3-2-1. 損傷と苦痛の反価値、媒介的価値
苦痛は、それだけということは希で、通常は、損傷とともに生じる。この損傷は、生を傷つけ損害を与えることとして、生にとりマイナスそのもので、反価値である。だが、苦痛が損傷回避のためになって価値となるように、損傷も価値となることがある。身体を傷つけることをもって、その生の保護・保存のできる場合があれば、その損傷は、これを媒介・手段にして有益なものをもたらすのであり、媒介的手段的な価値と見なせるであろう。毒蛇に咬まれた時など、体内に毒が回るのを防ぐために、咬み口の付近を切り開いて損傷を加えて毒をしぼり出すことは、有益なことである。あるいは、体毛は、傷つくことをもって皮膚を保護する。トカゲは、尻尾を切るという損傷をもって生命の危険を回避することがある。損傷を手段として生保護を行うのであり、この損傷は手段価値となる。
苦痛は、回避したい筆頭になるものなので、実際にこれを感じる手前で、苦痛になりそうなことを察知して、これを回避し、したがって、損傷を回避することになる場合が多い。その場合は、苦痛は実際には感じることなく反価値になることなしに、想像する段階において苦痛と損傷を回避して、それらの反価値の発生を防ぐのである。苦痛の想像的媒介をもって、(苦痛と損傷の)反価値を阻止するという経過をとるのが無事の日常ということになる。苦痛がではなく、苦痛の想像が、あるいは苦痛への警戒心が、手段価値となっているというべきであろうか。一度目は、苦痛があって回避衝動を発動させて損傷を軽減、あるいは回避でき、苦痛は有益な価値となる。二度目からは、多くの場合、苦痛(反価値)の想像をもつだけで、即、回避へ動き、損傷なし苦痛なしの有益な動きをもつ。苦痛は、生保護、損傷回避のための行動を迫る警告であり、その警告が出そうなことを察知するだけで、苦痛回避へと動く。二度目は、うまくいけば、実際には苦痛(=反価値)を被ることなく、その想像だけで、損傷(=反価値)なしの有益な状態をもてることとなる。
苦痛は、それだけということは希で、通常は、損傷とともに生じる。この損傷は、生を傷つけ損害を与えることとして、生にとりマイナスそのもので、反価値である。だが、苦痛が損傷回避のためになって価値となるように、損傷も価値となることがある。身体を傷つけることをもって、その生の保護・保存のできる場合があれば、その損傷は、これを媒介・手段にして有益なものをもたらすのであり、媒介的手段的な価値と見なせるであろう。毒蛇に咬まれた時など、体内に毒が回るのを防ぐために、咬み口の付近を切り開いて損傷を加えて毒をしぼり出すことは、有益なことである。あるいは、体毛は、傷つくことをもって皮膚を保護する。トカゲは、尻尾を切るという損傷をもって生命の危険を回避することがある。損傷を手段として生保護を行うのであり、この損傷は手段価値となる。
苦痛は、回避したい筆頭になるものなので、実際にこれを感じる手前で、苦痛になりそうなことを察知して、これを回避し、したがって、損傷を回避することになる場合が多い。その場合は、苦痛は実際には感じることなく反価値になることなしに、想像する段階において苦痛と損傷を回避して、それらの反価値の発生を防ぐのである。苦痛の想像的媒介をもって、(苦痛と損傷の)反価値を阻止するという経過をとるのが無事の日常ということになる。苦痛がではなく、苦痛の想像が、あるいは苦痛への警戒心が、手段価値となっているというべきであろうか。一度目は、苦痛があって回避衝動を発動させて損傷を軽減、あるいは回避でき、苦痛は有益な価値となる。二度目からは、多くの場合、苦痛(反価値)の想像をもつだけで、即、回避へ動き、損傷なし苦痛なしの有益な動きをもつ。苦痛は、生保護、損傷回避のための行動を迫る警告であり、その警告が出そうなことを察知するだけで、苦痛回避へと動く。二度目は、うまくいけば、実際には苦痛(=反価値)を被ることなく、その想像だけで、損傷(=反価値)なしの有益な状態をもてることとなる。