損傷と苦痛の反価値、媒介的価値

2022年09月27日 | 苦痛の価値論
3-2-1. 損傷と苦痛の反価値、媒介的価値   
 苦痛は、それだけということは希で、通常は、損傷とともに生じる。この損傷は、生を傷つけ損害を与えることとして、生にとりマイナスそのもので、反価値である。だが、苦痛が損傷回避のためになって価値となるように、損傷も価値となることがある。身体を傷つけることをもって、その生の保護・保存のできる場合があれば、その損傷は、これを媒介・手段にして有益なものをもたらすのであり、媒介的手段的な価値と見なせるであろう。毒蛇に咬まれた時など、体内に毒が回るのを防ぐために、咬み口の付近を切り開いて損傷を加えて毒をしぼり出すことは、有益なことである。あるいは、体毛は、傷つくことをもって皮膚を保護する。トカゲは、尻尾を切るという損傷をもって生命の危険を回避することがある。損傷を手段として生保護を行うのであり、この損傷は手段価値となる。
 苦痛は、回避したい筆頭になるものなので、実際にこれを感じる手前で、苦痛になりそうなことを察知して、これを回避し、したがって、損傷を回避することになる場合が多い。その場合は、苦痛は実際には感じることなく反価値になることなしに、想像する段階において苦痛と損傷を回避して、それらの反価値の発生を防ぐのである。苦痛の想像的媒介をもって、(苦痛と損傷の)反価値を阻止するという経過をとるのが無事の日常ということになる。苦痛がではなく、苦痛の想像が、あるいは苦痛への警戒心が、手段価値となっているというべきであろうか。一度目は、苦痛があって回避衝動を発動させて損傷を軽減、あるいは回避でき、苦痛は有益な価値となる。二度目からは、多くの場合、苦痛(反価値)の想像をもつだけで、即、回避へ動き、損傷なし苦痛なしの有益な動きをもつ。苦痛は、生保護、損傷回避のための行動を迫る警告であり、その警告が出そうなことを察知するだけで、苦痛回避へと動く。二度目は、うまくいけば、実際には苦痛(=反価値)を被ることなく、その想像だけで、損傷(=反価値)なしの有益な状態をもてることとなる。


苦痛の反価値論=苦痛の価値論

2022年09月20日 | 苦痛の価値論
3-2. 苦痛の反価値論=苦痛の価値論  
 生あるものは、苦痛を回避しようとする。苦痛は、いやなもので排撃したいものである。求めるもの、充足したいものとしての価値の反対で、苦痛は、端的に反価値となる。どうでもいいという無価値の位置づけではない。単に欲求しないものではなく、その逆の振る舞いに出たくなる、排除したい、受け入れたくないものである。苦痛は、迷うことなく即回避・排除したい反欲求の対象であり、反価値と規定される。
 したがって、苦痛に関しては、まずは、これを反価値として、苦痛の反価値論が言われることになろう。自然的な生を動かしていく主観の感情的レベルにおいて、快は、充足したいものとして価値であり、不快・苦痛は、受け入れたくない避けたいものとして、反価値である。アメ・快の価値に対してのムチ・苦痛の反価値である。
 だが、苦痛は、大きな反価値として、その生をこれの回避へと動かすがゆえに、苦痛のもとにある生損傷を回避させることになり、損傷の回避、生保護を可能とする。苦痛がもっぱらに反価値であるのなら、いまどきのこと、これを感じないように無痛にと生理的に操作できるであろう。だが、苦痛が全面的になくなった場合、まれにそういう人があるようだが、身体は傷だらけになろう。針で刺しても石でたたいても痛くもなんともないのなら、これらを回避しようということにならず、頻繁に損傷を受けてしまう。苦痛があるから、そういう損傷なしで済んでいるのである。とすれば、苦痛は、反価値でこれを主観が回避するようにと動くことで、結果、損傷を受けないで済むようにして、大いに有益な役割を果たしていることになる。つまり、主観的感情的に反価値の苦痛は、その生自体にとっては、有益な役立ちをして価値あるものとなる。反価値の苦痛は、反価値(回避したいもの)ゆえに、価値ということになる。
 生は、自己保存を根本的営為とするが、苦痛は、その生保存・保護の危機、生の損傷を知らせ、苦痛回避で損傷回避を実現する大切な働きを担う。生保護の根本的な価値として苦痛は機能している。だが、苦痛は、主観的には真っ先に回避すべき大きな反価値として現れる。

価値では、量的評価が大切となる

2022年09月12日 | 苦痛の価値論
3-1-6. 価値では、量的評価が大切となる
 ひとは、欲求にしたがって、その求める価値を実現するために動く。多くの欲求の中から、どれかを選ばねばならなくなる。多くの価値、多くの反価値の中から、どれかを選ぶことが可能となるには、これらを量化して比較することが必要である。あるいは、忍耐では、手段として苦痛を受け入れるが、それは、目的実現の価値の大きさと見比べてなされる。苦痛の反価値の量が、目的達成でなる価値に比して不釣り合いに大きければ、その忍耐は、無謀・無益なことをするのである。価値・反価値の関わる営為は量的にこれを測りつつ実行される。
 漢字の「価」「値」は、人偏で、商売上の価値を中心に言われたものである。商売では、価値・反価値は、数量化されて成り立つ。価値があるというだけでは商売は成り立たず、どれぐらいの価値があるのかと数量化することが必須である。価値あるものは、プラス価値で、より大きな数で、より大きな価値をあらわせる。逆に欠陥・欠損等の反価値はマイナスの数量をもってあらわせる。差引で、そのものについてプラスとなって価値が勝れば、これは受け入れたい価値あるものということになろう。
 量化を拒む価値づけもある。尊厳は、トップのみが価値をもち、(価値の量的違いがわずかであっても)二位以下は、無価値となる。自然界では、トップで尊厳の人間だが、トップが神になったときには、第二位であろうと人間も非尊厳、虫けら扱いとなる。尊厳は、トップの支配者に付与する価値だから、わずかな差であっても第二位以下は被支配者として、一律、非尊厳となる(cf.近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00020345))。価値は、そとから、これに関わる者が付与するものだから、一つの場では至高の価値をもつものも、ほかの場では無価値・反価値あつかいになる。独裁国家の尊厳の支配者は、周辺国からは、無能有害の無価値・反価値存在となる。


拡大使用される価値の概念

2022年09月06日 | 苦痛の価値論
3-1-5. 拡大使用される価値の概念  
 価値は、欲求を充たすものということで、欲求する者によって引き出され利用される物の特性になる。場合によっては、欲求という営みがなくても、役立ち利用されるということだけであっても、その物にとっての価値がいえるであろう。価値概念の拡大使用である。植物が空気を利用することにおいて、空気に価値があるということができる。土や水も植物にとって、有用なものとして、価値あるものとなる。動物だと、欲求があって、それを満たすものを見出しこれを獲得しようと価値をふまえて動く。植物には、心的営為としての欲求はないから、これを満たすもの・価値あるものと意識することなしであれば、狭義の価値の世界からは外れそうだが、ひとが関わって作物にとっての有用・役立ちという点から見て肥料とか水を価値とみなすことになっていく。
 価値は、欲求を充たす有益なものとして成立するが、その限りでは、欲求的な営為のない物においては、価値は狭義には見出されない。物事とその連関そのものは、価値ではなく、事実としてとらえられる。事実の世界と価値の世界の別であり、存在論と価値論の世界の別である。
 「価」「値」は、漢字では、いずれも人偏で、人間的営為のもとにあって、欲求にふさわしいもの、適合しているもの、妥当したものを指すことばであろう。が、人偏(欲求)をはずせば、その適合・妥当ということでは、さらに広範囲にわたって価値をいうことができる。価値を一般的に使うのは、経済を中心とした人間界でのことで、欲求を充たすにふさわしいものを価値とするのだが、物同士や抽象世界でも「妥当」「適切」「似つかわしい」ということでこれを使うことがある。
 英語のvalueやフランス語のvaleurの場合は、ラテン語のvaleo(能力がある、有効である)によるから、能力あるもの一般となれば、物にも言えることで、漢字の「価」「値」が人偏の限定をもっているのとちがい、広く使うことに抵抗はなさそうである。数値(numerical value=数的価値)は、そこに妥当する、あてはまる、ふさわしい数ということであろう。広義において、人間ぬきにして、妥当する、ふさわしいという意味での価値概念である。原子が他の原子と結びつく場面では、原子の価値(原子価(atomic value (valence))などとも言う(漢字で「原子の価値」「数字の価値」と言った場合は、それらの人間社会への役立ちを意味することになりそうである)。