勇気には、強靭な意志がある。

2011年10月31日 | 勇気について

3-1-1.勇気には、強靭な意志がある。
 ひとは、動物的自然を土台にして、理性精神をもって社会的存在として生きている。日頃は、ひとのうちの動物的な営みは、自然本能にまかせてうまく展開している。快楽にひかれ、おいしいものを食べれば、自動的に栄養が身につき、個体維持ができる。恐怖にしたがって、萎縮したり逃走すれば、危険を回避でき、生は安全を確保できる。
 だが、社会的精神的生の営みにおいては、自然的な快不快に従ったままでは、うまくいかないことが生じる。多くのひとは、恵まれすぎていて、快(おいしさ)だけにしたがって食事をしていたのでは、栄養を過剰に摂取してしまう。飛行機に乗るのを恐怖していたのでは、グローバルな生き方は阻害される。食欲を制御し、恐怖を抑圧しなくてはならなくなる。理性精神は、自然(感性)にしたがいつつも、理性的目的にかなう形にとこれを抑制し意志を働かせて、節制したり勇気をふるうことが必要となる。
 ひとの感性的自然の展開は、本能的自動的になされていくから、理性的な意志をそこに介在させるのは、かならずしも、簡単ではない。おいしいものがあると、食欲を抑えることは難しく、満腹するまで食べてしまう。恐怖すると、即座に逃走衝動が生じ、これを制止することは簡単ではない。簡単に変えられるものなら、その自然的な営み自体、自動的に貫かれることにはならないであろう。恐怖しても、暑いから動きたくないと、逃走衝動を安易に停止するようでは、危険の回避は確実にはできなくなる。恐怖や食欲の自然の営みは、強力である。自分の指を動かすように簡単にこれを制御できるのであれば、ことさらに意志が出てくることもないであろう。意志が制御の決意をしなくてはならない、その相手の自然は、理性のいうことを簡単には聞かないものになる。節制の意志は、しばしば、挫折させられる。食の快楽欲求の頑強な自然に、理性精神の方が音をあげることになる。終わりの見えない節制の努力がむなしくなり、理性は、食の快楽の制御に失敗する。
 恐怖は、節制の快楽に比して、さらに強力におのれの自然を貫徹して、理性に譲ることを拒否する。恐怖は、生の危険・危機に対応した生保護の感情なので、これをないがしろにしたのでは生の存続はおぼつかなくなる。恐怖は、強烈に自己を貫徹する。これを制御する勇気は、よほど、気を引き締めてかからないと、恐怖に勝つことはできない。勇気には、ことさらに強靭な意志が求められる。節制は、贅沢をやめるだけでよく、また、節制に失敗しても、いくらでもやり直しができる。だが、勇気では、その危険への対決は、やり直しの効かないものも多い。なにより、勇気が甘受しなくてはならないのは、恐怖という大きな不快である。食でいえば、それは、腐って悪臭のするものを口にするようなものである。自身の自然・感性は、腐ったものを吐き出すように、この恐怖を避けこれから逃れようとする。それを抑圧し、恐怖に耐え続けるのが勇気になる。意志が強靭でなくては、勇気は貫徹されない。


勇気の自律的精神

2011年10月27日 | 勇気について

3.(危険への)恐怖に耐える勇気
3-1.勇気の自律的精神
 ひとは、動物と同じく自然存在として、危険を感じると自ずからに恐怖して、危険回避の本能的な反応を示す。だが、動物とちがって、恐怖しつつも、これを制御・抑制して、恐怖に打ち勝つことができる。勇気をもてる。ひとは、理性存在としては、恐怖などの自然感性的なものを超越して、これから自由になって、自分で自分を制御することができる。理性の自律である。これは、人間を他の動物・自然と決定的に区別するもので、カントは、人間の「尊厳」は、この理性の自律にあるとらえた。
 ひとは、自然的には弱者である。弱いから危険も一杯で、しばしば恐怖する。だが、いくら恐怖しても、動物とちがい、この恐怖を制御することができる。自然に埋没していない。百獣の王は、どんなに強くても、自分の恐怖には勝てない(勝つ気がない)。恐怖したら、これにしたがって、逃走する。仮に逃走を思いとどまるとしても、それは、別の食欲などの感性が強くひきつけるからである。どこまでも自然のうちにあり、自然を超越する自由はもっていない。しかし、ひとは、自然にしたがいつつ(因果法則を外れることなく)、これを超越して、支配し自由にする(目的論的展開へと自然因果をリードする。自然的恐怖も必要に応じて理性の目指す方向にと制御する)。弱者だが、その理性において、自分の恐怖を抑圧し、勇気をもって、これを支配することができる。
 ひとの自律的理性が一歩距離をおくその自然は、危険をもたらす(安全な支えもなす)客観的な自然であり、同時に、自己のうちなる自然としての身体・感性である。この両方をひとは、理性で支配し制御して自由にする。理性は、恐怖や危険という自然的なものに対して、勇気という構えをもち、忍耐力を発揮し果敢に振る舞って、これを制御・克服し、おのれの意志を実現していく。もちろん、ひとは、自然的存在でもあるから、自然のままに、勇気をふるうことなしに終わることもある。危険なものを前にして、適切な対応ではないと思いつつも、おのれの自然感性に流されて、臆病になったり、無謀な振る舞いに走ることもある。
 日頃は、ひとは、自然のうちで自然的存在として生きている。危険に恐怖するのは、合理的である。ふつうには、恐怖は、排斥も抑制される必要もない。恐怖があるから、危険が自ずからに回避可能となっているのである。理性は、これを擁護する。理にかなった恐怖については、理性が出てきて制御することはない。理性が勇気をふるうべき状態になるのは、恐怖が過度になるなどして自然のままでは、人間的精神的生を営むことに支障がでてくる場合である。細かな手作業をしなくてはならないときは、恐怖で震える手を抑制しなくてはならない。そういう場面に、自律の理性は登場し、勇気を発揮して、自然を制御する。恐怖の自然的反応で逃走衝動にとらえられたとしても、動かない方が社会生活ではよいときがある。このとき、勇気は、逃げないで恐怖に耐える。自律の理性は、勇気をもって、恐怖(感性)に打ち勝ちこれを制御しつつ、危険に立ち向かうことができる。


絶望と恐怖

2011年10月24日 | 勇気について

2-4-9.絶望と恐怖
 禍いAは、同時に危険Bでもある。そのBからいうと恐怖し、Aでは、すでに生起した禍いによって絶望的になっていることがある。Bの恐怖・不安とAの絶望が重なる。フクシマの畜産農家は、牛の放射能汚染(A)にお先真っ暗で絶望し、かつ、それにともない借金返済が不可能となっての破産という禍いの危険(B)をそこに想定して恐怖・不安をもつ。悲しみは、過去に向かっているが、絶望は、恐怖と肩をならべて未来に向かう。恐怖は、禍いの未来に立ちすくみ、絶望は、暗黒の未来にひざを折る。
 恐怖自体が絶望という場合もある。危険の未来を想像して恐怖するとき、そういう自分の境遇にその暗黒の未来に絶望することがある。当の危険自体についても、もはや逃れられる望みはないと、恐怖しつつその未来の禍いを必至と見て、絶望する。悲嘆とちがい、絶望には、慰撫の契機は、まずない。絶望で苦吟し悶々としつつ、同時に恐怖におののくのである。
 絶望とは、希「望」が「絶」たれることである。ひとは、未来に向かって希望をもって生きている。大きな未来の希望(いずれ弁護士になる)は、その現在の存在(いま法学部学生)そのものをも作る。その未来の扉が閉じられるのが絶望である。未来がありえないことで、現在の生も生きる意味を喪失し、虚無化する。未来が暗黒になり、未来への扉が閉じられることで、現在も、漆黒の闇に変貌し、奈落の底に突き落されて、生は、窒息させられる。その生きる精神は、暗黒に閉じ込められて苦悶し、その生のエネルギーは行き場を失い、鬱々と煩悶する。なすすべもなく無為に茫然とたたずむだけとなる。生にその存在意義が失われれば、やがて無気力となり、なげやりになる。自暴自棄にもなっていく(希望と絶望については「http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00027481」を参照して下さい)。
 恐怖は、未来に禍いが仮定されたり想定されたとき、いだく。だが、絶望は、悲嘆と同じく、ことがらが確定してのみいだく。絶望は、未来に希望を失って生じるが、若干でも希望が残っておれば、この希望にかけて、絶望せずに、前に進んでいく。絶望は、あらゆる希望が途絶えての暗黒に、一点の光(希望)も見出せない漆黒の闇にいだく。恐怖は、危険のもとで、未来の迫り来ることにおののく。絶望は、その未来そのものが消失し暗黒の現在が自分を閉じ込め窒息させていると苦悶する。
 生そのものをなりたたしめているような希望(希望には、「夕食への希望」のようなささいな種類のものもある)に対する絶望は、その生を虚無化し無意味化する。守るべき自己をもたないことになる。守るべきものをもたないということは、それから守るところの危険がないということとなる。危険がなければ、恐怖も無用となる。深い絶望は、恐怖すらも感じないほどにうちのめされたものとなる。


悲嘆と恐怖

2011年10月20日 | 勇気について

2-4-8.悲嘆と恐怖
 危険(への恐怖)と禍い(への悲嘆)は、実際の展開では、しばしば重複する。犬に噛まれる場合、かならずしも一噛みでは終わらない。まず追いかけられて噛まれる危険に恐怖するが、噛まれはじめると痛みになり、禍いが、悲嘆がはじまる。が、なお、逃げて、さらに噛まれるのを防止しようとする。それについては、危険・恐怖の事態となる。禍いを被って悲嘆するとともに、続く禍いの危険に恐怖する。不幸はしばしば追い打ちをかける。胃ガンで辛く悲しい思いをしているのに、さらに、転移の危険を思い恐怖する。悲しみに恐怖が重なる。
 悲嘆、悲しみは、自分が価値物を剥奪され(あるいは、喪失し)たと判断して、これに心身が反応するに、無力に打ちひしがれ、これ以上の喪失をしないようにと自己閉鎖する。生気を失って冷たくなり、息することもかすかになって、ため息をつき、なみだする。恐怖とちがい、緊張はない。脱力している。すでに禍いをこうむって諦念しているのである。価値物の剥奪、喪失が確定しての感情である。死亡したのではと思っていても、「行方不明」者にとどまっている場合、まだ、悲しまない。一縷の望みをもって待ち続ける。だが、死体が発見されると、喪失は確定したので、悲しみとなる。悲しみの視線は、恐怖とは、逆になる。恐怖は未来の想像においていだくが、悲しみは、確定した過去に向かってそれの想起において抱き、伏し目がちとなる。
 危険に恐怖するとき、それ自体を悲しいものと感じることもある。危険・恐怖を一層総括的な立場から見なおすと、とんでもない不幸な事件に巻き込まれているということで、価値ある安寧が剥奪されていると判断すれば、価値あるものの喪失として、悲嘆を生じる。戦争で、敵の襲来の危険に脅えつつ、自分の青春の悲惨さを思うなら、恐怖しつつ、深くは、悲嘆する。平和な時代でも、破産しそうなことで不安・恐怖にとらえられているとき、同時に、そういうことをもたらしている自分の不幸な境遇を思えば、薄幸に、悲しみをいだく。
 恐怖したうえ、さらに、悲嘆の不快で、追い打ちをかけられる。だが、その悲しみは、恐怖を和らげる可能性をもつことがある。悲しみは、不快感情に属するが、悲劇が好まれるように、悲しみの感情のなかには、慰めの契機がある。甘美な哀愁、ペーソスといった類いのものがあり、切ない涙のうちには、自己の辛さを洗い流してくれるものがある。赤ちゃんは、声をはりあげて泣けば、慰めてもらえる。やがて、そとからの慰めを自己内化して、涙することで自分で自分を慰めることが可能になっていく。また、その悲嘆が、かけがえのないものを喪失して、もはや自分には守るべき大切なものはないと諦念しているのであれば、それから守るべき危険は存在しないことになり、危険がないのなら、恐怖もないということになる場合もある。


二種類の不安

2011年10月17日 | 勇気について

2-4-7-1.二種類の不安
 不安は、危険なものがありうるという未定の情況にいだく。その不安には、恐怖と同類の、危険なものに対する、但し何時どのような危険になるか不定の不安と、危険か否かがなお未定の未来についていだくものの二つが区別できるのではないか。将来について、好ましいことの選択の可能性のみがあって、そのどれになるかは未定だという場合は、おそらく、不安とはならないであろう。
 お年玉をもらう場合を例にあげてみよう。お年玉袋はもらったが、中の金額はまだ不明のとき、この未定の事態には、わくわくし心が騒ぐことであろう。分かるまでは、そわそわとし落ち着かない。だが、この未定状態を不安とは言わない。良いことのみの選択の可能性がある場面では、不安になるのではなく、これを期待し楽しみにするのである。心待ちにし胸を躍らせる。
 待たされることで、いらいらすることがある。これは、不安なこともあるが、それだけではない。いい事の出来が明確なものでも、時間的に間があって、なかなかそれが実現しないとき、落ち着けずいらつくことになる。待ち遠しいのであり、その欲求不充足が不快度を高める。お年玉は確実であっても待ち遠しい状態がつのると、不安はないが、いらいらとなる。
 不安は、なんらかの形で、危険なもの・否定的なものが選択肢にある場合に限られる。ひとつは、危険・否定的なものとともに、逆のいいことの可能性もあっての、その選択肢のもとでの、不安である。いいものは、待ち遠しいのだが、ここでは、逆の悪いものの出来もありうるのであり、それは、待ち遠しいものではない、不安をもって待ち構えることになる。お年玉でいえば、それがもらえる可能性はあるが、場合によってはもらえない危険もあるという状態である。
 受験して(不)合格発表を待つあいだは、不安である。喜びになるか悲しみになるか未定で対処に困る。宙ぶらりの心的状態で、そわそわし(合格を期待し)、いらいらもしてくる(不合格を予感)。不合格の危険もあるから、不安なのであるが、全面的に危険だらけの不安とちがい、半分は、待ち遠しい面もあっての落ち着けない状態である。
 もうひとつの不安は、危険、悪いものの可能性しかない場合である。どうなるかは未定だとしても、どう転んでもいいことはないという不安である。どれを選んでも禍いしか結果しない、危険なものだらけの選択になる。かつ、それがどれになるか不定だというのが、この不安の有り方になる。ここでは、不快なもののどれかが出来してくるのを、今か今かと身構えているのであるが、それは、待ち遠しいことの反対で、おどおどとし戦々恐々とした、とげとげしさのつのってくる時間となる。
 不安では、恐怖と重なることがしばしばある。不安の中の危険に焦点を当てて、この危険(の禍い)を想像するなら恐怖することになる。また、危険なものが特定され恐怖する状態で、何時、どのような加害になるかが未定という場合の、未定の不安もある。強い放射線を浴びて恐怖するが、同時に、いつ何処に障害が出るかは不明なら未定の不安にもとらわれる。かつその障害の具体を想像して恐怖もする。