食の節制は、栄養不足分の増量には無関心か

2015年06月26日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-3-6. 食の節制は、栄養不足分の増量には無関心か
 食べ物には、不味いが必須の栄養物がある。これを健康のためには無理してでも食べる必要がある。だが、これを節制はすすめるものではない。まずい(不快な)ものだが栄養摂取の点で増量した方がよいと、養生、健康のすすめではいうが、節制は、いわないであろう。節制は快楽享受の過剰を節し抑制するのであって、摂取の促進をいうものではなく、不快の甘受まではいわない。健康・養生にとっては、節制には片手落ちのところがあるといえよう。
 節制は、快楽の抑制の手段としてなら、不味いものを受け入れることがあろう。満腹感を得るために、美味しくないが野菜類をたくさん食べることがある。あるいは、糖度の高い美味の果物の代わりに、あまりおいしくない果物を食べるなら、過食へ誘われることはない。食欲抑制の手段として、まずいものを食べることがありうる。これらは、直接には、必要で欠けている栄養分を補うものではないが、間接的には、まずいもので必要な栄養を摂取することになる。
 あるいは、節制をスムースに、つまり健康を維持・増進しつつ行うということからは、おいしくないが必須の食べ物を無理に増量して食べることはあろう。しかし、節制は、快楽の抑制であるから、不快な不味いものの量・質については、原則的には無関与だというべきである。


食の量的な節制は、融通がきく

2015年06月19日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-3-5. 食の量的な節制は、融通がきく
 性的なことでの失敗は、やり直しのきかないのが普通であろう。だが、食の節制では、摂取量や体重としては、日々の数値の変動の繰返しで、修正がいくらでもきく。どの食物も、カロリーや栄養素に還元されて、代替もきく。昨日の過食の失敗は、今日、これを粗食にして、取り返して、なかったことにもできる。
 量は、アナログ的に「連続量」をもって示されるが、「非連続量」的デジタル的にも示される。節制ではこれが問題となる。食物は、アナログ的に連続量として測れるとはかぎらない。食べ方は、水溶液にして連続量的にホースで流し込むのとちがい、普通には一口、二口と、非連続量的である。お菓子類は多くが一個、二個と非連続量的である。適正な量は、3分の7だとしても二つ(3分の6)のつぎは、三つ(3分の9)となる。適正量は、その三つ目にあり、かつ過剰となる量もその中にある。三つ目は、適正であり、過剰でもある(非連続)量である。その点での融通もきかさねばならない。曖昧でいい加減になることも許容される必要がある。
 この曖昧さ・融通がきくということから、食の節制はルーズになるのでもある。一口の次は(適正な限度量は、もう3分の1口だったとしても)二口になるから、「もう一口」の適正な限度が即過食そのものともなる。ここで節制をうまくすすめていくには、「もうひとつだけ」のときには、止めることである。いま節して、その余裕分を明日の過食のためにとっておくことであろう。が、反対になることが多い。


食の具体的な節制は、量的節制になる

2015年06月12日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-3-4. 食の具体的な節制は、量的節制になる

 食では、どれぐらい食べるのかという量が肝要事となる。健やかであるための目標とする体重なり体脂肪率を明確にして、日々の摂取カロリー量の、肥満とならない限度、あるいは若干は前日よりも体重減となりうる量を知って、無理のない食の節制を維持していくことになる。

 日々の量的変化をもって肥満度を下げて、肥満体からの脱出を節制ははかる。質的変化の起こるまえに、これを示すことが量によってできる。これ以上の量になったら、肥満の方に一歩むかい、それ以下なら痩身化へ一歩前進したと。かつどの程度の悪しき状態かが示せる。改善の微妙な操作をすることが量規定をもって可能となる。体重が300グラム多くなっていたら、「明日は、甘い物をひとつ減らそう」と反省がすすむ。質的にはなんの変化も見えないのに、量的な変化は、明確になる。その積み重ねが質の変化を可能とする。

 量への注目ということでは、カロリー数とか体重だけでなく、どういう食べ方をするのかということも問題になろう。食の満足には、量的な充足感がいる。美味のキャビアは、一粒でそれと知れるが、せめてスプーン一杯ぐらいの量がなくては食べた気になれないであろう。食べ方も、よく噛んでゆっくり呑みこめば、たくさん味わうことができる。犬はもとより人でも満足感は、客観的な分量よりも何口たべたかの量によるところが大きい。


内包量より外延量の方が直感しやすい

2015年06月05日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-3-3. 内包量より外延量の方が直感しやすい
 コップの水の量の半分と一杯は、一見して違いの分かる大きさ・広がりである。外に広がった「外 延量」としてある。だが、その水温は、10度でも40度でも、見た目には外的には違いはなく、内にこもった量であり、「内包量」といわれる。
 量的節制では、外からその多さの見える空間的広がりにした「外延量」でとらえることが好ましい。数量は内包量ですませると多さが直感しにくい。体重は、60キロが61キロになっても、それだけでは身体の外見(外延量)の変動は見えず内包量的変化にとどまって、違いが分かりにくい。その内包量にとどまる変化を、外延量化して傍線グラフにしたり折れ線グラフにでもすれば、違いは一目瞭然となる。0.1キロといったわずかの違いでも、上昇しているのか下降しているのかということがはっきりして、その前日の節制の努力が明確になる。
 食品の栄養は、内包量的である。同じ容量(外延量)の飲料でも内包量としてのカロリーは大きな違いをもつ。場合によると高カロリーのものが小さい外見(外延量)になるかも知れない。同じ外延量の一枚のチョコレートでも、砂糖たっぷりのものとチョコレートだけのものとでは、カロリー数も栄養の内容も相当に異なる。非常食では、内包するカロリー数が大きく、外延量の小さい飲料・食物を選ぶことになろう。過食を気にするひとは、逆に、美味のものについては、(カロリーという)内包量が小さく、(口に存在感のある)外延量の大きいものを好む。