苦痛を甘受する超自然的能力としてのひとの忍耐

2017年01月27日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-5. 苦痛を甘受する超自然的能力としてのひとの忍耐
 忍耐は、自分の辛苦を甘受する。自然的には、自己内に生じた不快・苦痛を前にした場合、これから逃げ、あるいは、これを排撃して、苦痛の回避にと動く。それが動物的自然の一般的な反応である。だが、ひとは、必要なら、自分に生じた苦痛をあえて排除せずこれに反自然的に対応して、この苦痛をそのままに甘受して、忍耐する。苦痛甘受を手段として、より価値あるものを獲得しようというのである。
 基本的には苦痛からは動物は逃げる。苦痛は回避するのが自然的反応である。もちろん動物も大きな快楽に引かれて小さな苦痛を(無視・放置し、結果的に)忍耐するようなことはある。が、複数の快不快の何れかを選ぶという自然的反応としての(大きな快の選択のため、大きな不快の回避のためという、あくまでも快不快のうちにとどまった)忍耐にとどまる。ひとも当然こういう自然的対応としての忍耐をするが、この自然的動物的な忍耐を超えた独自の忍耐をする。ひとは、眼前の最大の不快・苦痛であろうとも、価値ある目的の手段として必要なら、これを甘受する。快不快の自然的反応を超越しているのである。
 ひとは、おのれの尊厳を守るために、どんな精神的肉体的な苦痛にも耐えようとの意志をもつことができる。快不快に自然的に反応する動物なら逃げることになる苦痛を前に、逃げずこれを甘受する自然超越の自由の能力をもつ。ちょうど、腕力が物を動かす直立した人間のもつ特殊の優れた能力であるように、ひとの卓越した忍耐は、(快不快の)自然から自由になり、苦痛とそれへの自然的反応を超越して、これを忍び耐える。腕力という身体の能力をもってひとは、石や槍を投げつけて獲物が獲得できるようになった。忍耐の能力を使って、つらい苦痛を甘受し忍び耐えて、ひとにのみ可能な高度で豊かな生を実現できることになった。


忍耐は、不快・苦痛とともに、いたるところに存在しうる

2017年01月20日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-4-1. 忍耐は、不快・苦痛とともに、いたるところに存在しうる
 不快を対象とする忍耐だが、この不快と忍耐は、反対の快楽を対象とする節制にも、さらには徳目全般にも(いずれも個我に不快の我慢を強いる面があって)含まれている。それどころか、周囲を見渡せば、不快は、日々、いたる場面に存在し、したがって忍耐もいたるところに求められている。減量としての節制は、太れない体質のひとには、無用である。勇気や正義も、日常生活では、めったに出会うものではない。だが、万人、不快・苦痛に出会わない日はないし、それへの忍耐のいらない日もまれなことであろう。不快に出会わないようにと布団をかぶって一日寝ていても、わが身から空腹・尿意・便意等の苦痛が生じて、忍耐が問題となってくる。
 苦痛は、傷害発生を知らせるものだから、動物にもひとにも必須の感覚であり感情である。苦痛・不快を前にすると、生は、これを回避するという自然的対処をもって傷害から身を守る。苦痛とそれへの(回避や排撃の)自然衝動に従うことは、自然の大原則である。かりに(傷害への)苦痛の感覚がなくなったら、次々と傷害に見舞われることになり、無事ではおれないであろう。当然、ひとも自然にしたがい、苦痛を感じこれを回避することで傷害を回避している。
 しかし、よりよく生きるには、苦痛回避ではなく、これを受け入れることが時に必要になる。価値あるものを獲得するには、苦痛を受け入れてこれを手段・踏み台にしていくことが必要となる。皮膚の痛みも、それが注射ということなら、動物とちがい、ひとは、これに忍耐をもって対応し、その苦痛を甘受する。そのことで、よりよい生を維持・確保できるのである。日々の生活に不快・苦痛は頻出するが、これを、自然にしたがって回避しているのみでは、人間的に高度な生は維持できない。忍耐が求められる。朝は、寝ていたいのを無理して我慢して起きる。空腹でも昼食までは、待つという辛抱をしなくてはならない。ひととしてのよりよい生を保つには、苦痛・不快から逃げずこれを忍耐するということが日々必要となる。


忍耐は、節制や勇気などの徳目全般に含まれている

2017年01月13日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-4. 忍耐は、節制や勇気などの徳目全般に含まれている
 節制など徳目には、いずれも忍耐がその契機に含まれる。勇気では、恐怖という不快・苦痛への忍耐が必須である。この恐怖を我慢できないとしたら、勇気は成り立たない。節制では、快楽享受を抑制する。この抑制は、不快であり苦痛になる。この欲求抑制の辛苦に忍耐することが節制をささえる。正義にも忍耐がいる。正義は、不正があってのことで、私利のために不正に誘惑されないようにと自制する忍耐がいる。もちろん、自分の外ある不正を排除・抑制する厳しく辛い姿勢を維持することも必要であり、忍耐のいることである。
 徳目は、いずれも人の価値ある理想的な行為を、あるべき振る舞いを求める。特定の事柄(勇気なら危険・恐怖)へのあるべき特定の振る舞い方(勇気なら平然・大胆・果敢)を規範として描き出し、その理想・規範を目指しこれの実現へと向かう。それらは、「あるべき」振る舞いであり、「なすべき」こととして、当為となる。すべきだといわれるのは、自然的には、気がすすまず尻込みしたくなるからである。その実行は、感性・個我には、「したくない」不快で嫌々なことになりがちである。徳目には、こういう苦痛・不快が不可避的にともない、これを甘受し耐え忍ぶことが、忍耐が必要となる。徳目全般に忍耐が含まれる所以である。


最後の勝利は、忍耐に優れている者の手にはいる

2017年01月06日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3-4. 最後の勝利は、忍耐に優れている者の手にはいる
 弱者は、忍耐させられるが、その忍耐を通して、己の辛苦に挑戦することで強くなる。強者が忍耐すれば、鬼に金棒となる。だが、単に強いだけで忍耐力がなければ、長い戦いとか、自分より強い者には、勝てない。互角の者の間なら、さきに諦めたものが、つまり忍耐力に劣るものが敗退する。猛勇だけで、自分を抑え忍耐することのできない者は、猪突猛進して、猛獣がわなにかかるように、知恵を持った者の戦法の餌食となって笑いものになる。
 強い卓越した者にこそ忍耐が必要なのでもある。こどもの教育では、忍耐がいる。思い通りにならない軟弱な子供をまえにして、いらいらしながらも、教える者は、耐える。教育者にもっとも必要なことは、忍耐だといわれる。猛勇を賞賛し奴隷的忍耐をさげすむ弱肉強食の社会でも、支配するトップにおいては、忍耐が尊ばれた。被支配者たちの愚かしさ・狡猾さに寛大にかまえるのは、辛いことである。忍耐なくしては、優れた尊厳をもった支配はできない。
 単なる強者は、弱い者には強い。が、忍耐力がなければ自分に負け、より強い敵には必ず負ける。忍耐力をやしなった強者は、自分に勝ち、最強の敵にも(勝てないとしても、猛攻の辛苦に耐え)弱音を吐くことはない。弱者も、忍耐力を身につければ、自分に勝ち、単細胞の強者にはやがて勝てるようになる。忍耐は、常に自分(の辛苦)という最適の敵を相手にする。忍耐するなかでより優れた能力が培われる。より強くなった自分がする忍耐は、一層大きな自分の辛苦に挑戦して、さらに強い力を身につけることになる。この忍耐の反復は、やがて、外の最強の敵を相手にできるまでの能力を開発する。忍耐することをいとわない者は、最後の勝利者となることが可能である。
 力を尽くしての戦いは、知力・腕力・忍耐力等の能力を総動員しての戦いである。それらの総合力をもって人間になったのでもある。腕力のみなら、ゴリラやチンパンジーの方が人間より格段に上である。「飛道具とは卑怯なり」と負け惜しみをいいながら敗走する単細胞の強者・勇者は、ゴリラ以下の存在である。