理性存在としての尊厳を自覚した節制でありたい

2016年06月06日 | 中庸としての節制(節制論5)

 

5-3-8. 食欲・性欲の昇華、高度化
 性的欲求は、生理的な充足だけでは満たされない。失恋は自慰では自慰できない。ひとの性欲は、繊細な社会的欲求となり、高度の精神文化のもとに展開されている。一層高度化しては、恋愛文学となり愛の歌となって、性欲は高尚・高貴に華ひらき昇華される。
 食の場合は、絵に描いた餅では充たされない。実際に食べるということを抜きにしたものでは満足はできない。食欲を尊重し、かつ節制のきいた食の様式として、精神的に高度化した懐石、精進料理(僧堂の粗食)のようなものがある。

 

5-3-9. 理性存在としての尊厳を自覚した節制でありたい
 ひとの尊厳は、うちなる自然感性(食欲や性欲等)を理性が制御できることにあるだけではない。自分の周囲に広がる大自然をも合理的に制御できての理性的尊厳である。自然の資源を浪費しこれを枯渇させるまでにいまの人類はなっている。地球にとって貪欲で快楽主義的な寄生虫にとどまっていてはならない。尊厳をもつ人間には、環境と共に清清しく生き、慎ましく、無欲であることが求められているのではないか。

 

〔節制論 完〕

 


「禁欲」と「欲求充足」の支え合い

2016年06月05日 | 中庸としての節制(節制論5)


5-3-7. 「禁欲」と「欲求充足」の支え合い
 美味は過食になるから抑制がいる。他方で、美味は、よい栄養のあるしるしであり摂取の必要もある。その禁欲と欲求の充足をともに満たすことがいる。禁欲は、欲求充足の快楽を大きくし、欲求充足は、禁欲を耐えやすくする。一日という単位となるところで、この禁欲と快楽享受の両方を満たせば、節制は、あまり無理がなく長く続けられることとなろう。
 性欲の節制も同様で、夫婦間以外では全面禁止であるが、夫婦間では大いに淫し乱れたらいいのである(節制は、出産時などの例外を除いて、性欲自体は抑制しない。不倫等への逸脱を禁じるだけである)。

5-3-7-1. 欲求に別の欲求をぶつける
 禁煙中は、口にたばこをもっていく代わりに、ガムや飴を口にしてごまかす。甘い果物類がいけない場合、野菜類で、トマトとか胡瓜といったものでなんとかなる。たばこの代わりのガムとちがって、一応は欲求をおさめることができる。
 遊びに夢中になれば、食欲旺盛な者でも食のことを忘れる。性欲は、ときに長期的に別の欲求がこれを忘れさせる。仕事や研究に没頭する状態では、性的逸脱の身勝手を妄想するどころか、性欲自体が消える。

5-3-7-2. 多方面に楽しみをもてば、食・性等の快楽への執着はやむ
 辛い生の慰安として、確実に得られる飲食等の快楽がときに利用される。だが、過度にのめり込んだのでは、自他に問題がでてくる。人間的な他の種々の営みを快適なものにできることが必要となろう。芸術とかスポーツはそういった楽しみとなる。発明や研究活動も夢中になれるものであろう。仕事も、熱中し生きがいのあるものにと自身で工夫することができるかも知れない。


節制における忍耐の持続、持続の忍耐

2016年06月04日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-3-6. 節制における忍耐の持続、持続の忍耐
 節制は、毎日繰返される食と性の欲求への日々の対応となる。食の節制での体重(肥満)の減量など、節制の意志を放棄すると、たちまちに肥満が復活する。欲求抑制(の辛苦)への我慢・忍耐を続けること、そして、節制をどこまでもあきらめずに続けるという、持続の忍耐、辛抱が必要である。節制の忍耐は、快楽(プラス)抑制の忍耐であり、傷害(マイナス)への苦痛の忍耐とちがって、余裕があり、困難の度は低い方であろう。その忍耐ができないようでは情けないことである。節制の忍耐では、慣れてくると、抑制なしで適正な、無欲な状態ができあがる。そうなると、節制も忍耐も無用となる。

5-3-6-1. 忍耐できる程度は、目指すものや賞罰によって大きく異なってくる
 忍耐は、自分の心身の辛苦に耐える。どの程度耐えられるかは、自身の覚悟しだいというところがある。忍耐の目的や動機、賞罰は忍耐力を大きくも小さくもする。肥満は格好が悪いからという程度の動機で節制するのと、肥満すると受験資格を失うというのとでは、節制(忍耐)への意欲は異なってくる。糖尿病を治す目的でする節食と時流でする節食は同じではありえない。殺人は、死刑を覚悟のことがあるが、不倫・買春が死刑なら、どんな身勝手な者でもこれを節制(忍耐)するに違いない。

5-3-6-2. 節食の忍耐での身近な賞罰
 減量では体重を日々計るが、体重の計測は節制の忍耐をはげます。節制できていたら翌日の体重は減量して褒美が与えられるのである。過食したらその翌日は体重が増加しているという罰も加えられる。
 食の場合、食べる快楽自体が節制の忍耐への賞罰となる。節制の我慢ができて減量できている日は褒美に好物を用意すれば、はげみとなろう。ペットのしつけと同じである。ペットとちがい、自画自賛であり、罰の食事も可能である。節制(忍耐)できてない日は、いつもより粗食にすればよい。

 


葛藤・自制・克己

2016年06月03日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-3-5. 葛藤・自制・克己
 節制では、理性と感性の葛藤が生じる。快楽享受を好きなだけしたいという食や性の感性的欲求を理性は制限して、個と全体(社会)の健全な生にかなうものにと抑制していく。美味しいものは飽食したいし、肥満は避けたいしと、感性(食欲)と理性の非両立の望みに悩むことになり、両方の間での葛藤となる。その葛藤を受け止めつつ理性は、節制において穏和な解決をはかる。節制する理性は、適正な限度までは快楽の欲求を満たし、それ以上は禁じる。性欲では禁じるのは逸脱だけである。節制において無理のない自制がなり、健やかな克己が実を結ぶこととなる。

5-3-5-1. 節制での克己には、過激な撲滅と、穏和な抑制がある
 ギャンブルや麻薬では、自分の快楽欲求を過激に撲滅するのが節制の一般であろう。欲求撲滅で生は健やかさを取り戻す。だが、食の場合、食欲は本来的には生を維持する大切なもので、抑制がいるのは、それが過度になったところのみである。性の欲求の撲滅は、個体の生には悪影響を与えないかもしれないが、人類の存続をあやうくする。理性は、食や性の感性的欲求では、過度・逸脱となる部分のみを撲滅する。節度のある食欲・性欲であれば、なんら気にすることなく十分に快楽を堪能できるような、穏和な抑制である。

5-3-5-2. 自制・克己の精神の希薄なひと
 「口が卑しい」ということがある。おいしいものに意地汚く貪欲ということである。動物は食べ物には卑しい。この動物的自然をひとは超越し、これを理性で制御できる。快楽(美味)享受への自制は、動物としての己に克って、ひとを人らしく高尚にする。
 「下半身がだらしない」ひともいる。性欲の発現では、その社会の性秩序を厳守する必要がある。「殺すな、姦淫するな」は古代からの戒めである。これらは時に激しい衝動になるが、社会と自他の安寧のために、みんな、夢と現実は峻別し、逸脱を自制してきた。不倫等の性的逸脱は、100%身勝手によることで、殺人とちがい容認できる例外はない。

 


入る分とちがい、出る分は、ほとんど自由にはならない

2016年06月02日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-3-4-6. 入る分とちがい、出る分は、ほとんど自由にはならない
 食べたものは、消費されて出て行く。出る分のうち、体温・呼吸・循環などの生命維持に使われる基礎代謝は、さしあたりは変わらない。自分の意志で自由になるものではない。若干でも自由にできる出る分は、運動ということになる。
 節制は、入る分、快楽欲求を制御するもので、運動には、直接は関与しない。ただ、入れる分が過度になるかどうかは、消費して出す分の量によることで、間接的には、節制が配慮すべき領域に入る。

5-3-4-7. 運動は、健康促進に必須で、やり方によっては肥満解消にも役立つ
 効果的な肥満対策の運動は有酸素運動で、遅筋を働かせ酸素を使うウォーキングなどをすると脂肪が燃えて減量になるといわれる。基礎代謝の増大には速筋の増強が必要で、この速筋は、激しい瞬発的な運動をにない糖質を使うようである。
 運動は、健康に資するが、体重の減量の中心にはおかない方がよい。わずかの運動では、食欲を増進させるだけである。減量用の運動は、通勤を徒歩にするなど日々の生活に組み込む必要もある。食事は欠かさないが、運動場等での運動は、雨天や時間がない日はやめる(肉体労働は、継続の点でも運動量の点でも減量には理想的である。雨の日も風の日も欠かさず毎日8時間は運動をする)。

5-3-4-8. 食の節制は、少しずつ積み重ねての持続をもってなる
 食の節制は、毎日繰返される食事のこと、日々は、ほんのわずかの、無理のない修正にとどめ、体重も少しずつ減量するのが普通である。一気に5キロぐらい簡単に減らせるが、それではその減量のあとが続かない。持続できる減量としては、一月に2キロもできれば、上々であろう。積み重ねれば一年では20キロの減量となる。
 運動での減量は、節食の持続と運動の持続をもってなるが、運動を続けても節食をさぼるひとは減量できない。運動はさぼっても節食を続けておれば減量はなる。

5-3-4-9. 永続できる節制の方法を始めからとるべきかも
 減量は、過激で異常な方法でも達成可能である。だが、バナナダイエットで、いつまでもバナナだけというわけにはいかない。そのあとは、リバウンドしないように、その理想の体重維持のための永続可能な節制の方法がとられるべきことになる。ということであれば、最初から、粗食などで、持続可能な死ぬまで続けられる方法をとる方がよさそうである(減量の達成までは若干強化したやり方が必要だろうが)。運動での減量は困難だが、永続性を考えたら、運動も生涯必要なことだから、節制対策の最初からこれも組み入れておく方がいいのかも知れない。