心がけた江戸の精神自体は、現代が見習うべき心構えであろう。
 現代社会のなかで、質素に慎ましやかな生活をというひとたちがいる。スローライフとかロハス(LOHAS=Lifestyles of Health and Sustainability)といわれる生き方である。貪欲を当然とし、それを満たそうとあくせくする現代社会に反逆して、スローにのんびりと生活したいというスローライフでは、その欲求は肥大化をもとめず、節制の姿勢が地についたものになっている。ロハスは、「健やかで持続可能の生活様式」、健やかさをもとめる節制の精神そのもので、持続可能なエコの生き方をめざし節度ある生活をしようとの試みになろう。
 情報革命の進展は、これまでの生き方の革命を求めている。まもなく大量失業の時代に入ろうという。楽天的に見れば、仕事はロボットにまかせ、ひとは、自分の好きなことをして生きればよいという時代である。中高年に比して資本制的な貪欲の物欲から解放された若者が目立つ。若干たくましさに欠ける若者たちだが、あるいは慎ましやかに生きる新しい時代を先取りしているのかも知れない。


おいしい物をそれとしてしっかり味わう姿勢

2016年04月25日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-5-1. おいしい物をそれとしてしっかり味わう姿勢
 満足には、単に客観的に充足するだけでなく、主観的にも十分と感じうるのでなくてはならない。それには、多彩な価値を見出そうという心がけとか、価値への鋭さをもった感覚が養われねばならない。ご馳走であれば、まず、その生産から調理までの人の価値の付加を思いやることからはじめ、その美的なところを感じとり、現に口にしてその味わいを十分に味わうことであろう。野獣だと、美味のものは早く飲み込まないとほかのものにとられてしまうが、野獣ではないのだから、よく噛んで、ゆっくりと深く味わい、心行くまでこれを堪能することである。その微妙な美味まで味わえるなら、多彩な価値を豊かに享受し、より満足度を深めることになる。
 満足には、なんといっても美味しく味わえることで、その一番の方法は、空腹にして食事に臨むことである。空腹なら、どんなものでも美味しくなる。あるいは、美味を美味として享受できる食欲旺盛な健やかな心身の維持できていることも必要であろう。さらには、豊かさを感じるための心構えとして、謙虚さや、価値贈与に敏感な感謝心があるべきでもある。
 もともと、食事は、高等な猿に進化した段階からおそらく皆と一緒に食べていたことで、いわば、会食が中心である。ひとりでなく、みんなと一緒に食べることも満足度を高める。


知足(足るを知る)が言われるべき時代であろう

2016年04月22日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-5. 知足(足るを知る)が言われるべき時代であろう
 現代は、食に貧してということは例外的であり、庶民にも充分に食料はあり、過剰に摂食しての肥満が社会の大きな問題となっている。充足していても、さらに快楽をと貪る状態、貪欲にはまっている者が多いことである。一般的に欲望が肥大化させられている。商品社会では、売れることがいるから、新規の商品を次々とつくりだし、欲望をかき立てようと宣伝をする。欲望は、どんどん肥大化する。が、その肥大化した欲望の充足は、なかなか追いつかないから、不足・不満を感じる状態に陥りがちともなる。
 客観的に見ると十分に足りているのに、それで不満なのであれば、問題は、その欲求主体の心構えの方にあるのである。思いを改めて、足りていることを知ることがいる。知足である。足りているかどうかは、享受する者の価値判断であるが、客観的に見て飽食の現代であることは、膨大な量の残飯(の廃棄)、肥満の一般化でも知れる。であれば、不足感がおかしいのであり、充足の基準値を低めに置く必要があるのである。それには、謙虚になり自己を低くし、感謝の心構えをもって恵みに気づくことであろう。過食して快楽を過度に求めるのをやめ、不要な脂肪をためることをやめて、適正なだけを求めその美味の快楽に充足すること、知足である。足ることを知るなら、過食する貪欲な姿勢も勢いをなくすることであろう。


感謝する習慣

2016年04月20日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-4-3. 感謝する習慣

 節制の、身を低くした謙虚な姿勢は、享受において、感謝の心構えをもつことにも連なる。感謝は、価値物の贈与されたことを意識して、その恵み・好意を多とする。それを希有で有難いことと高く位置づけ、己の身を小さく低くして恐れ入る。あるいは大仰な場合、感謝心は、その類い希な贈与に恩(返さずには済まされないと借りの意識を生じさせる深く大きな慈・恵)を感じ、その未来に恩への返礼の意思や義務感をもって応えようとする。

 「有難い」と、してもらったことへの感謝の構えをつくることは、自覚できていなかったほかの贈与にも気づくことになる。ひとは、利己的で、してもらったことはすぐに忘れ、してやったことは忘れず恩着せがましくなる。感謝の姿勢は、逆で、してもらったことを自覚する心構えである。本当は、してもらっていることが圧倒的なのである。

 自分のうちでも、他者のうちでも、感謝は感謝を、不満は不満を産む。感謝するという、してもらったことへの意識が喚起されれば、その心構えのもとに、次々と、してもらった贈与・好意に気づくことになる。感謝された方も、自分もしてもらったことがたくさんあると気づかされる。感謝は、感謝を自他に共鳴して呼び起こすこととなる。

 食べ物ひとつにも、感謝の心構えがあれば、多くの贈与・恵みに気づく。調理してくれた者から、さかのぼって多くの人の汗が想起され、さらには動植物の犠牲にも気づく。そういうものをいい加減に食べるわけにはいかなくなる。贈与に気づけば、自分の貪欲・強欲の姿勢が恥ずかしくなろう。