根性は、自分でたたき直せる

2018年03月23日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-2. 根性は、自分でたたき直せる
 根性は、根っこの性ということでか、泥まみれで若干下賤なイメージがある。植物の根っこは、ものによっては、大きくまがり、いびつになり、腐ったりもする。ひとの場合でも根性が「まがっている」とか「ひねくれている」「腐っている」などと軽蔑的に言われることがある。
 「根性が汚い」などと軽蔑される根性は、根っこの性というより、漢字のもとの意味でのひとの心の根本をなす性(さが)で、その本性が汚い、ずるくて自分勝手だというようなことを指す。「まがっている」「ひねくれている」は、同様に否定的に「素直でない」というひとの根本のなさけない性格を指す。これは、同時に植物の根っこのイメージも重なる。石だらけの土地で、根っこが真っ直ぐのびることができず、石を避けて曲がらざるをえなくなっていたり、複雑にひね曲がった状態になっていることでもあろう。逆境の者は、根性のある者になるとしても、種々の妨害が立ちはだかっていて、真っ直ぐに根をのばせず、いびつな根性になりがちである。「島国根性」「町人根性」なども否定的な意味合いである。島国の視野が狭くこせこせした生き方を島国根性といい、支配者に抑圧されてひね媚びた町人根性である。
 それらのまがってひねくれた根性は、そのひとの根本の性であると同時に、それは、根本からして直せる、正せる性でもあり、根性は「たたきなおす」「いれかえる」ことができる。根本ではあっても、根性は、後天的に経験のなかで形成されたものである(もちろん、言語能力と同じように、犬や猫にはないその生得的な知能とか感受能力の支えがあってのことで、かつ、各人で根性を培うための生来の能力とその個性に違いもあろう)。忍耐でいう根性は、「情けない根性」を、苦痛甘受の体験をもって叩き直したものになる。生まれてから過保護で(あるいは逆に放置で)自制心成長不全にとどまっていた腐った根性でも、これを自分が、自身の苦痛・辛苦の体験でたたき直し、立派な根性にと成長させていくことができる。忍耐の根性は、たくましく強靱なものにと自身が入れ替えた、誇ってよい根性である。
 


根性・根気は、経験で身につけるもの

2018年03月16日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-1. 根性・根気は、経験で身につけるもの 
 忍耐の意志は、苦痛甘受を持続する姿勢をもつが、持続するには、ねばりがいる。根性である。根性は、根本の性(さが)だが、繰り返す風雪(受難)にびくともせず耐え、ねば(根張)る根っこという意味あいに、植物の根の性という感じで受け取ることが昨今は多い。ふつうなら吹き飛ぶような受苦・受難に不動に耐え続けるのが根性であろう。それは、苦痛に忍耐する経験を通してだんだんと身につけていく能力である。
 逆境に育ったものは、忍耐のための根性が養われやすい。順境の者なら回避できる受苦・受難をふつうの何倍も繰り返さざるをえないから、苦痛体験には慣れて少々の苦難にはびくともしないような心身の力が身についてくる。辛苦・苦痛に動揺しても生じた損傷は軽微と体験すれば、次回は、同程度の痛みなら平気になり、一層大きな痛みに忍耐できてくる。欲求もしばしば自制することが強いられるから、甘えて育った者とちがい、強力な自制心を身につけることになる。あるいは、少しの褒美も普通の者とちがって、大きな価値となり、苦痛に耐えることでの褒美にひかれて忍耐する意気込みが人より大きくなり、根性を養うことである。さらに、苦痛を小分けにする習慣ができたり、はるか先の目的を描くとともに途中の小目的を設定するなどの経験を重ねておれば、根気強い対応が可能ともなっていく。
 逆境の者は、順境の者とちがい、周囲からの援助がない。ひとつの苦痛に耐えるとき、順境の者は親や周囲の者の援助をもって大きな力を利用できるが、逆境の者は、自分だけの力で戦う。自分と順境の者自体では、自身の能力の方が高くても敗者となる。だが、忍耐の対象である苦痛は、主観的なもので、その限界はいくらでも動かせる(褒美がタオル一本なら、すぐ苦痛の限界にするが、これが100万円ならタオルの何倍もの先を限界にできる)。逆境の者は、動かせる苦痛の限度を、順境の者の実力プラスその親の助力分にまで高めることができる。そうすれば、負けて悔しがることはなくなりうる。ということで、逆境の者は大きな苦痛に大きく耐えるということを人一倍経験する。どんなに叩かれても苦痛・辛苦には耐えきることを習慣化し、その経験を反復するなかで、忍耐力にとむ根性というものを身につけることができてくる。


忍耐における根性

2018年03月09日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6. 忍耐における根性
 叩かれても叩かれてもへこたれず、苦痛に耐えて、普通なら断念して引き下がるものをそうせず、ねばり強く耐え忍んで目的へとひたすらになる姿勢がある。「根性」といわれる、忍耐を強力に支える心身の態勢である。 
 根性は、それの働く場面とひとにより評価の違いが目立つが、忍耐における根性は、高く評価されるのが普通であろう。忍耐を支える根性とは、風雪に耐えてねばる根っこのように、苦難に遭遇してもこれに屈さず諦めることなく人一倍辛抱のできる、経験によって身につけた能力である。受苦への忍耐経験の反復のなかで、苦痛に耐える意志を巧みに働かせ、そのための神経回路を大きくしたり、そのための気力や覇気を高めるような脳内外のホルモン分泌も適応させて、ひとは、根性といわれる不撓不屈の優れた心身の構えをつくり出すことができる。
 耳を動かすことは、まずないだろうが、これがどうしても必要となったら、その努力をする。耳を動かす随意の筋肉があっても使うことがないから、意志しても、はじめはほとんど動かない。だが、これを辛抱して訓練していると、だんだん自分の意志の命令をきかせることができるようになる。そうなるようにと経験を重ねることで、犬ほどうまくはならないとしても、これが上手になっていくことであろう。忍耐の反復は、苦痛からの逃走衝動などを抑制するための意志を堅固にするようにと人を変えていく。よりよく苦痛甘受を制御できるようになり、辛苦に強い根性が培われていく。さらに苦痛に挑戦するための気力・やる気を高め、これを持続させる脳内外のホルモン(ドーパミンなど)をより分泌しやすい状態に経験の反復はもっていくことでもあろう。そういう根性をもった心身の態勢を経験の反復は作っていく。
 


忍耐力は、意志の強さであろうが、まずは鈍感力か

2018年03月02日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-5. 忍耐力は、意志の強さであろうが、まずは鈍感力か
 忍耐は、苦痛の甘受であり、苦痛を小さく感じるなら、より耐えやすいこととなる。苦痛に過敏では、少しのことにも忍耐が必要となる。おそらく、早々に忍耐の限度ともなる。苦痛に鈍感なら、忍耐力を大きくもてることとなろう。乱暴な口利きの集団に生活することになると、はじめは、びくびくだが、すぐに慣れてくる。鈍感になるようにと経験が感度を修正していく。
 ただし、単なる鈍感だけでは長期の辛抱などではまにあわないこともあろう。長期にわたる忍耐は、長期の見通しをもって辛苦を小分けして耐えやすいようにし、目的も多彩に価値の大きなものとして描けるのでないと、辛抱の限界がすぐにやってくる。苦痛や不安には鈍感(気にしない、どうにでもなれといった些事扱い)で、忍耐する先の目的なりそれへの具体的展開の方法には聡明・敏感であることが忍耐力を高めることになろうか。
 痛みを感じるのは、精神的なものでは、そこでの否定的情報があってのことになる。そういう場合、鈍感であるには、ひとつには、その情報自体に疎いとか、無知であろうとすることがあり、ひとつには、その否定的情報を些事と受け取り、気にしないことがある。聡明な権力者は、自分を否定する情報をわざと避けるようなことがあった。知ったら、放置はできないが、知らなければ、知らないことにしておけば、些細なことなら、その方が万事がうまくおさまるからである。かつ、知ったとしても、その解釈はどうにでもできる。配下の不始末であってもそれが彼の最高に近い努力なのだと解すれば、いらつくことなく、「(愚鈍な彼にしては)よく頑張ったもんだ」と褒めてやれよう。否定的なことへの感度を低くし、解釈を楽天的なものにすることが習慣化すれば、苦痛は小さくなり、より大きく忍耐できることとなる。