へびへの恐怖

2011年08月29日 | 勇気について

2-3-7-1.へびへの恐怖
 恐怖は、危険なものにする。へびに恐怖するのも、「へびは危険だから」ということである。だが、無毒と十分承知しているシマヘビにも恐怖する。「危険だから、恐怖する」とは、かならずしも言えないのであろうか。
 ひとは、小さな温血動物の頃、蛇類の餌食となっていただろうし、いまも毒蛇の猛毒で死ぬようなことがある。この危険への対応(恐怖)は重要で、いつしか生得的になったのではという説がある。遺伝子のどこかにその記録があることになるが、証明はいまのところできていない。生得的ではなく、後天的経験的に、教育されたりして、恐ろしいものと思い込まされているのだろうという説もある。しかし、へびから危険な目にあわされるような経験をしなくても、こわいものと教えられなくても恐怖してしまうようである。
 毒があろうとなかろうと、へびは、その姿が怖いのである。おそらく、その姿自体に恐怖させる原因があるのであろう。海蛇の類いに、地中に穴をほってかくれ、餌を獲るとき顔を出すのがいるが、顔を出して小指ぐらいまでは可愛い。だが、どんどん伸びてひも状に見えてくるとゾーとしてしまう。細長いあの姿をしたものは、ウナギでも気持ちが悪いし、小さなものでは、ミミズも、もっと小さい(どぶの)イトミミズでも、気色悪いものとなる。では、どうして、あのように足がなく細長い動物は気味が悪く怖いものになるのであろうか。
 ひとは、感覚的世界を捉えるとき、単に感覚器官からの諸印象を受容するだけではなく、おそらくは、これを、意識に予め内在している概念等でもって総合統一して、意味ある感覚像にと作りなして知覚するのである。動植物を見るときには、動物や植物の概念・典型的図式をもって、これに当てはめて、目の前の感覚像を構成していく。そのとき、へびは、問題となる。動物一般の図式には、動く物には、足があるのに、へびにはそれがないから、典型的な動物図式を拒否する理解しがたい存在となる(足があれば、あの胴長でも、ヤモリや龍がそうであるように、親しみが持てることであろう)。かつ、ほそながいものは、大体が植物なのに、その木の根っこ風のものが、突然、動きだすのであり、へびは、植物の図式も破壊する。ということで、ひとのもっている一般的図式に当てはまらないから、へびは、分からない・不可解なものとなる。奇怪なものとなる。これが小さければ、気味悪い程度だが、へびのように大きくて、しかも素早い動きをすると、その不可解な奇怪なものは何をするか分らない危険なものと感じられて、恐怖の対象とされていくのではないか。
 慣れるとだんだん蛇も怖くなくなるのは、へび用の図式が自分のうちに形成されて、これをもって目の前のへびを「へび」類として把握でき、分るものとなるからであろう。へびの怖くない人は、へび用の図式を、諸々の概念・図式を形成する幼年期に作ることができているということになろう(概念・図式は、経験的に学習して獲得されていく。幼児では、まだ動物とか植物といった図式(典型)の形成がなく、この図式で世界をとらえないからであろう、へびを怖がらない)。
 へびへの恐怖も、不可解で不気味なもので危険と判断してのものになっているわけである。恐怖は、やはり、へびでも、危険と見なされたものへの恐怖になっていると見ていいのであろう。


想像力は、感覚像を裏で支え構想もしている。

2011年08月25日 | 勇気について

2-3-7.想像力は、感覚とは異質だが、感覚像を裏で支え構想もしている。
 夜の暗かった時代には、多くのひとが幽霊を見ていた。びくびくしながら夜道を歩いていると、なにかの影をこわい物に見てしまうのである。想像するのではない。想像たくましく、そのように感覚するのである。恐怖は、想像をそういう恐怖を帯びた方向に一層たくましくしていくのみでなく、現実の感覚自体にも作用してこれを恐怖色に染めてしまう。道端にある長い木の根っことか縄やひもを蛇に見させる。へびでないものを、へびに見るのであるから、ないものを描く想像力がそこでは何らかの形で働いているのであろう。その木の根っこに並べてへびをそこに想像するとか幻覚を見るというのではない。根っこ自体をへびと感覚するのである。
 ひとの目は、単に光を受容しているだけではない。客観的所与の光の波長の違いを色にと主観内で構成し直すことからはじめて、感官を通して与えられる感覚の多様をまとめ構成・構想して感覚像として知覚している。感覚のもとには、その感覚的な多様な印象群をまとめあげ統一していく能動的作用が必要である。視覚に映じた多様な色や形を漫然と眺めているのではない。そこに意味あるものを区切り選び出し構成していく。「ルビンの壷」のように、主体しだいで、壷を見たり相対する人を見たりする。壷と見る場合、「壷」状のものが抽出できそうなので、壷の像を予め想い、その想像にひかれつつ壷の図形をそこに見出していくのであろう。人の横顔を見出すのは、壷の輪郭・凹凸面に注目するとき、ひとの横顔的なものを区切りとれそうで、ひとの像を想起しつつ、これに当てはまるものとしてその凹凸に人の像を読み込んでいくのであろう。痔に悩んでいるひとは、壷でなく、肛門の断面図を読み取るかも知れない。ジブラルタル海峡を眼下にしたり、ガウディ好みの建物の並ぶ狭い街並みで空を見上げてシャッターを切っている感じになるひとがあってもいい。各自想像を予め用意しつつ、目に映る図を想像にあうように区切り意味あるものを読み込んで一定の像をそこに見出していくのである。山道を歩きながら、地面から、線状のもの・丸まったものなど多様なものを視覚に受け入れて、そこに根っこや石ころといったものを読み込み、それらを見出していく。そこで一つの線状のものに、根っこでなく、へびを想像し読み込めたら、そこにへびを見出すことになる。
 感覚に与えられるものが少なければそれだけ意識は自身でこれを補って感覚像もつくりあげていくことになる。暗いところで細長いものが見えれば、なにかと定かでないほどに、大きな補いをしてみていく。そこに恐怖があれば、その方向に危険なものを想像し勝ちで、その想像は、危険なもののなかから感覚されている形状に近いものをもって構想して、細長いものが地面にあれば、蛇を見るようなことになっていく。 
 危険と恐怖の関与する未来の想像は、不確かで変更可能であるが、感覚したものは、事実として確かなものと見なされる。が、感覚像も、想像力(構想力)によって支えられているのであれば、恐怖にとらえられた者がゆがめたり、錯覚してこれを見ている可能性もあることになろう。感覚的な事実といえども、ひとの想像・妄想の影として疑うべき場合もあるわけである。


(危険の)感覚的想像の感覚的あいまいさ

2011年08月22日 | 勇気について

2-3-6.(危険の)感覚的想像の感覚的あいまいさ
 想像は、狭義には、現実の感覚状態がないのに、感覚像に近いものを描き出すことであろう。感覚「像」を、感覚器官が働かない場面において「想」うのである。想像は、感覚像の希薄になったものだということがある。ヒグマを前にして、恐怖するのは、まだ、襲われる前のことで、つめで自分の体がひっかかれその牙で噛み付かれることを想像して、ゾーとするのである。すこし先に現実的感覚で把握することになるものを、先行して感覚類似の図・像を描く。
 だが、感覚している像があってそのすぐ先(時間的に一瞬先)に想像図を描く場合も、その感覚像と想像図は、そうとうに異なる。想像図は、もうひとつの感覚像とはならない。夢の場合、感覚は働かず脳内のみでの、いわば想像と同じく感覚なしでの感覚様の世界になる。だが、夢は、想像とは見なされない。想像は、夢のような真にせまる感覚像を描かない。また、感覚類似のものが感覚像と並ぶとしたら、それは幻覚と見なされ、想像とは言われない(抽象論理の左脳の支配する現代人とちがい、直感的に生きるひとのもとでは、結構、想像で感覚像といえるようなものを描けるのだともいうが・・)。
 想像は、狭義の、感覚像に近いものであっても、おそらくは、そうとうに非感覚的な抽象像にとどまる。本来的に想像は、感覚とは異質であり、感覚的な具体・個別は不分明になりがちである。想像で菊の花を想い描くとして、その花びらの枚数を数えようとしても無理である。予め枚数を、たとえば16枚と数字を概念的に銘記していた場合には、16枚と想像していける。想像は、概念的な知のリードのもとに描かれるのであろう。
 想像では、感覚世界の一側面のみを、一般的な概念・図式をもって抽象的に描くのであり、具体的現実の感覚的な多様は想像だけでは描けないのではないか。菊の花を想像する場合、はなびらの枚数が数えられないのみでなく、想像する場面について、「いま想像している花は、花瓶にさしてあるのですか、植えられているのですか」と言われても答えられない。葉についている虫も見えない。抽象的に想像しているのである。予め概念的に「虫食い」の葉という意識をもってはじめて、虫食いが想像できる。
 危険・禍いの想像図は、例えばヒグマに襲われる想像は、現に熊がそこにいるのなら、その牙や爪を見ながら、それに重ねて、噛まれるとかひっかかれるとかの概念を想起し、それを感覚図に添付するのであろう。かりに、そこでありありと具体的な感覚図に匹敵するような想像図が描かれるとしたら、それは、想像ではなく、幻覚となる。想像図は、感覚でも(感覚様の)幻覚でもないのだから、感覚と区別され、これに重ねても混合することのない抽象的世界になるのではないか。感覚像が薄められ曖昧になって想像図がなりたつのではなく、非感覚的な、つまり、一般的な観念・概念を始源にして、そこから感覚的な具象世界に沿えるような図像を抽象的に描き出していくのが想像になるのではなかろうか。


危険回避には、杞憂・妄想が活躍

2011年08月18日 | 勇気について

2-3-5.危険回避には、杞憂・妄想が活躍。
 喜び(の感情)は、価値物獲得が確定してから抱く。「もし宝くじが当たったら」という仮定・想像では喜べない。「間違いなく当選番号だ」と確定してはじめて驚喜する。だが、恐怖や不安は、不確定どころか、仮定・妄想であっても、そこに自分の危険を想像できれば、不安になり、恐怖することになって、その対処にと駆り立てられる。 
 危険は、仮定・想定でも十分に不安・恐怖を生じさせる。「先日の交通事故のことで、これから知り合いと、お宅まで行くから!」と電話があったら、仮にその「知り合い」が暴力団だったらどうしよう、やっかいなことなるかも知れない、と不安になるであろう。事故の相手がチンピラ風だったから、「恐らくヤクザが・・」と思うと、事実ではなく仮定でしかないとしても、単なる妄想であっても、恐怖することがありうる。そして、現れた「知り合い」が保険関係の人だと分かったら、自分の妄想と臆病を恥じながらも、ほっとすることであろう。事実でない想像・仮定に、虚妄に恐怖していたわけである。
 恐怖は、未来の禍いの危険にするもので、想像なくしては危険も恐怖も成り立たないが、その想像は、ひろく、抽象的な仮定のものでも、いい。想像したものが妄想だからといっても、それは、無意味に恐怖したことにはならない。その可能性はあるから、そう想像したのである。「ひょっとすると、ヤクザに脅されることになるかも・・」と、妄想かも知れないが仮定できるのであれば、無駄になる可能性大であるとしても、万が一に備えることができる。あらかじめ、脅迫の証拠を残すために録音する準備ぐらいはしておこうと慎重な対応をとることができる。
 われわれの日常生活では、禍いと言われるものに実際に出合うことは、そう多くはない。だが、その可能性の危険には、しばしば出合っている。危険の段階で、ほとんどの禍いが回避されているのである。街にでて歩いているだけで、車とか自転車とかに危険な目にあわされる。危険を気にしなければ、ほぼ確実に禍いに出合うことになる。禍いには合いたくないから、危険になりそうなら、その前にこれを察知して危険を避け、さらには、危険と感じないで済むようにもしている。交通信号を守るというのは、危険・恐怖の一歩も二歩も手前での心構えである。事故にあうかもしれないから車には乗らないとか、今日は日が悪いから外出は控えるといった構えになると、危険の三歩も四歩も前のことで、杞憂であり、妄想に近くなるであろうが、そう心がけている人があってもおかしくはない。
 書類を郵送するとき、万が一届かなかったらどうしようと不安になるのは、今の時代、杞憂・妄想の類いになる。しかし、ひょっとしてと紛失を妄想する。その妄想・杞憂が一般にあるからこそ、確実にとどくことになる配達証明の郵便もそろえてある。届いたことの電話があると、自分の妄想・杞憂を若干恥ずかしく思いつつ、安心する。だが、そういう妄想・杞憂にまで心を尽くしているから、危険に満ちたこの世界で、多くの危険を何歩も前から回避して安全に生活できているのである。


危険を隠して安全のみの想像に誘われるのも怖い。

2011年08月15日 | 勇気について

2-3-4.危険を隠して安全のみの想像に誘われるのも怖い。
 甘誘(勧誘)する者は、危険・禍いを隠し、利・安心を誇張し、危険の方向に関心を持たせないようにする。魅力的なものをえさ・手段にして誘(おび)きよせ、誘(さそ)いこむ。危険は未来にあり、まだ無い想像の世界だから、やり方しだいで、注目させず無いものにと誘導できる。誘惑された者は、安全と思い込まされ安心して、危険の高まりを放置し、最終的に大きな恐怖をもって大禍を被ることになりがちである。
 誘き誘うことも脅しと同様、国家などでも手段として利用することがある。脅す「北風」ではなく、アメでもって誘惑する「太陽」の方法である。やはり、後者の方が、危険なものの受け入れには効果的である。「フクシマ」をきっかけに大問題となっている原発もそれである。原発を地元に受け入れてもらうために、安全を強調して、危険は、なるべく意識しないようにさせ、アメをたくさん用意して、「幾重にも安全が施されているというから、まず、安全なんだろう」という方向へと誘導していく。送電ロスの少ない大消費地(東京・大阪)には絶対に造らず過疎地域のみが選ばれているということは、言わず語らず、原発はかなり危険だと国も電力会社も前提にしているということである。そうだと分かっていても、それを頭の隅っこにしまいこませるだけの利益誘導がなされる。
 脅迫と逆で、怪しい投資話に大金を出させようとする者は、たくみに話に誘いこみ、リスク・危険がまちがいなくあるのに、これを隠し、危険について感覚麻痺の状態にもっていく。積極的には、二三回、配当だと高額のお金をくばり安心と欲を満たして本格的に大金を投入させる。安全を誇張し、安心できるようにする。危険も安全もいずれも、想像によって描かれるのであるから、誘惑する者は、危険に気づいて尻込みしないように、不安・恐怖をいだかないように、巧みに安全・安心の方向へと想像をもっていく。単に誘うのみではなく、あらぬ方へと惑わしもする。
 脅迫に危険を思い恐怖するのとちがい、危険を隠した安全話にのって安心している場合、さしあたりは気楽であるが、最後に途方も無い恐怖を味合わされる可能性がある。危険・恐怖への適正な理性的対応を行うのが勇気だとすると、勧誘・誘惑の場では、勇気ある態度は、危険に対して過敏になり、恐怖・不安もしっかり感じるべきだということになろう(より適切には「臆病であれ!」、「胆は大きくも、心は小さく持て!」であろうか)。
 脅迫は、恐怖させて強要するから、はじめから終わりまで不愉快である。だが、勧誘に応じる場合は、やさしく誘われるのであり、自分が自発的にそれを受け入れていく。あとで、大損害の禍い(犯罪)と分かっても、まずは、誘いにのった「自分が悪かった」となり、しばしば、「でも、勧誘員は、やさしい、いい人だった」となる。