勇気へのブレーキは早い目に!

2012年08月30日 | 勇気について

4-4-3.勇気へのブレーキは早い目に!
 勇気のうち、恐怖の忍耐は、恐怖も忍耐も不快だから、できるだけ早くそれを短く済ませられる方向にと自身でもっていく。だが、大胆・果敢の勇気は、恐怖が小さいか、なくなっていた場合、攻撃は、むしろ闘争本能を満たすことがあって、早々にやめたいということにはなっていかない。熊に襲われて恐怖する場合、忍耐するとしても、一秒でも早くそれから逃れたいと思う。だが、熊狩りでこれを追いかける大胆・果敢な闘志は、心地よく血湧き肉踊る緊張感のもと、体のもつかぎり、いつまでも持続する。狩猟は、娯楽ともなる。大胆・果敢の勇気は、理性の制動がないととまりにくいところがある。
 勇気の大胆さは、長く続けるべきものではない。いつまでも大胆で危険に無頓着では、危険が現実化するのは時間の問題である。草原で熊に出合って、大胆にそれを無視していると、はじめは熊も、「いやな人間だ、はやく消えろ!」と思っていたとしても、ぐずぐずしていると、やがて、「いい頬の肉付きだな。食欲がそそられる!」と変化してくる。早い目に大胆さにブレーキをかけて、危険にしっかり対処して、大胆さを無用にしてこそ、勇気は生きる。
 果敢さも同様で、攻撃的に興奮しているのだから、長くなっては、第一、体がもたない。それ以上に、果敢に勇気を出すのは、弱者だからであり、実力プラス果敢さで、相手に勝てているのである。相手が本気になってきたときには、つまり、相手も(そのままでは負けてしまいそうなので気合をいれ)果敢な攻撃態勢に入る段になると、実力対決になるから、当然、弱ければ敗けることになっていく。その前に果敢さをおさえ戦いをやめる必要がある。実際には相手が弱かったとしても、果敢さを早くおさめないと、それはそれで相手に対して苛酷で無慈悲なことを結果してしまう。いずれにしても、適正な攻撃のためには、果敢さへのブレーキを意識しておくことが必要となる。
 戦いでは、果敢に攻撃して勝っているときは、これをおさめるのは、負けているときよりは、たやすい。勝っているのなら、犠牲が生きる。だが、負けている場合、敗北で終えると、犠牲に報いることができず、かつ、戦いの責任を問われ賠償等を課され、さらなる犠牲をもたらす。負け続けていても、勝てる可能性をどこかに見出そうと果敢に、いつまでも、負け戦さを続けがちとなる。太平洋戦争でも、日本は、戦争終結をぐずぐずと引き伸ばして、国民は散々なめにあうことになった。1942年6月のミッドウェー海戦の敗北で勝負はついていたと言われる。続く同年のガダルカナル島の戦いでの大敗北(陸軍3万のうち2万人が戦死)以降も負け戦さを(転進と言い繕いつつ)延々と引き延ばして、1945年3月硫黄島陥落(兵士2万余のほとんどが戦死)、6月沖縄陥落(兵士、島民各々10万人前後が死亡)でもまだ降伏をぐずぐずし、ついに8月広島・長崎への原爆投下となり、やっと降伏となった。
 早い目に敗北を受け入れて犠牲を少なくできたのが明治維新である。このときのやや大きめの戦いが鳥羽伏見の戦いになるが、幕府側総大将の徳川慶喜第十五代将軍は、煮え切らない戦いの中、大阪城から早々に船で江戸へと帰ってしまい、幕府軍は戦意を失ったといわれている。将軍は逃げてしまったと評判が悪い。が、十四代将軍の後見職等をつとめ幕末の内政・外交の体たらくを熟知し、幕藩体制はもはや崩壊する以外ないと達観していた英明な慶喜将軍である。長州征討では、戦いが無理と判明すると征長軍を躊躇することなくすばやく解兵したり、すでに鳥羽伏見の戦いの前に、大政奉還をするという大胆で思い切った対応にでていて、迅速な戦争中止、潔い退陣をもって、その優れた決断力・実行力を見せてもいた。戦うつもりのない戦いであったから、「ここは自分が消えるのも手か」と鋭い頭脳で(当面の敗北の)奇策を思いつき、大阪城撤退の決断をしたのではないか。その思いの真相は定かではないが、すみやかに潔く進められた、慶喜将軍の撤退・フランスの応援を断り主戦派をおさえての朝廷への恭順・江戸城無血開城は、明治への移行の犠牲を小さく抑える事を可能にした。


勇気の暴走は阻止しなくてはならない。

2012年08月27日 | 勇気について

4-4-2.勇気の暴走は阻止しなくてはならない。
 勇気は、危険を排撃することでその目的を達成したことになる。だが、危険が排撃でき危険がなくなったとの納得は、各自の判断によってなることであり、ひとによって異なったものとなる。民族間の戦いの場合、敵民族を自分の領土から排除するだけで危険でなくなったと捉えて、矛を収めることもある。敵のリーダーを殺害することで納得できるときもある。敵のリーダーの一族郎党をすべて殺してやっと安心できるという場合もある。最後の例になると、勇気の展開は、蛮行になってくる。もっと残酷な危険の排撃は、敵民族の全員を殺害するものになるが、それも大陸の歴史のなかでは稀ではなかったようである。血で血を洗う戦争が繰返されてきた。勇気は、必要だが、ほどほどに双方が納めなくては報復合戦となり、暴走することになってしまう。 
 果敢な勇気で一番問題になるのは、それが行き過ぎて、残虐・残忍に堕すことであろう。果敢に猛烈になると、その攻撃は、すぐには収まらない。抑えるものがないと、危険なものを無化しただけにとどまらず、これに関係するものをさらに攻撃し続けることになる。敵について、武力を無能化すればいいといっても、武器を放棄させるだけで済むことにはならない。果敢さの勢いは、持続して、それを使用する人間に向くことになったり、さらには住居とか生産拠点の破壊にまで向く。第二次大戦では、空爆は、敵兵・兵器に関係するものに留まることなく、市民も間接的な敵なのだからと無差別爆撃になっていった。原爆については、当然、圧倒的に市民が犠牲になるから、反対もあったというが、米国大統領は、投下を命令した。果敢に本土決戦を叫んだ日本の指導部とともに、米国指導部もまた果敢に人道を外れていたというべきであろう。
 第二次世界大戦で、シンガポールを占領した日本軍は、いわゆる「シンガポール華僑虐殺事件」を起す。その首謀者といわれる辻政信参謀は、体中に銃弾の傷跡があったという武勇の人で大胆・果敢な人物として勇名をはせていたが、かれを中心にして、抗日分子と見なされた華僑の若者を集めて、危険分子の殲滅ということで、取り調べもないままにこれを殺すという蛮行に走ってしまった。その数6千人(華僑側調査によると4万人)にのぼったといわれている。ビルマ戦線では、さらに、辻参謀は、兵士に人肉を食べさせるようなことをしたともいう。勇気を養うためにと、英兵捕虜の人肉の試食会をしたとか。その勇気は、蛮行に堕していた。日本軍では、自分たちの命自体が虫けら扱いだったから、敵の命も粗末に尊厳無視の扱いをしがちだったようである。捕虜を軍刀の試し切りに使ったとか、人の命を救うはずの軍医たちですらもが、捕虜を手術の練習にと切り刻み、最後は殺害して始末したという。新兵に、勇気をつけるためにと、捕虜の刺殺もしばしばやらせたようである。一度殺すと度胸がついてくるものだったという。おそらくそうだろうが、非道なことをしたものである。
 勇気が徳として誇らしいものであるには、その勇敢さへのブレーキがしっかりしていることが必要である。勇敢さは、そのブレーキがないと、ときに残忍な蛮行に走ることとなって、高貴な勇敢さを台無しにしてしまう。果敢な勇気の行き過ぎは、敵のみか、自身を滅ぼす無謀なものとなることもある。果敢さに集中すると恐怖が消える。恐怖がなくなるとは、危険を感じなくなることである。危険に無頓着になれば、その大過をもたらしがちとなる。戦争で、かけがえのない命が粗末にされるなかでは、死自体が平気となって、自分の死も軽くなり、無駄死、犬死をもたらす。自分達のためにも、ブレーキをかけて慎重になることが勇気に求められる。


「費用対効果」を考えて勇気にブレーキを!

2012年08月23日 | 勇気について

4-4-1.「費用対効果」を考えて勇気にブレーキを!
 大胆・果敢は、対決的攻撃的である。攻撃は、非常のことであり、果敢になるとは、敢えて、無理をしてということでもある。相互に、犠牲の生じることであって、慎重にならなくてはならない。犠牲を敢えて甘受しようというのは、そのことで大きな目的が達成可能になるといった合理性があるからである。むやみやたらに果敢になればいいというものではない。その猛烈な攻撃が目的への適正な手段となっているのかどうかを冷静に判断していく必要がある。益するものがなにもなく犠牲のみが生じるようなところでは、果敢さは停止しなくてはならない。そういうブレーキがしっかりしておれば、果敢さも安心して全力をもって突進できる。
 勇気を発揮するところには、その目的となるものがあり、戦略がある。これに見合う手段として戦術として果敢な勇気は発揮される。その目的は、危険の排撃である。その目的に見合った手段として果敢さがある。目的に応じた手段がとられる。特定の戦術がとられる。このとき問題は、果敢さが、場合によっては、目的相応でなく、目的から外れたものになることである。勇気は、いきすぎると蛮行に堕す。そうならないようにブレーキをかけねばならない。猛犬からボールを取り返したら、もう勇敢に猛犬を棒で追う事は不要となる。だが、勢いにのって、「けしからん犬だ、懲罰だ」と、果敢さをなおも発揮することもある。そこでは、もう、果敢さは、手段・戦術としての正当性を失って、動物虐待の蛮行に変質してしまう。ボールを取り戻した時点で、その勢いにブレーキをかけるべきであろう。果敢な攻撃・戦いは、手段であって、目的ではない。その攻撃を貴族の狩猟のように楽しみにし自己目的にしてはならない。そうならないように、ブレーキをかけねばならない。
 大胆にせよ、果敢にせよ、対決し攻撃するのだから、消耗し犠牲がともなう。目的とするものの価値次第で、犠牲を払う限度も変ってくる。割に合わない犠牲はさけられるべきであろう。火事になって飼い猫が中にいそうだという場合と子供を助け出すのとでは、勇敢になる度合いが異なってこよう。後者なら、自分が大やけどしても飛び込んでいくべきである。だが、ネコの場合は、それだけの犠牲をはらってすることはないであろう。いわゆる「費用対効果」を考えて、勇気は、ブレーキを利かせつつこれを発揮するのが一般である。
 そのブレーキは、勇気の発揮の程度であるのみではなく、それ自体の発揮を差し控えるということまでも含む。目的に比して勇気の発揮で生じる犠牲の大きすぎることを見極める者は、むやみな果敢さは思いとどまることであろう。戦いに勝っても、その犠牲が甚大で割に合わない勝利、いわゆる「ピュロスの勝利」になったのでは、あとが大変である。そういう場合、戦うべきではなかったのである。それは、見かけとしては、臆病ともなる。臆病にとどまる方が大きな勇気がいることもある。「韓信のまたくぐり」がある。ならず者との無益な争いはやめ、その股をくぐるという屈辱を甘受した、後の猛将韓信の青年時代の逸話である。大胆・果敢であったがゆえに、あわなくてもいい惨事にあうことがある。果敢な攻撃的態勢をとると、相手を、攻撃的に挑発することになる。相互が過激になって大きな犠牲を払いあうことになりかねない。些細なことなら、できれば、こちらからは攻撃的にならず、臆病に見えるぐらいに控え目に忍耐しておく方が無難である。匹夫の勇、小勇は、避けるべきことである。よっぱらいはよく喧嘩する。相互にあとで後悔する愚かしいことで、大胆になり果敢に暴力的になりあうのである。しらふの人がよっぱらいには臆病に見えることであろうが、臆病に見えている方が、その場合、醒めていて正常なのである。
 孔子の弟子が、大軍を率いるとしてどんな人と組んで戦いたいですかと孔子に聞いたところ、「暴虎馮河して、死して悔ゆる無き者は、吾與(とも)にせざるなり(暴虎馮河 死而無悔者 吾不與也)」(『論語』述而篇)と答えた。素手で虎を打ったり、大河を徒歩で渡るような、それで死んでも悔いることのないような無謀の命知らずの者とは、共になりたくはないと。では誰と組みたいかというと、続けてこういっている。「必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀を好みて成さん者なり(必也臨事而懼、好謀而成者也)」。必ず、事をなすにあたって、懼れ慎み、謀(はかりごと)を好み成しとげる者となら共に戦いたいと。


猛烈な勇気には、よく効くブレーキがいる。

2012年08月20日 | 勇気について

4-4. 猛烈な勇気には、よく効くブレーキがいる。
 勇気は、危険と「大胆」に対決して、これを「果敢」に排撃していくが、排撃が実現できたら、その勇気をおさめて、危険のない安全・安寧の場を確保していくことが求められる。危険の排撃ができたら、果敢な攻撃はブレーキをかけて停止しなくては、破壊は過剰なものとなり、勇気は、蛮行に堕してしまう。出した勇気は、これを納めるところまで行って、完了する。節制はその中止・中断を考えることはないが、同じ徳目でも、勇気は、その停止・終了に留意することが必要である。
 勇気の展開は、「大胆」「果敢」につづいては、これを停止・終結する順になる。危険なものが排撃できれば、おのずからに果敢の勇気が消えることもあるが、一旦果敢に燃え上がった勇気の勢いは、自然的に消えるのを待っていたのでは、行き過ぎた破壊、蛮行を結果することがある。戦争では、勇気をふるって敵の排撃に成功すると、しばしば、欲を出して、さらなる攻撃へと向かいがちである。相手が殲滅されるか、こちらが壊滅的になって敗北するまで、勇ましく果敢に戦いつづけることになる。そして、敗戦後、どうしてもっと早くやめられなかったのかと後悔する。果敢さを早々におさめておれば、勝てていたのに、少なくとも無条件降伏などしなくても済んだのにと。果敢な挑戦を適正なときにおさめることを「臆病」と批判され、過激な勇ましい声に引きずられてしまったと後悔する。勇気の適正な停止があってこそ、勇気も生きる。ブレーキをかけて果敢さを停止し勇気を終わりとすべき時がある。
 ただし、「大胆」「果敢」は勇気自体のあり方であるが、勇気停止のブレーキは、それらと並ぶおなじレベルでの勇気のあり方になるわけではない。勇気のそとにあって勇気を停止する操作になる。それは、勇気が蛮勇に変質したり、残忍な惨劇を引き起こすことを阻止して、有終の美を飾るブレーキである。命を賭けて猛勇をふるったことが生きるためには、早めにその果敢の勇気をおさめることがなくてはならない。行き過ぎると、危険の排撃どころか、元も子もなくする無慚な結果となりかねない。ほどほどのところで、果敢な勇気をおさめるという、勇気へのブレーキが、むしろ勇気のいることなのでもある。とくに、組織の中では、果敢な過激な分子の批判・攻撃を受けるから、これに勇気をもって対決しつつ、果敢な戦いの中止を決断することが必要となる。勇気へのブレーキは、最後にあるだけではない。大胆・果敢の勇気の展開の各レベルで、適正な程度にとブレーキをかけ、制御することが必要でもある。ゴキブリを始末するのに、ガソリンをまいて火をつけるような大胆さでは、ゴキブリとともに我が家をも処分してしまう。「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし(過猶不及)」(『論語』先進篇)というか、むしろ「及ばざるは、過ぎたるに勝れり」(『東照宮遺訓』)である。
 もともと勇気は、非常時の非常の対応である。危険があり、これに果敢に総力をかたむけて戦いを挑んでいるのであり、その状態を常とするものではない。危険が排撃できたらその非常対応はやめねばならない。その戦いは、これを終結した平和な安心できる安全・安寧の確保を目指す。安寧の平常へと戻ることが勇気の目的であり、勇気は、そういう終わりをもっているのでなくてはならない。果敢さは、興奮し奮起している状態であり、それは、早い目に沈静化して収めるのでなくては、過剰な破壊になったり、疲労困憊して自壊することであろう。大胆さも、いつまでも、危険に身をさらし無頓着でいたのでは、いずれは狙われて危険は現実化し大禍をまねいてしまい、大胆さを後悔させられることになろう。虎穴に入って虎児を得たら、虎穴・危険な場所でぐずぐずせず大胆さをおさめ、これを無用とする安全なところまで早々に退去することが必要であろう


果敢さへの自制、果敢さの勇気に勝るもの

2012年08月16日 | 勇気について

4-3-9.果敢さへの自制、果敢さの勇気に勝るもの
 果敢さは、躊躇せず、容赦せずの猪突猛進である。しかし、それにブレーキをかけるべきときもある。なににでも決死の覚悟で果敢になればいいというものではなかろう。猛火に飛び込む果敢さは、それでひとの救助がなる等のことをもっていて、生きる。めがねを捜すためにと無鉄砲に飛び込んで焼死するのは、おこの沙汰でしかない。果敢になってしかるべき場面を選んで、分別をもって勇気も振るうべきで、単に感情的に果敢になればいいというものではない。
 勇気を振るうに見合う価値獲得の可能性が踏まえられているのでないと、果敢さは、生きない。それが生きる程度に果敢さも制御されるべきである。危険排除になんの効果もないのなら、果敢さは、自己満足のドン・キホーテでしかない。むしろ、果敢さが、あだとなることもある。『孫子』に「小敵の堅は、大敵の擒なり(小敵之堅、大敵之擒也)」(謀攻篇)という。小さな軍隊が無闇に果敢で堅強では、大きな軍隊の格好の餌食になるだけであると。大人しくすべきときがある。勇猛果敢にネコにつっかかっていく無闇やたらの小ネズミでは、ネコが餌を追いかける手間を省いてやるだけとなり、単に、飛んで火にいる夏の虫に堕すだけとなる。勇気は、容赦のない猛烈な果敢さをもつが、ほどほどに猛烈でないと、元も子もないといったことになる場合もある。自分の手にとまった蚊をつぶすのに、情け容赦なく、ハンマーを振り下ろしたのでは、蚊をつぶすにとどまらず自分の手の骨を砕くことになってしまう。
 戦乱にあけくれた権力者たちの興亡の歴史では、敵に果敢で容赦なく、後顧の憂いを絶つために一族郎党をすべて殺害することが多かった。だが、ときには、寛容になって、これを保護して大胆に生かし味方の力とすることも行った。それが真に味方の力にできればいいが、すきを見て裏切られる危険のあることであった。それを承知でこれに賭けるというのは、大胆な希有の勇気であった。その大胆さは、殺害する果敢さを自制した大きな勇気で、一層困難なことであった。
 果敢や大胆の勇気は誇らしいことである。だが、それは、強いネコではなく、弱いネズミの方がもつものである。こわいネコを排撃できる勇気をやしなうことは大切だが、一層すぐれた根本的な対策は、できるならネズミ自身がカピバラ(鬼天竺鼠)ぐらいに大きく強くなって、ネコを危険と感じなくて済むようになることである。そうなれば、ネコへの果敢な勇気など無用となる。ひとなら、その関与することがらでの実力を身につけて、強(こわ)いものを怖がる弱体の状態を脱することである。知力を養い、体力をやしない、知識・技術を身につけて、戦う相手に勝ることである。勇気をやしなうよりは、まずは、実力を養うのが第一である。陰湿ないじめやおどしにあった場合、勇気や忍耐はほどほどにして、学校・警察等に動いてもらうための社会的な知恵・能力を養ったり、合気道や空手を習って心身を鍛えて反撃・護身の逞しい実力を身につけることである。ドブネズミにいたぶられる子ネズミの役はやめて、危機を変じて、カピバラやビーバーになる好機とすることである。勇気は、だれにでも出せる。だが、実力は、ないものには出せない。