苦痛の放置しがたさ、気がかり

2020年09月29日 | 苦痛の価値論
1-1-4. 苦痛の放置しがたさ、気がかり 
 生個体は、周囲の環境に支えられこれを利用して営まれる。だが、ときに、その生が脅かされ損傷を受けるような事態にもなる。そういう危機的な状況になると、これに意識を集中して対処することが必要になる。損傷には、生保護のために、それへの注目、その事態の回避といった危機への緊急の対応を必要とする。その中心になるのが、苦痛という反応である。
 無視してもよい平穏な事柄なら、一旦そのことが生起してこれに注目したとしても、意識は、すぐに別の方に気を向けたり、注目をやめて、のんびりできる。だが、苦痛は、損傷が生じると間髪を入れることなく、即、意識をそこに向け、しかも、その苦痛の解消がなるまでその注視を持続させる。生の損傷を苦痛は知らせているのであり、損傷の解消まで、苦痛は、警告を発し続ける。針状のものに触れて痛みが生じれば、即、手を引く。手を引かないなら、引くまで痛み続ける。歯痛は、歯が炎症を起こしていることを知らせる。炎症があるかぎり、痛みを発し続ける。何日たっても歯痛はやまない。痛む限りは、これにひとは気を奪われつづける。苦痛は、これを放置することを許さない。ついには、歯痛に根負けして、歯医者へと治療に出かけることになる。苦痛があり、これが無視・放置できない苦痛を発し続けるから、苦痛消滅の治療にまで進むのである。 
 苦痛の反対極にある快の場合、快は生が順調で良好な状態にあることを語るから、これは、放置しておいて良い。なにもしないで享受しておればよく、意識は、ことさらにすることはなく、弛緩しまどろみ眠りにさそわれる。だが、苦痛は、逆であり、危機に出くわしているのである。最新の情報に注目しつつ細心の対応をすることが求められる。つまり、苦痛は、まどろみをさそう快とは逆に覚醒をもたらす。眠ってはいけないとき、目覚めなくてはならないとき、ひとは、痛覚を刺激し、苦痛になるような音を利用する。
 小さな苦痛(損傷)のあるところに別の大きな傷害が発生すると、意識は、後者の苦痛にと向かう。もとの苦痛は意識から消失して無意識化する。だが、大きな傷害が片付くと、また無視しがたいもの、放置できないものとして、はじめの苦痛(損傷)が意識に浮上してくる。苦痛がまた自覚されて、ひとをとらえ続ける。歯痛は、ほかの火急のことがあれば、それに意識が向かって、歯痛は一旦は忘れられる。だが、事が片付くと、また、歯痛が気になってきて、しつこく反復持続する。処置するまで苦痛は放置を許さない。


忍耐の苦痛は、忍耐(意志)自体の辛さも加わった苦痛

2020年09月22日 | 苦痛の価値論
1-1-3-4. 忍耐の苦痛は、忍耐(意志)自体の辛さも加わった苦痛 
 苦痛を忍耐するのだが、忍耐するという構え自体も、さらに、苦となって、辛さをます。「忍耐は、つらい」という。忍耐の対象は、辛さ・苦痛になるが、さらに、その忍耐すること自体が、その意志が、辛いもので苦痛になるということであろう。忍耐は、苦痛という拒否したいものを、あえて自身の感性に抗して受け入れる。身体損傷等の苦痛を受け入れる。さらに、それから逃げようとする衝動を抑止するから、この抑止の意志が辛いことになる。尿意の忍耐では、尿を急かせる苦痛があり、これに耐えるのだが、さらに、耐えるといっても、どこをどう抑制したらいいのか、尿を抑止する随意筋が不分明で意志は種々試みて大汗をかく。そのいらだたしさ、焦燥に耐える。尿意自体の苦痛とは別の苦痛である。平静を装ったりもすれば、偽りの外面を作る苦痛も加わってくる。
 「耐えがたきを耐え」「忍びがたきを忍ぶ」という。「耐えがたき」もの、「忍びがたき」ものとは、忍耐が対象とする苦痛・辛苦である。それを意志が「耐え」「忍ぶ」。この耐え忍ぶ意志の営為自体が、さらに、辛く、苦しいものになる。忍耐し始めると、辛さは増してくることが多いから(ものによっては慣れて苦痛でなく平気にあることもあるが)、この増大する苦痛・辛苦を一層強く耐えるという必要が生じる。一層「耐えがたき」「忍びがたき」ものとなる。かつ、これを耐える意志自体も、より一層力んで集中していく。おそらく、辛さがましてくると、もう諦めようと忍耐の断念を思うようにもなってくる。その弱気を打ち消して意志を堅固に持ち続け、「耐え」「忍ぶ」意志力の貫徹が求められる。
 禁煙は、辛い。忍耐がいる。それは、禁断症状の苦痛に耐えることである。中毒しての大きな喫煙欲の不充足の苦痛に耐える。かつ、そういうことを持続させるために意志が種々の方法をもって苦労をしていくことになる。気を抜くと喫煙欲が顔を出し、屁理屈をもって喫煙へと向かおうとする。それを意志は、抑えて、喫煙欲自体が消滅するまで、禁煙を持続させていく。喫煙欲求の不充足の苦痛は、ほんの2,30分もすれば、消えていく。だが、禁煙を遂行する意志は、喫煙欲が生じないようにと、注意し工夫をして、アメをなめてみたり、壁に禁煙中との張り紙をしてみたりと、喫煙欲が消滅するまで、その煩わしさ・辛さにずっと耐えていく。

傷害と欲求での苦痛の生じ方のちがい 

2020年09月15日 | 苦痛の価値論
1-1-3-3. 傷害と欲求での苦痛の生じ方のちがい 
 忍耐は、辛苦・苦痛にするが、その原因としての外的な損傷は、そのはじめから苦痛で、内から生じる欲求の場合は、はじめは快であったり何でもないものが、欲求の不充足感が大きくなるとともにだんだんと苦痛・辛苦になっていくようなことがある。外的加害とちがって、欲求とか衝動は、自分のうちから生じるもので、それの生起のはじめから意識できる。はじめは、欲求は小さくて、まだ不充足感もいだかず、あるいは充足の未来を描いて楽しみとする。だが、しだいに欲求が大きくなってその充足のできないことが続くと、だんだん不充足への不快感が生じてきて、苦痛にまでなっていく。この段階から、欲求の抑制は苦痛として忍耐の対象となる。欲求の場合は、苦痛となり忍耐になるのは、その不充足感が大きくなる途中からということになる。
 これに対して、加害による外的な損傷の場合は、はじめから苦痛となり、したがって、はじめから忍耐の対象になる。加害が突然になることは、多い。突然、損傷が発生し、突然に苦痛の発生となる。が、外的な加害も突然に生じるとは限らない。接触している針などの圧力がだんだん大きくなり、皮膚に損傷を与えるまでになるというようなこともある。そういう場合は、はじめは、針の存在が分かる程度であり、苦痛ではない。それの圧力が大きくなって皮膚に食い込むほどになると損傷を発生させ、痛覚が作動して苦痛となる。欲求の通常と同じく、あるレベル、閾値を超えたところからが苦痛になり忍耐になるという場合もある。
 外的なものは、接していてもはじめは気づかないこともある。欲求なら小さくても一応意識される。意識されないものは、欲求となっていないということになる。だが、外的なものは、刺激を生じないなら、着衣や空気のように、その存在には気づかない。気づくのは、苦痛刺激になってから、傷害が発生してからということになる。こういう場合、欲求はだんだんと不快になり苦痛になるが、外的損傷の場合は、突然にということとなる。しかし、欲求や衝動も突然ということがときにはある。急に尿意が生じるとか、急に便意が生じることがある。いやなものを排除したいという欲求、つまり、反欲求は、傷害による苦痛と同じで、はじめから不快・苦痛である。したがって、はじめから忍耐の対象ということになろう。

欲求での強い不充足感も、やはり苦痛であろう 

2020年09月08日 | 苦痛の価値論
1-1-3-2. 欲求での強い不充足感も、やはり苦痛であろう 
 欲求忍耐での不充足感は、苦痛とはちがうように思われなくもない。美味の料理を待つ間は、待ち遠しいが、楽しみで快である。だが、そこで不充足感が大きくなると、イラつき不快となろう。それを耐えるのは、不快・苦痛への忍耐であろう。
 日々の欲求・衝動の我慢で辛いものに尿意がある。尿意に気づいても、不快でなければ、忍耐は無用である。尿を我慢しはじめるのは、尿意が強くなり、苦痛が生じて、その苦痛にじっとしておれなくなってであろう。抑えることがつらくなり、尿道あたりが痛むことになってくる。この痛み、苦痛に、尿意でも忍耐するのである。さらに、尿意の我慢では、それとは別の辛さ・苦痛がある。出ないようにと抑止することの辛さである。放尿を抑制することに、その衝動の抑制に意志を集中する。尿道を締める随意の筋肉に働きかけるが、その筋肉がどこにあるのか分からず、随意になる足の根元を締め付けてみたりする。そのときの困難さ・辛さは、尿意の痛みとは別のものである。が、苦痛であることはまちがいなかろう。尿意という欲求・衝動を抑止するときの忍耐の対象は、尿道の生理的苦痛であり、さらに、意志が抑止しつづける辛さ・苦痛である。いずれも、苦痛に耐える。
 呼吸は、随意にもなり、息を止めておくとその欲求が大きくなる。この欲求・衝動でも、忍耐が言われるような場では、やはり苦痛が登場する。これの抑止のしはじめは、息をするより楽だが、続けていると、だんだんと息苦しくなる。耐えるのは、その息苦しいという苦痛にである。呼吸欲は、マズローの生理的な欲求(needs)に属するが、それを抑止する忍耐で意識するものは、呼吸の欲求・衝動の抑止であるより、息できないことの苦痛であろう。呼吸欲を抑止する忍耐だが、食欲のように、食べ物が欲しいというのとちがい、息したい、空気が欲しいという欲求は、あまり感じないのではないか。苦痛が前面にでて、息苦しさ、苦痛を解消したいという衝動が圧倒的になろう。この欲求では、欲求を抑えることにではなく、忍耐は、息苦しいという苦痛にする。
 欲求というと、快への強力な欲求である食欲と性欲があるが、これらへの我慢・忍耐は、快楽を抑制することで、苦痛を受け入れることではないと思われないでもない。だが、食・性の快楽を抑止するものは、忍耐ではなく、まずは、自制、節制である。その自制において、これに不快・苦痛が生じて、これを甘受すべき時、はじめて忍耐は登場する。ここでも忍耐は苦痛にするといって良い。美味のものを過食しそうなとき、この快楽を抑止するのは、自制、節制である。過食分をサバとして小鳥に与えながら、さわやかで心地よければ、忍耐は無用である。その自制に苦痛が生じるときにのみ、苦痛甘受の忍耐が必要となる。
 性欲も同様だが、この快楽自体の充足は簡単で自分でもできるから、自慰を嫌悪しない現代社会では、自制も忍耐も無用である。第一、食欲とちがって、異性が身近でなければ(刑務所など)、性欲は消える。性の欲求での自制・忍耐は、社会的欲求になっている場面でのことである。恋・失恋、結婚・離婚では、社会の維持のために厳格な秩序・規範の堅持が必要で、その遵守のために自制を行う。結婚に向けての自制は、楽しみの中でのことになるが、離婚での自制は、辛いことになり、怒り・絶望・悲嘆等の苦痛を甘受しなくてはならなくなる。辛い自制となれば、その苦痛への忍耐が必要となる。

浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの同一性

2020年09月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-4.浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの同一性】時間に関わる異常なものとしては、通常の夢のように、時間的継起の秩序を破壊していて時間自体を無視した、支離滅裂に異常なものがある。あるいは、一寸法師やかぐや姫の成長のように、時間自体は通常の継起の速度にありつつ、そこでの通常に比しての遅速をいうものもある。これらと、ここで問題にしてきた浦島と死者の登場する夢での奇怪な時間異常とは、異なる。浦島も死者の永遠も、時間自体は支離滅裂の夢とはちがって、過去から未来への継起の秩序をふまえるし、かぐや姫のように一つの時間継起のもとでの異常な速度をいうのでもない。その時間自体の速度が、自分たちの世界と異世界で根本的に異なることを語る。時間という継起の秩序を有した、進み具合にちがいのある二つの時間の間で生じた奇怪さを扱うものになる。 
 浦島の異世界(竜宮)と死者のあの世での時間異常は、どんなところでも本来同一の、ひとつのはずの時間について、異なった二つの時間、二つの継起の秩序が見出されることにある。それは、いずれも、一方では、通常の世俗の時間が展開していて、他方に同時にその同じ場面に、別の継起の秩序をもった時間があることである。その別の時間とは、端的にいえば、時間の停止、時間展開がゼロに留まるという事態である。あの世にいった死者が夢にでてくるとき、生きている者の登場するのと異なり、死者は、死んだ時点から、あの世で過ごしている時間のもとでは、一切年取らず、いつまでも死んだ日までの若い姿で登場する。つまり、あの世に行ってから時間がストップした状態に、時間展開がゼロに留まる。あの世の不老不死の時間が、この世のひとの夢に現れて奇怪さを感じさせるのである。同じように、浦島体験でも、故郷のひとの時間展開は、旅の間、ゼロに停止したままである。帰郷時、そのゼロの時間、つまり昨日の今日のはずと感じている時間があり、他方には、旅の間の時間展開がある。その時間停止と時間進行の二つが帰郷時には見られて奇怪な異時間体験をもつ。あの世のひとの場合も、浦島体験でも、一方に通常の時間展開があり、他方で時間が停止し無時間となっているのである。
 浦島の場合も、死者のあの世の時間異常も、その根本は、一方の時間展開がまるでゼロになっていて時間的進行のないことであるが、それは、記憶の更新がないということに基づいている。時間の進行、その過去の時間の把握は、記憶をもって成り立つ。記憶がない状態では、時間における過去は成立しない。時間が流れていることは、今が過ぎていくことは、さっきの今は、もうないのだから、記憶されない限り、単に無、ゼロになるだけである。昨日も一昨日も、記憶がないと成立しない。昨日の記憶がなければ、あるいは一日中眠っていてなにも意識に残るものがなかったなら、昨日という一日は無となる。その眠りとか昏睡状態が長期になった場合、その間は、なにも記憶がなくなり、目覚めたとき、「さっき寝たのだが」と時間は無になるはずであろう。記憶が時間の自覚を可能にする。その記憶の更新がひとつの領域においてゼロになるのが、浦島(の故郷)とあの世の死者である。浦島では故郷については、旅立ち以降記憶更新はない。帰郷時には、その記憶更新ゼロのまま、昨日のように旅立ちの日を感じて帰郷時をその翌日のように感じる。時間更新ゼロである。死者も同様である。死んで以降は、記憶の更新は停止する。若くして死んだならその若さのままで、それ以降の記憶更新は不可能である。死んで以降も夢に出てくるが、周囲の生者は、夢でも現実でも時間のもとでどんどん変貌していくのだが、死者だけは、記憶更新なく時間ゼロで、若いままとなる。
 この記憶更新ゼロの状態は、長い眠りとか、世俗からの隔離(現代見られるものでは刑務所とか洞窟や建物への長期の閉じ込めあたり)、長い間あっていない人などでも生じる。メルヘン(昔話)では、この記憶更新ゼロに基づく時間異常を種々に語るが、大きくは、浦島的なものとあの世の永遠に類したものの二つに分類することが可能であろう。浦島的なものとしては、異境に迷い込んで奇異な時空間に遭遇するものとか、眠りつづけて時間停止状態になる「眠り姫」のようなものがあり、塔とか洞窟に閉じ込められて世間の時間的変動から隔離されこれを無として記憶更新ゼロとなっていた話等があがるであろう。他方、死者の永遠という一点の記憶更新ゼロの方は、夢に出てくる死者の話、天国や地獄に関わっての話があり、現実のなかでは、長くあっていない人とか、ずっと昔の記憶しかないところとかに持つことになる。さらに、この世界での不老不死とか異常な長命という話も、死者に準じた永遠の時間の話になるともいえる。ほかのものはどんどん変化しているのに、一つのもののみは、いつ見ても不変であれば、記憶更新なしではないが、新規の更新内容はなしとなり、実質的には記憶更新なしと同等となって、あの世のひとの不変・不老不死に近くなる。古池の大蛇が不死にみえ、八百比丘尼や常陸坊が何百年もの長命であるのは、(本当は入れ替わっているのに、それが分からず)記憶内容が常に同一に留まることで、いつ見ても変わらない夢の中の死者の記憶更新ゼロに似たものとなっていることに起因する。
 浦島異時間体験とあの世の死者の永遠の体験は、区別されるが、ひとつにすることもできよう。あの世的時間異常も、その長く会ってない人とか場所に実際に出会えれば、浦島体験になる。浦島体験も、帰郷せず、故郷の人を想起する段階では、時間ゼロのままで、旅先の人と並べて想起するときは、あの世のひとと同じく、故郷の人のみが変わらない姿で登場することである。その記憶更新・進展のゼロと、他方で継起して展開する一般的な時間の二つの時間が浦島とかあの世の時間になるとすると、記憶更新0ではないが、時間(記憶更新)が一般には10進んでいるのに、5とか2しか進まないものとか、逆に20とか50のスピードで進むものも、別種の時間異常とみなしていくことができる。成長の遅速が顕著で異常な一寸法師とかかぐや姫、あるいは、動物の世界に入り込んでの急速な時間展開等は、これになる。記憶更新ゼロの浦島やあの世の永遠の場合は、この世の現実にはないことなので、その奇怪さに好奇心をかきたてられるが(錯覚ではあるが、現に閉じ込められた者の体験談ではあることで、時間という世界の根本形式についての奇怪な(錯覚)体験として、興味がそそられる話となる)、遅速では、その奇怪さはない。面白さという点では、劣る。が、現実的なことという点では、つまり、錯覚ではなく、これは、どこにでも現に生じていることであるから、真実という点では、遅速の時間異常の物語の方がまさる。
 一寸法師のような遅々とした成長のもとでは、一般の時間が10進むのに比して2とか3の速度で、停滞した状態が続く。八百比丘尼とか常陸坊の話は、何百年と生きた不老不死に近い存在として、時間展開ゼロではなく、ゆっくりとのんびりと進むもの、あるいは遅々として進まないものと見ることもできよう。現代でいえば、遅々として時間が進まないものというと、長期の療養とか、引きこもりが目に浮かぶが、そういう、一般的な生から引き離された生の時間的停滞では、それからもとの社会にもどったとき、世界の激変を見るだろう。停滞し、希薄化しゼロに近くなった自分の時間と、客観世界の無慈悲に過ぎゆく継起の秩序の時間である。引きこもった者がそとに出たときには、激変している世界の急速度の時間の流れに戸惑うことになるであろう。時間の奇怪さということでは、浦島には、到底かなわないが、身近にある現実的な時間異常を語るものとなる。そういうのも異時間の話ということであれば、我が国の昔話では、かぐや姫、一寸法師とか、三年寝(ものぐさ)太郎などがあがる。時間展開の異常を語り手も聞き手もあまり意識することのない桃太郎なども、急速な成長をしたのであり、時間異常を示す昔話の中に入ってくることとなろう。 

(終わり)