2-4-3. 苦痛の忍耐で自由が実現される
動物も忍耐する。快・不快の複数の選択肢があるとき、より快であるものを選ぶから、そこでは、熊が蜂蜜のために蜂に刺されるのを我慢するように、小さな不快・苦痛は忍ぶということが生じる。この忍耐は、基本的に快不快に動かされての選択であり、自然の営為の中での忍耐である。
だが、ひとの忍耐の場合、快不快によって動くのではなく、快不快を超えた目的(たとえば、経済的価値の確保、所属の国家の堅持等)を掲げて、これのために苦痛を踏み台・手段にすることがある。より快の大きなものを選ぶためにではなく、快不快を超えた高い価値・目的のために、動物的自然の快欲求と苦痛回避衝動を抑制する。自然の因果法則にしたがえば、快にはひかれこれの充足へ向かうという結果を帰結し、不快があれば、これを回避するという結果にすすむ。因果の自然である。この自然的因果連鎖をひとは、中断して、つまり、快にひかれての結果を結果させず中断し忍耐し、苦痛を回避するという結果を中断して苦痛を甘受する。因果自然を折り曲げて、苦痛を避けない方向に進め、快でない方にと展開して、人間的な目的のためにこれを利用する。
因果自然を人間的目的のために中断させる反自然・超自然の目的論的な展開を苦痛甘受の忍耐をもって実現するのであり、自然に縛られない自由をひとの忍耐は実現する。ひとも動物的感性をもって快不快にしたがった因果展開のもとに立つが、必要なときには、理性をもって、この感性を制御・制限して、より高い精神的な目的などのために自然感性を超越して反自然・超自然の振舞いをなす。自然感性から解放された、感性(快不快)に従わない自由であり、目的論的展開をする理性の自律の自由である。自然においては、苦痛は避けるが、理性的なひとの忍耐は、理性の目的実現のための踏み台・手段として、苦痛を受け入れて忍ぶ。自然的欲求は快に引かれるが、これを抑制し、これから自由になって欲求不充足の辛苦を忍耐して、ひとは理性的に生きる。
動物も忍耐する。快・不快の複数の選択肢があるとき、より快であるものを選ぶから、そこでは、熊が蜂蜜のために蜂に刺されるのを我慢するように、小さな不快・苦痛は忍ぶということが生じる。この忍耐は、基本的に快不快に動かされての選択であり、自然の営為の中での忍耐である。
だが、ひとの忍耐の場合、快不快によって動くのではなく、快不快を超えた目的(たとえば、経済的価値の確保、所属の国家の堅持等)を掲げて、これのために苦痛を踏み台・手段にすることがある。より快の大きなものを選ぶためにではなく、快不快を超えた高い価値・目的のために、動物的自然の快欲求と苦痛回避衝動を抑制する。自然の因果法則にしたがえば、快にはひかれこれの充足へ向かうという結果を帰結し、不快があれば、これを回避するという結果にすすむ。因果の自然である。この自然的因果連鎖をひとは、中断して、つまり、快にひかれての結果を結果させず中断し忍耐し、苦痛を回避するという結果を中断して苦痛を甘受する。因果自然を折り曲げて、苦痛を避けない方向に進め、快でない方にと展開して、人間的な目的のためにこれを利用する。
因果自然を人間的目的のために中断させる反自然・超自然の目的論的な展開を苦痛甘受の忍耐をもって実現するのであり、自然に縛られない自由をひとの忍耐は実現する。ひとも動物的感性をもって快不快にしたがった因果展開のもとに立つが、必要なときには、理性をもって、この感性を制御・制限して、より高い精神的な目的などのために自然感性を超越して反自然・超自然の振舞いをなす。自然感性から解放された、感性(快不快)に従わない自由であり、目的論的展開をする理性の自律の自由である。自然においては、苦痛は避けるが、理性的なひとの忍耐は、理性の目的実現のための踏み台・手段として、苦痛を受け入れて忍ぶ。自然的欲求は快に引かれるが、これを抑制し、これから自由になって欲求不充足の辛苦を忍耐して、ひとは理性的に生きる。