苦しみの定義へのためらい

2022年02月22日 | 苦痛の価値論
2-4-1-1. 苦しみの定義へのためらい  
 痛みは、損傷による痛覚刺激の感覚であり、その主観的反応としての感情である。これに対して、苦しみには、苦しみの感覚、苦覚があるわけではない。これを私が、欲求等の思いへの妨害・障害を感知しての主観的な反応と捉えることは、あるいは、行き過ぎ・独断と批判されるかも知れない。忍耐は苦痛にするが、その苦痛は、損傷への感情であり、この損傷は、外的な損傷とともに、欲求の不充足感を大きくした、ほしいものの剥奪・欠損状態としての損傷を他方にもつ。苦痛は、傷への苦痛つまり痛みとともに、欲求不充足、その損なわれている状態への、思いのかなわぬことへの苦痛をもつ。この後者としての苦痛は、傷への痛みに対しては、苦しみをもって言い表しうるのではないかと思う。が、この「苦しみ」が、欲求・思いの阻害・妨害された不快感情に尽きると言うことには、批判があるかも知れない。
 痛みの客観的な裏付けは、痛覚に求めることができる。皮膚の痛みは、皮膚の痛覚が刺激され興奮して脳に痛みとして受け取られているのである。どんな痛みも、痛覚の裏付けをもつ。痛覚のない、心臓やお腹が痛いのも、それなりに周辺にある痛覚を刺激しているのであろう。頭痛も、脳内の血管(血流)あたりが回りの痛覚を刺激して痛むもののようである。原則的に、痛みは、痛覚に由来し、損傷、傷みへの感覚・感情ということになる。心の痛みなどは、心の傷により、痛覚由来の痛みの比喩的拡大適用になるものであろう。
 だが、苦しみは、痛みの痛覚のような、核、よりどころとなる感覚をもっておらず、それの客観的な定義を裏付けるものを明確にし難いようにも思われる。したがって、私が、苦しみとは、欲求などの思いへの妨害・阻害に対する主観的な拒否感、苦痛感情であるというのは、独断だと言われれば、そうだということになる。苦しみの一形態として、思いの阻害への不快感情があるというのならまだしも、苦しみがその阻害感情に尽きるというのは、そうでないものもありそうで、言い過ぎになるかもと躊躇しないでもない。
 寝苦しいという場合は、寝たい思いを阻害されての不快感情であるが、暑苦しいというとき、その苦しみは、殊更な欲求・思いがあるわけではなく、痛みと同じように受動的にいだくものという感じである。あるいは、風邪で、喉が痛い、頭が痛い、体がだるい、というような場合、欲求とか衝動とかの思いが阻害されてというようなことは意識せずに、その痛みや不調状態をもって、調子がくるって苦しいというようなこともありそうである。もちろん、これらも、自身の健やかさへの思いが阻止されていることだと言えば言えなくもない。すっきりしないものが残るが、差し当たりは、苦しみは、思い阻害への不快感情であることを原則とし、それから外れるものは、それの拡大使用、拡大適用ということにしておきたい。

「ほしい」「したい」欲求を抑止された苦しみ

2022年02月15日 | 苦痛の価値論
2-4-1. 「ほしい」「したい」欲求を抑止された苦しみ
 「産みの苦しみ」をいう。陣痛は、激痛となることが多いようで「産みの痛み」といってもよさそうだが、苦しみという。産もうという思いが、思うようにいかず、難産などになると、その切実な思いの阻害された状態に四苦八苦する。その思い通りにならないもどかしさ・悶え・焦燥等の不快に、苦しみ・苦しさをもってするのであろう。ひとの思い・欲求が阻止・妨害され抑止されてこれに抑鬱・焦燥・悶え・疲労困憊状態になるのが、苦しみであろうか。痛むのであるが、それ以上に、自身の産もうとする思いが長く阻止されつづけるのであり、その思いの阻害状態に、苦しみを抱くのであろう。
 息も、無理やり止めているときは、その呼吸停止の不快を「苦しい」という。呼吸を止めていても始めはなんともないというか、呼吸するよりも楽である。それが、だんだんと苦しくなる。これは、痛いとは言わない。出産の苦しみとちがい、痛みは伴っていない。苦しいだけである。息したいという呼吸欲求が抑えられて、その思いが募ってくるのに、その生の生動性が妨害抑圧され続けて(普通は、自身の意志によっての自己抑圧であろう)、心身の不調状態が大きくなり、呼吸欲求抑止の状態が耐えがたくなって、その阻害状態をなんとか解消したいと悶え、焦燥するようなときに苦しいという。呼吸を自らが意志して止めていることに対して、これの持続を破棄せよと身体の諸器官が衝動をもって迫るのを、自身において息しない状態にしておこうと意志を持ち続ける。ひとは、その息したいという生動的衝動・思いを阻害されて抑鬱状態を高め、拒否・嫌悪感を高め、もがき悶えて、苦しむのである。
 精神世界では、受傷を意識すれば痛みでもいうが、原則、苦しさで表現する。精神的生がその生動的な思いを阻止・妨害されてこれに抑鬱、煩悶を抱くような不快状態に苦しさをいう。希望の思いが損なわれ潰れて絶望し、安寧の願いが否定され安らぎが剥奪されて不安の状態となり、思いが抑止されて動きが取れない状態で、その生の悶え・抑鬱状態に、苦しさをいだく。

苦しみ

2022年02月08日 | 苦痛の価値論
2-4. 苦しみ
 苦しみは、痛みとは区別される。胃や喉が、痛いのと、苦しいのとは異なる。痛いのは、その胃とか喉とかの部位が損傷を受けて、その傷に痛みの感覚をもち、痛みの感情反応をするものである。だが、胃が苦しいという場合は、満腹状態などで胃がもうこれ以上の受け入れを拒否しているような時とか、激痛が続いて他のことが手につかず七転八倒し耐えがたいような時にいう。胃が、もっと食べたいという自身の欲求を受けつけないとか、胃の痛みを静かにさせておきたいという思いをまったく受けつけず、自身の思いを阻止・妨害していることに対していだく感情反応であろう。私の思いを通してくれない、その思いの損なわれ抑止された状態に、苦しさを抱くのであろう。
 のどの苦しさの場合も同様であろう。痛みは、のどが炎症を起したり、魚の骨が刺さって、その傷んだ部位が痛いのであり、それに痛み反応をしての感情である。だが、苦しいという場合は、のどにものが詰まって苦しいのは、私が呑み込もうとするのに、その思いを通すことができない状態になっていて、自身の思いを阻止されての阻害・妨害に対して、生の健やかさの損なわれた状態に、私が苦しさを感じるのであろう。苦しさは、もっと食べたいのに、息をしたいのに出来ないという、ひとの「したい」「ほしい」といった欲求・衝動が損なわれ抑止されるところに、その思いを妨害し阻害する事態に対していだくものだといってよいであろう。
 忍耐の対象は苦痛であり、苦痛は、損傷による。損傷は、生の部分的な破壊、受傷と言うことであるが、忍耐の対象ということで広くとれば、他方では、内的な生動性を損なっての欲求等の不充足という欠損状態、健やかさの損なわれた状態(その不充足は、欲求・衝動が損なわれ損傷をうけた状態)でもありうる。忍耐の対象の苦痛と損傷は、受傷への痛みと、欠損への苦しみということになる。痛みは、受傷しての傷み、損傷への感情反応であり、他方、苦しみは、生動的欲求・衝動等の不充足という、健やかさの損なわれ欠損した状態への、生動的な思いへの妨害・阻害に対する感情反応ということになろうか。痛み感情は、損傷個所の痛み感覚とひとつにして感じるように、苦しみも、自身の思いが損なわれ阻止された不快感情をその胃や喉という部位の緊張・疲労等不調の感覚に投影して、胃や喉の苦しみを抱くことになるのであろう。

痛み自体は、そのままにして、これを穏やかにもできる

2022年02月01日 | 苦痛の価値論
2-3-6-1. 痛み自体は、そのままにして、これを穏やかにもできる
 ひとの意識は一つのことに集中するから、痛みが生じていても、痛み以外に意識が向くとその痛みは感じることがなくなる。戦闘状態では、大けがをしても、これに気づかず、痛みを感じることがないといったことになる。他のことに気を取られていて、小さな傷には気づかず、痛みを感じることがないといったことはよく起こる。 
 精神的な痛みでは、心のうちの損傷・喪失の解釈を変えることで、痛みを軽減することが可能である。母親の死に悲痛の思いをいだいたとしても、「長患いせずに、あの世にいけたのだから、父親のもとに逝ったのだから、よしとしなければならない」と思い直せば、落ち着けることである。その死を喪失とばかりに解釈しないなら、痛みの感情は小さくて済むであろう。あるいは、精神的に痛みを感じていても、意識を奪うような大きな事態に出合うと、そういう風にもっていけば、心の痛みは消えてしまう。仕事に専念して悲しみを忘れるということは、よくいう。もちろん、意識を奪うような大事がなくなったら、また、もとの痛みは再開する。消えたのではなく、意識の底に沈んでいただけで、重大事が消えることで、再度浮上してきたのである。
 注射の痛みに過敏な人がいる。が、これも、何回も経験していると、しだいに慣れてくる。はじめは、過剰に反応して過度に苦痛を感じていても、過剰反応をおさめて、だんだんと、その痛みに慣れてくる。注射針を見なければいいのだ等と痛みの受け止め方にも工夫ができてきて痛みは小さくなる。蚊に刺されることには、慣れていないと気になるが、自然の中で、刺され続けていると、何でもなくなる。刺された跡があるので、刺されたのかと分かるだけになってもいく。食べ物ではその悪臭が苦痛になるものがある。だが、これには、おいしければ慣れてきて、悪臭と感じなくなっていく。暑さも寒さも、苦痛であっても、慣れれば、少々のことなら平気になる。
 慣れることは、皮膚の場合など、苦痛に慣れることとともに、損傷に慣れてくるということもある。裸足では、すぐに足を傷めて痛むことになるが、裸足が普通のことになると、大昔はそうであったように足の表皮が厚くなって損傷しにくくなり、当然、痛みも生じなくなっていく。精神的な痛みも、慣れると、鈍感になるのが普通であろう。はじめは罵声におびえて苦痛を感じていても、それが普通となって、犬の遠吠えぐらいにみなして平気になる。過敏になっている感度を、意識的に或いは無意識的に下げることは、苦痛に対処する多くの場面で取られることである。