4. 現代人は、快楽にながされ、生の健やかさを失いがちである。
現代は、過去に比して、栄養(食べ物)には恵まれた時代である。食品は、商品として売れるには、おいしいものでなくてはならず、どこも「おいしい」ものに満ちあふれている。消費者は、おいしさ(快楽)に魅了され、つい食べ過ぎて、過剰な栄養を摂取しつづけている。世界中で、肥満の人をごく普通に見ることができるようになった。つまりは、健康のための栄養物でもって、少なくない者が、行き過ぎて不健康になるという異常を生じることになっている。
これへの素直な対応は、おいしいもの・栄養物の摂取を少なめにすることである。節制である。だが、この魅了するおいしさ(快楽)を制限することは、簡単なことではない。快楽を享受しつつ、栄養だけを少な目にという方向に向かいがちとなる。極端には、おいしいが、栄養はゼロというものも求められることになった。現代の食事は、おいしいもの(快楽)を求めることが主となり、快楽主義的方向に大きく傾いたものになっている。
ひとは、食のような動物的レベルの営みに余裕ができると、そのうえにそびえる知的精神的なレベルの営みにと向かって生きていける。だが、精神的営みは快適になるとは限らない。むしろ、困難で不快・苦悩をもたらすことの方が多いかもしれない。そんなときの慰撫や逃避先には、しばしば、確実な快をもたらす食のおいしさが利用される。あるいは、共同的存在の証しに、催しもののたびに、おいしさの宴を共にする。日々の食卓のおいしさで過食ぎみなのに、精神生活の安定にも使われ、ますますの過食と肥満をもたらしている。
食の快楽には、万人が強くこれにひかれる。食に余裕のある先進国では、何割かが肥満で不健康になっているという。食欲(とその快楽)を抑制し統御すべき人間的理性精神は、むしろ、逆にこの動物的な快楽の奴隷に成り下がり気味である。
現代は、過去に比して、栄養(食べ物)には恵まれた時代である。食品は、商品として売れるには、おいしいものでなくてはならず、どこも「おいしい」ものに満ちあふれている。消費者は、おいしさ(快楽)に魅了され、つい食べ過ぎて、過剰な栄養を摂取しつづけている。世界中で、肥満の人をごく普通に見ることができるようになった。つまりは、健康のための栄養物でもって、少なくない者が、行き過ぎて不健康になるという異常を生じることになっている。
これへの素直な対応は、おいしいもの・栄養物の摂取を少なめにすることである。節制である。だが、この魅了するおいしさ(快楽)を制限することは、簡単なことではない。快楽を享受しつつ、栄養だけを少な目にという方向に向かいがちとなる。極端には、おいしいが、栄養はゼロというものも求められることになった。現代の食事は、おいしいもの(快楽)を求めることが主となり、快楽主義的方向に大きく傾いたものになっている。
ひとは、食のような動物的レベルの営みに余裕ができると、そのうえにそびえる知的精神的なレベルの営みにと向かって生きていける。だが、精神的営みは快適になるとは限らない。むしろ、困難で不快・苦悩をもたらすことの方が多いかもしれない。そんなときの慰撫や逃避先には、しばしば、確実な快をもたらす食のおいしさが利用される。あるいは、共同的存在の証しに、催しもののたびに、おいしさの宴を共にする。日々の食卓のおいしさで過食ぎみなのに、精神生活の安定にも使われ、ますますの過食と肥満をもたらしている。
食の快楽には、万人が強くこれにひかれる。食に余裕のある先進国では、何割かが肥満で不健康になっているという。食欲(とその快楽)を抑制し統御すべき人間的理性精神は、むしろ、逆にこの動物的な快楽の奴隷に成り下がり気味である。