現代人は、快楽にながされ、生の健やかさを失いがちである

2010年08月28日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
4. 現代人は、快楽にながされ、生の健やかさを失いがちである。
 現代は、過去に比して、栄養(食べ物)には恵まれた時代である。食品は、商品として売れるには、おいしいものでなくてはならず、どこも「おいしい」ものに満ちあふれている。消費者は、おいしさ(快楽)に魅了され、つい食べ過ぎて、過剰な栄養を摂取しつづけている。世界中で、肥満の人をごく普通に見ることができるようになった。つまりは、健康のための栄養物でもって、少なくない者が、行き過ぎて不健康になるという異常を生じることになっている。
 これへの素直な対応は、おいしいもの・栄養物の摂取を少なめにすることである。節制である。だが、この魅了するおいしさ(快楽)を制限することは、簡単なことではない。快楽を享受しつつ、栄養だけを少な目にという方向に向かいがちとなる。極端には、おいしいが、栄養はゼロというものも求められることになった。現代の食事は、おいしいもの(快楽)を求めることが主となり、快楽主義的方向に大きく傾いたものになっている。
 ひとは、食のような動物的レベルの営みに余裕ができると、そのうえにそびえる知的精神的なレベルの営みにと向かって生きていける。だが、精神的営みは快適になるとは限らない。むしろ、困難で不快・苦悩をもたらすことの方が多いかもしれない。そんなときの慰撫や逃避先には、しばしば、確実な快をもたらす食のおいしさが利用される。あるいは、共同的存在の証しに、催しもののたびに、おいしさの宴を共にする。日々の食卓のおいしさで過食ぎみなのに、精神生活の安定にも使われ、ますますの過食と肥満をもたらしている。
 食の快楽には、万人が強くこれにひかれる。食に余裕のある先進国では、何割かが肥満で不健康になっているという。食欲(とその快楽)を抑制し統御すべき人間的理性精神は、むしろ、逆にこの動物的な快楽の奴隷に成り下がり気味である。

苦がどこまでも持続し、快楽の持続性が乏しいのは、自然である

2010年08月21日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
3-5. 苦がどこまでも持続し、快楽の持続性が乏しいのは、自然である。
 続いて欲しい快は続かず、続いてほしくない苦はいつまでも続く。人生の不条理を代表するような事態にも思える。だが、これは、おおむね合理的なことである。虫歯の痛みは、少し我慢したら消えるのなら、おそらくは放置される。いつまでも続くので、しかたなく歯医者にいくのである。逆に、歯痛が続くように快楽がいつまでも続くとしたら、ケーキ屋さんはあがったりとなる。第一、食事をする気も起こらないであろう。快楽が即消失するから、つぎの食べ物にと手が出る。
 いずれにしても、快楽は、持続性にとぼしい。永遠につづくこともある不快・苦悩に比すると、雲泥の差である。虫歯の痛み・不快は、放置しておけば、いつまででも、何年でも持続する。だが、これを抜いて、苦痛から解放されていだく消極的な安らぎの快は、痛みが消えていくわずかの間にとどまり、痛みが完全に消えるときには、もう安堵の快楽の方も消失している。
 不快・苦悩は、それのしっかりと現存するところから始まって、これの除去(無化)がなるまで、人を実在的に痛め続ける。この痛みからの解放への努力に生の促進がある。快は、快の欠如・無からはじまり快享受の想像に駆り立てられ、生促進に向い、快を有化(現実的享受)して終わる。不快・苦痛の消滅したところではするべきことがなくなるように、快の生起したところにも、もうなすべきことは存在しない。まだすることが残っているとしたら、それは、快の褒美を出すのが早すぎたのである。犬は、芸をする前に褒美の餌をだされたのでは、芸をおぼえない。

快楽の低減と増大

2010年08月14日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
3-4. 快楽の低減と増大
 同じ快が反復されても、かならずしも同じように感じることにはならない。反復とともに次第に快が低減したり、増大したりもする。
 どんなに好きな物で、常々快であっても、確実にそれの低減する場合がある。欲求の充足時である。いかに美味であっても、満腹してくると、それへの食欲はなくなり、快は、低減し、ついには、不快になる。
 食欲があっても、同じものに対してはふつう快は低減する。他の栄養の不足があって食欲はあっても、そのおいしい同じ栄養物は、もう充足気味なのである。食べる前からもう飽食して、「飽きる」ということにもなっていく。
 しかし、主食については、同じものをおいしく食べ、あきることがない。この主食に基本的栄養摂取を頼っているということであり、実績のある間違いない同じ食物(ご飯と味噌汁)に身をゆだねて、安心して食を進められるのであろう。多くの動物は、かなり限定した主食に頼っているが、ひともさかのぼれば、同じ食べ物に依存することが一般的だったのではないか。その地域に応じて毎日イモ類のみ、穀類のみ、肉類のみ、乳製品のみと。
 逆に、同じ食べ物に、より大きな快をいだくことになる場合もある。その代表は、空腹であろう。大きな食欲は大きな快をもたらす。慣れるほどに大きく快の感じられるような場合もある。慣れないと微妙な味わいの感じにくいものは、そうなろう。発酵食品のなかには腐敗臭の強いものがあるが、その臭いが気にならなくなるとともに、味わいは、その臭いを含めて深くなっていく。麺類は、おつゆがおいしいのだが、これも舌がこえてくると麺自体に対しておいしさを深めるようである。

食の快楽以上に、性の快楽は簡単にもたらされるのだが・・

2010年08月07日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
3-3. 食の快楽以上に、性の快楽は簡単にもたらされるのだが・・。
 性の快楽は、食欲以上に簡単にこれを満たすことができる。古代ギリシャの奇人シノペのディオゲネスは、性欲充足についてこんなことを言ったとか、「自分の手でさするだけで性の快楽は充たされ、しかもお金もかからない。こんないいことはない。食欲も、自分ののどをさするぐらいで、お金いらずで充足できたら、どんなにいいことか」と。 
 だが、多くの者が性欲をめぐって苦悩してきた。食の充足以上に簡単に充足できるにもかかわらずである。おそらく、ひとが性欲で欲求不満をつのらせるのは、動物的な性欲とその快楽の充足ということよりは、「愛しあっているけどお金がないので未だ結婚できない」といった、多くの場合、社会的精神的なレベルの欲求が満たされないということなのではないか。
 「あこがれの彼女は、自分などには目も向けてくれない・・・」といった男性の不満は、動物的性欲の不満ではなかろう。安酒に気持ちよく酩酊しながら「一本何万円もするコニャックじゃと、もうちょっと上品に酔えるんじゃろうがの・・・」という類いの不満である。酩酊・快楽が満たされないのではない。この快楽(≒アルコールの量と飲酒の回数)ということでは、コニャックの何百倍もの快楽を安酒はもたらす。不満は、社会的精神的に価値あるものの領域から締め出されていると、社会的な欲求の不充足をかこつものである。コニャックが高値になるのは、その口当たりがいいからにすぎない。肝心の酔いの快楽には無関係である。美女の魅力も、見てくれだけのことで、性的快楽には無関係である。
 ただし、性欲の場合、本質的に、人と人との関わりで社会的なものになり、当の社会の精神文化の枠内に強力に閉じ込められたものになる。動物的性欲の充足はディオゲネスのいうように簡単なことではあっても、自慰を悪とみなす文化のもとでは、罪悪感を生じて、簡単に満たす訳にはいかない。動物的な性欲自体についても、欲求不満をいだくことになる。