苦痛の忍耐で自由が実現される

2019年10月31日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-3. 苦痛の忍耐で自由が実現される
 動物も忍耐する。快・不快の複数の選択肢があるとき、より快であるものを選ぶから、そこでは、熊が蜂蜜のために蜂に刺されるのを我慢するように、小さな不快・苦痛は忍ぶということが生じる。この忍耐は、基本的に快不快に動かされての選択であり、自然の営為の中での忍耐である。
 だが、ひとの忍耐の場合、快不快によって動くのではなく、快不快を超えた目的(たとえば、経済的価値の確保、所属の国家の堅持等)を掲げて、これのために苦痛を踏み台・手段にすることがある。より快の大きなものを選ぶためにではなく、快不快を超えた高い価値・目的のために、動物的自然の快欲求と苦痛回避衝動を抑制する。自然の因果法則にしたがえば、快にはひかれこれの充足へ向かうという結果を帰結し、不快があれば、これを回避するという結果にすすむ。因果の自然である。この自然的因果連鎖をひとは、中断して、つまり、快にひかれての結果を結果させず中断し忍耐し、苦痛を回避するという結果を中断して苦痛を甘受する。因果自然を折り曲げて、苦痛を避けない方向に進め、快でない方にと展開して、人間的な目的のためにこれを利用する。
 因果自然を人間的目的のために中断させる反自然・超自然の目的論的な展開を苦痛甘受の忍耐をもって実現するのであり、自然に縛られない自由をひとの忍耐は実現する。ひとも動物的感性をもって快不快にしたがった因果展開のもとに立つが、必要なときには、理性をもって、この感性を制御・制限して、より高い精神的な目的などのために自然感性を超越して反自然・超自然の振舞いをなす。自然感性から解放された、感性(快不快)に従わない自由であり、目的論的展開をする理性の自律の自由である。自然においては、苦痛は避けるが、理性的なひとの忍耐は、理性の目的実現のための踏み台・手段として、苦痛を受け入れて忍ぶ。自然的欲求は快に引かれるが、これを抑制し、これから自由になって欲求不充足の辛苦を忍耐して、ひとは理性的に生きる。


苦痛回避が可能だとしても、しばしば後が大変になる

2019年10月24日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2-3. 苦痛回避が可能だとしても、しばしば後が大変になる
 苦痛の原因を遠ざければ、苦痛はなくなる。自然的にはそうして、苦痛とその原因の傷害を回避できている。だが、それの難しいこともある。不可避の苦痛とその原因を受け入れるのが忍耐だが、そういう事態になっても、なおも苦痛から逃げたり、排撃することもある。逃走や排撃がうまくいけば、苦痛なく、忍耐なしで済むかもしれないが、これに失敗するとより大きな苦痛の待っていることが多い。忍耐した方がまだ小さな苦痛で済むと思えば、逃げないで忍耐することに傾く。欲求抑制の辛苦に忍耐している場合は、忍耐をやめるとは、欲求実現へと向かうことで、抑制での苦痛をなくして楽になりもする。ただし、そのことの結果がより大きな辛苦をもたらすから大体が忍耐しているのであり、忍耐をやめて一時的に楽になることは、想像力のある者ではとりにくいことになる。
 忍耐をやめて破れかぶれになり自暴自棄になる者は、辛苦に耐え難くなってそうするのであり、辛苦の甘受をやめるという限りでは、楽にはなる。だが、自暴自棄の後は、耐えて苦痛甘受をもって可能になる大きな価値の維持なり獲得を断念することになるのみでなく、その見境ない暴発・破壊のもと一層の苦痛が押し寄せてくる。先を読める想像力あるものは、それを思って忍耐の方をとる。
 自殺は、責任をとっての自決などとちがい、忍耐できなくなり、破れかぶれで、目先の苦痛から逃げて楽になるためにすることが多い。その生に残されているのは苦痛のみということなら安楽死もやむを得ない。が、そうでないのなら、耐えればよりよい生の可能性が残っているのである。西洋ではレイプ犯による受精卵にすら「人間的尊厳がある、殺すな」ということがある。ましてや、生身の人間は、現に実在している尊厳で、受精卵が人ならば、絶対者であり現生している神そのものである。それの神々しくありうる未来を断ち、それを灰燼に帰すのが自殺である。人生に絶望して苦悶していても、これを耐え切るなら、あるいは自分の生き方、生きる場所を変えるなら、苦悩からは解放される。苦痛・苦悩の現在に囚われて、早まったことをしてはならない。 


忍耐していると当然、苦痛の増すものが多い

2019年10月17日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2-2. 忍耐していると当然、苦痛の増すものが多い
 忍耐は、苦痛を甘受し続ける。忍耐するほどに、苦痛・損傷が蓄積することからいうと、苦痛はしだいに大きくなるはずである。忍耐は、続けていると、苦痛を増し、耐えうる苦痛の限度になって、忍耐を放棄・断念することである。正座は、はじめは何でもないが、少しずつ痛くなり、苦痛がだんだんと大きくなる。我慢できない苦痛になって、正座を断念する。
 尿意や呼吸の抑止も忍耐していると苦痛が激増する。苦痛の原因となる有害な状態が増大するのだから、苦痛を大きくして、(反自然の)我慢をやめさせようというのは、うまくできた自然の摂理である。呼吸をとめていても、あまり苦痛が増大せず、だんだん苦痛に慣れて呼吸しないのが平気になったのでは、生の維持が危うくなる。
 辛い労働は、はじめは、なんとかこなしているとしても、時間とともに疲労も蓄積して苦痛の度合いが大きくなる。一日の仕事が終わる頃には、もうくたくたとなる。苦痛は重なり大きくなる。忍耐への気合も、疲労が大きくなるとともに強くもつことが必要となっていく。日々、それの繰り返しである。さらに、休息を入れて疲労からの回復をはかって労働を継続するとしても、完全な回復はならず、年々、苦労の蓄積となるのが普通である。ひとより多く辛苦を積み上げている者は、心身の損傷の度合いをひとよりはやく大きくして、早く死を迎える。長生きしている者は、なまけて楽をしていたからという場合が結構ある。『論語』で、老いて死なぬは悪なり(「老而不死 是為賊」(憲問篇))というが、老いる前から悪だったのである。お人好しは、多くの苦労を背負い、命までひとに譲る。身勝手なエゴイストは、逆で、長命である。

忍耐して苦痛を受け入れていると、苦痛でなくなる場合がある

2019年10月10日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2-1. 忍耐して苦痛を受け入れていると、苦痛でなくなる場合がある
 苦痛に忍耐するが、これは、苦痛を小さく和らげるためにするのではない。忍耐する基本は、苦痛を受け入れること、甘受することである。忍耐は、その苦痛甘受を手段・踏み台にしての価値物獲得を目的にする。忍耐では、目的のための手段価値として苦痛があり、苦痛が価値ある目的を実現するから、その限りでは、この苦痛がたくさんになればなるほど、その苦痛をたくさん感じれば感じるほど大きい手段価値となり、より大きな目的物が獲得可能になる。その限度は、苦痛が大きくなりその蓄積で忍耐のできなくなる限界点ということになる。
 忍耐し苦痛を甘受すればするだけ、それの蓄積をもってして、より大きな苦痛を感じることになる場合が多いが、逆もある。苦痛に忍耐することが苦痛の軽減になっていく場合がある。麻酔の注射は痛いが、それは手術の大きな苦痛をなくするためのものである。熱い(あるいは冷たい)苦痛の風呂は、思い切って我慢して入ると、だんだん熱さ(冷たさ)の苦痛はなくなって、平気になる。暗闇にいた者には、強い光は苦痛になる。だが、辛抱していると、しだいにまぶしくなくなる。大音響なども我慢していたら、だんだん平気になる。
 その場で直ちに苦痛でなくなるのではなく、忍耐の回数を重ねてしだいに感覚などがこれに適応して平気になるようなものもある。現代音楽は、不協和音のみを重ねるから、普通の騒音とちがい、なかなか慣れないが、それでも重ねて聞いているとだんだん不快度は低くなる。発酵食品のなかには、他の地域からいうと腐敗とみなされるようなものがあり、腐敗臭の耐え難いものがあるが、これも何回か食べていると、その苦痛は小さくなり忍耐は小さくて済むことになる。さらには、それを美味とするまでになって、忍耐などとんでもない話にと変わっていく。
 スポーツでの忍耐も、苦痛に耐えることで同じ苦痛は平気になる。体力がつき、抵抗力ができて苦痛とまではいかなくなる。風邪のような病気でも、はじめは辛いが、苦痛軽減の風邪薬を使わないで我慢していると、だんだんと熱もさがり頭痛も軽くなって一週間もするとなんでもなくなっていく。耐性ができ免疫ができる。ひとの適応能力は大きく、苦痛がつづくと、これを平生のことにとできるように適応していく。


忍耐しても、しなくても、苦痛・辛さ自体は変わらない

2019年10月03日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2. 忍耐しても、しなくても、苦痛・辛さ自体は変わらない
 忍耐は、苦痛を我慢する。それは、苦痛を押さえつけてこれを感じなくするのではない。苦痛を感じる状態をそのままにして、これを受け入れるのが忍耐である。忍耐は、自然を超越し、苦痛から自由になり、これを回避せず、受け入れる。だが、苦痛から自由になるといっても、それは、苦痛を感じなくする、苦痛感情から解放されて楽になるものではない。忍耐が苦痛から自由になるとは、苦痛回避衝動を抑止して制御・支配すること、苦痛から逃げないで苦痛(の回避衝動)から自由になるということである。忍耐は、苦痛を軽減するわけではない。 
 忍耐は、むしろ、自然的には回避できる苦痛をも受け入れるから、より多くの苦痛をそこでは感じることになる。忍耐は、苦痛を軽減するどころか、忍耐をしない(苦痛から逃げる)自然状態よりは多くの苦痛を、しかも長々と感じるものになる。かつて拷問で膝の上に重い石を載せて足に激痛を与える方法(石抱責)があったという。激痛に耐えられなくして自白に導くというものである。忍耐しても、忍耐できず自白しても、その拷問の間の苦痛は変わらない。石の重みで足に激痛が走ることは、忍耐するしないに関わりなく、同じである。が、忍耐する者は、その激痛に降参することなく耐え続けるのであり、より長く多い苦痛を味わうことになる。かつ、激痛に耐えきったものは、もう一枚の石を載せられるから、さらに大きな激痛が追加された。忍耐は、苦痛を受け入れることだから、苦痛を感じることについては、忍耐しないものに比してより多くの苦痛を感じることになるのが普通であろう。
 忍耐を貫くとは、苦痛から逃げないということであり、苦痛回避衝動に勝つということである。感覚感情的には、忍耐の有無にかかわりなく、苦痛には、さいなまれ煩悶し打ちのめされる。だが、忍耐する者の精神、理性の意志は、苦痛の自然的な回避衝動に支配されず、これを拒否して自由を確保する。ひとがひとであるのは、その精神においてであれば、苦痛から逃げない忍耐は、忍耐しないものに比して長く多く苦痛にさいなまれるとしても、自然感性から自由になって、苦痛という自然が精神を脅かそうとすることに負けないで、毅然としてその尊厳を保つ。