危機は、危険現実化の差し迫った局面

2011年06月27日 | 勇気について

2-1-5.危機は、危険現実化の差し迫った局面
 危険の可能性が高まり、今まさに現実性に展開していこうという、危険の最終局面が「危機」である。単なる危険ということでの構えでは済まなくなり、禍い阻止の、後のない緊迫した構えをつくることになる。山で猛獣に出合う「危険」に備えて猟銃を用意するが、実際にそばに猛獣が来たら「危機」対応となり、引き金に手をかけることとなる。危機では、これを放置しておくと危険が現実化して禍いの襲来となる。禍いの生起が決定的になりつつあるという、禍い襲来への臨戦態勢がとられるべき段階である。
 危険への一般的意識では済まなくなって、「危機意識」という特別な最後の対抗的構えをもつことになる。反応として、危険に構えるのみでなく、禍いが現に迫っていることへの火急の対応がいるとの意識である。危険は、禍いの可能性一般で、度合いは、いろいろあるものの、まだ余裕がある。だが、危機では、危険が高まってきて、ついに、禍い襲来への岐路、分かれ目のところに来たのである。切羽詰った重大な局面で、禍い襲来への最後の防衛・戦いにいどむ場面ともなる。危険同様に危機も、禍いの現実的可能性であるのみではなく、同時に、その回避の最後の可能性なのでもある。「危機一髪」というが、これは、回避の可能性を実現できたときのことばである。
 危機では、恐怖の危険のなかでさらに危険が高まったのであり、恐怖は、度を強める。かつ、禍いの現実化を目前にしてどういう加害になるのかと不安におののく度も大きくなる。禍いの確実なことから、「もう駄目だ」と諦念ぎみになれば、悲嘆・絶望にも捉えられることとなろう。危機は、危険の最後の側面だが、漸次に進行するものの場合、禍いの現実化した最初の場面がもう始まっているのでもある。
 危機で、「もう逃れられないか」と半分諦めると、居直って、恐怖におののくことから解放され、一か八かといった大胆な行動も可能となる。危機の破れかぶれは、「窮鼠、猫をかむ」状態をつくることともなる。覚悟をきめて、残された可能性に集中し、「うまくいけば儲けもの」と、意外に冷静に積極的に対処していくことがある。恐怖に忍耐する勇気であるより、大胆・果敢の勇気になる。火事で焼死の危機を前にすれば、高所恐怖の者でも5階から飛び降りる。新規の試みのなかでの危険・危機への出合いの場合は、その危機への挑戦は、飛躍への剣ヶ峰となる。その試みへの大きな期待・希望・欲望が、危機を乗越えていく強い意志を発動させ、獅子奮迅の勇気を導くことであろう。


危険も禍い、禍いも危険、安全も危険。

2011年06月22日 | 勇気について

2-1-4.危険も禍い、禍いも危険、安全も危険。
 危険・危機において、ひとは、禍いの襲来に備える。それは、禍いの可能性で、まだ、そこではその禍い自体には出合っていない。だが、Aという禍いの危険Aは、Aという禍いではないが、その危険自体がBという禍いとなることはしばしばである。危険ゆえに恐怖におののき、不安にさいなまれる。禍いはまだ襲来していないとしても、禍いが避けられたとしても、危機対応の日々に、心身は疲労困憊して、命を縮める。このこと自体、禍いである。
 福島の東電原発事故(2011年3月)は、周辺のものにとっては放射能汚染の大禍になった。その大禍の危険を回避するために、遠方に避難した。だが、その危険回避の避難生活自体、苦難・災難であり、この危険対応の営み自体もまた、禍いである。この避難生活の禍いの危険を回避するために、お金持ちの中には、しばらくハワイの貸し別荘で暮らそうと計画した人がいるかもしれない。だが、この禍いの危険の回避も、それ自体禍いになりうる。片言の英語では苦難の常夏となることが予想される。
 ひるがえって、はじめの大禍の放射能汚染であるが、これも禍いではなく、危険・危機とも捉えうる。放射能汚染の問題は、内部被曝という身体内汚染がのちのち遺伝子等を破壊して各種の病気を引き起こす大きな危険性をもっていることである。大禍、放射能汚染は、のちの病気という禍いへの危険となる。
 危険は、禍いの現実化の可能性であるが、可能性は、それ自体別の現実性でもある。禍いは、現実性であるが、同時に何かになる可能性でもある。否定的な価値に注目していうと、いずれもが重複して禍いとなり危険となる。だが、肯定的な価値の方面に注目すれば、禍いの現実は、未来のための好機という可能性となり、幸いともなりうる。危険という可能性は、別の方面の好機に変えられ、まだ恵まれた現実でもある。危険も禍いも、しばしば、新規の誇らしい試みの不可避の一手段・犠牲で、それを乗越えれば、大きな価値獲得のなるチャンスなのでもある。
 福島の原発事故では、禍い・危険とともに、反対の「安全」の危険度を思い知らせた。安全は、危険の源があって、その発現だけが現状のもとではゼロにされているということである。風力発電では、放射能汚染からの安全を問いただすことはない。世界中のテロリストが襲撃しても(発電)風車では放射能汚染は引き起こせない。だが、汚染の危険を封じ込めているどんなに安全な原発であっても、その危険を解き放つぐらいならドン・キホーテひとりにでもできる。「フクシマ」の事故以来、日本では、年間の被曝限度量が20ミリシーベルト以下なら安全だとか、100ミリまでは大丈夫とか、国際基準でいう1ミリ以下でないと安全とはいえない等と安全基準が問題となっている。安全な1ミリシーベルトを基準にすると、他の安全は、危険の1ミリを越えること、20倍、100倍の危険になる。安全なところでは、安心はほどほどにして、常々危険に注意しておくことが必要である。
 


危険の度合い・レベル、安全性

2011年06月21日 | 勇気について

2-1-3.危険の度合い・レベル、安全性
 危険の可能性は、禍いの現実性にと展開していくが、その現実化の程度は、様々である。単にあり得るという非現実の抽象的な可能性から、必然性をもった現実的な可能性までがある。氷河湖の決壊の危険は、寒冷期にはゼロに近い可能性にとどまるが、温暖化して春先なのに割れ目がどんどん広がっているとしたら、下流域のひとは、危険の現実化が必至と見て避難することであろう。
 危険の可能性は、それのゼロであるところ、安全からはじまる。安全というと、危険の反対だが、安全は、危険そのものを前提しつつ、その発現からは防護されているという状態である。氷河湖決壊の危険がまったくありえない、氷河の存在しないところでは、決壊からの「安全」は、いわない。その危険のあるところで、本来、危険(可能性)はあるが、それの発現する可能性が、一応阻止されているとき、「(地震など想定外のことが生じなければ、まずは)安全です」という。危険の可能性が抽象的な可能性にとどまっている場合、現実的に差し迫った危険はないということで、「(まだ)安全です」と言われる。
 禍いの現実化するその危険度は、禍いの襲来の勢い・強さにより、かつ、現実化には時空間が関与するから、その時空の遠近をもって測る。踏み切りを渡るのは、「危険だ」という。電車が間近に迫っている場合、その危険を放置しておくとこれが現実化する。その禍いは、確実にやってくる。だが、日に二三本しか通らないローカル線で、いま通り過ぎただけと確認できておれば、渡っても「安全」である。それでも、線路がある限り、運悪く、作業車などが不意に迫ってくる可能性はある。安全は、危険の源を残しての安全である。
 ひとは、高い価値を獲得・実現するために、あえて危険もおかす。新規の試みは、危険を避けていたのでは、前進しない。危険・リスクにチャレンジしてはじめて躍進はなる。危険が現実化したときの価値喪失を計算しつつ、危険に挑戦する。その危険から生じる禍い・犠牲の許容できるぎりぎりの限度までを安全とみなして、ことを進める。水とか食物の安全では、完全な無菌状態ではなく、ある量以下の細菌とか有害物質の存在をもって安全という。
 同じ危険(の可能性)といっても、われわれは、日頃から、その度合い・レベルを区別して捉え表現している。熊に襲われる「危険は、ある」「危険がある」「危険です」の順に可能性が大きくなる。「危険は、ある」のなら、一応、注意しながら入山することになる。「危険がある」場合は、鈴でも鳴らして歩こうと若干警戒する。「危険です」のレベルになると、登山中止か、撃退の道具を持参しなくてはならない。なお、熊に襲われる「危険は、ない」のが、「安全」になるが、これも危険の領域・圏内にあって、危険の本源自体はそこに存在していての、さしあたりの安全である。


(禍いの)危険という可能性

2011年06月20日 | 勇気について

2-1-2.(禍いの)危険という可能性
 禍いの襲来の可能性が生じた状態は、「危険」「危機」となる。危険では、まだ禍いは生起しておらず、その可能性に留まっているから、この可能性は禍いの襲来をストップできる可能性でもある。危険という可能性を阻止して、恐怖も勇気も禍いの排除の可能性に賭ける。ライオンや熊に出合ったら恐怖する。自分の生命への危険が察知されるからである。その恐怖の段階では、だが、まだ、危害は加えられていない。一目散に安全なところに逃げて、助かる可能性なのでもある。危険への恐怖は、緊急に防御態勢をとり、全能力をもってこの危険回避の手立てをとることへとひとを振り向ける。
 危険という可能性の(恐怖の)段階と、その禍いの現実とのどちらが辛いかというと、ものによろうが、禍いの苦難よりも、危険にいだく恐怖や不安の方が辛い事も多い。「案ずるより産むが易し」である。危険が現実化したらもうあきらめるしかないが、逃れることができるかも知れないのであれば、ひとは、もてる最大限を尽くすことであろう。それに対応した生防衛の感情が恐怖や不安であり、強い不快感をもってひとを強引に危険回避にと向ける。
 危険への恐怖や不安は、禍いという差し迫った未来の可能性におののき縮こまる。同じ未来の可能性でも、希望は、人を明るくのびのびと、生き生きとさせてくれる。希望実現の可能性のほどは、はじめは相当に低い。それを希望は、理想の目的の方向へと可能性自体を一歩一歩高めていく。危険の(禍いの)可能性は、反目的の障害として、思わぬ形で多様に多方面に出没する。その多様な危険のどれとも衝突しないことを願い、ひとは、その可能性を低くするよう注意し、危険の回避につとめる。身近になるとこれから身を防御しようと、萎縮して身構え恐怖する。
 はるかな目的に集束していく、近づきたい希望と、ばらばらに多方面からやってくる、できるだけ避けたい危険は、真反対になる。が、障害・危険を乗越えて、希望(目的)に邁進するということで、表裏一体ともなる。老病死の危険の裏側、その危険の回避は、健やかな長寿の願いというはるかな希望そのものである。希望の実現・前進を妨げているものを排除し、その危険を乗越えて進むのが勇気となる。未来に生きるものを励ますとき「希望と勇気をもって!」という所以である。志を高くもち新しいことに挑戦するところでは、しばしば大きな危険・リスクに出合う。この危険を乗越えて進む勇気がないと、希望の達成は覚束ない。


禍いの襲来

2011年06月16日 | 勇気について

2-1-1.禍いの襲来
 勇気は、「危険」の排撃につとめるが、その危険とは、禍いの危険である。「事故の危険がある」段階では、なお「無事」の状態であり、まだ、事故(禍い)は生起していない。「危険を回避する」というが、これは、禍いの回避のために、その危険のあるところを回避するのである。肝心なことは、禍いの回避である。
 禍い(厄い、災い)は、生の保持にとって「幸(さいわ)い」なことの反対である。幸福「さいわい」は、幸(さち)に、価値あるものに出「あう」ことで、幸福は、多くのひとにとって、人生の究極目的となる高貴な価値である。禍い(わざわい)は、「禍福」というように、幸福の真反対で、人の生が出合いたくない反目的物の、いわば総称である。禍いは、古くは(悪しき、いじわるな)神のわざわざの仕業「わざ」に出「あう」ことであった。「わざ」という超(反)人間的な大きな反価値物の襲来することが、禍いである。この反価値物襲来(マイナスの押し付け)は、ものによっては価値物の喪失・剥奪(プラスの喪失)の形になることもある。
 個々の出来事・出合いを、「さいわい」ととるか「わざわい」ととるかは、これを受け止める主体の生き方次第のところがある。どんな出合いであっても、その個別主体が求めているもの、欲求を満たすものなら価値(恵み)であり、逆なら反価値(禍い)である。だが、生のプラスになることは多くの者において一致していて、同様のものを価値と見なす。自動車にひき逃げされることを福とするひとは、まず、いない(敵の禍いは、自分たちには、こぼれ幸いだが)。それでも、禍は実は福だったと「人間万事塞翁が馬」のようなことがないでもない。禍いに耐え鍛えられて、結果、大きな福を手にするのは、まれなことではない。
 禍いは、ひとをいたぶる神の「わざ」に出「あう」のであり、基本的に、そとからやってくるものとなる。自分のもとに自分が作り出すものであっても、外来のものと捉え、「禍いをみずからが招く」などという。不摂生で病気になったとしても、悪しき事柄である禍いは、自分の求めざるもので自分(意志等)の外にあることである。病気にしても失業にしても、禍いは、そとにあって自分に無縁である限りでは、問題にならない。だが、自分のうちに向かってくることになると、放置できない火急の事態となる。もともとはそとにあるものとして、できるだけこれに自分の方からは衝突しないようにと気をつけているが、禍いに出合うことは、自分の意思を超えていて、自分の注意だけでは避けがたいところがある。自身の求め近づこうとする幸福でさえ思うようにはならず、しばしば「幸運」として天の与える運と見なされる。逆の、自身では避けたいと思っている禍いは、はじめから悲(非)運・不運としてそとから襲ってくるものとなる。