2-2-3. 不快は、人を覚醒させ、損傷回避、生促進にと向ける
快は、生が充足している状態で、快適な寝所、快適な食事は、生を保護・保持する。不快は、反対で、そういう保護がならないどころか有害な事態に抱くから、その不快(とその原因)を排除しようと動く。不快と感じるものを避けることで、危害の発生を阻止もできる。快は、その快享受を想像して前向きにひとを進める。が、一旦快を獲得してしまうと、この快の享受においては、これにのめりこみ、その先など見る目はなくなり生を眠り込ませてしまう。逆の不快・苦痛は、大きすぎては潰されて生自体が破壊されることになるが、この不快がそこまでのものでなければ、生を先へと駆り立てていく。生推進のためのムチとなる。その不快を回避・消去したい一心で、その不快を克服したところへと前進することになる。損傷やそれを招く状態がなくなるまで、不快は、意識を覚醒しつづけ、その損傷をなくするためにひとを駆り立てつづける。
ひとは、不快・苦痛があることへと注意を向け、覚醒状態をつくっていく。快は、褒美であり、その享受にのめりこみ、まどろみ、そこに停滞するが、ムチとなる不快は、そこに注目させ、さらに、その不快を解消するために種々努力することへとひとを仕向けていく。生が尋常に機能して快調であれば、これを意識することは無用である。だが、それが損傷をうけたりして不調になり乱調状態になると、これをもとのように回復することが必要となるから、その不調・損傷を意識することは、生理的であれ精神的であれ、必須のこととなる。皮膚は損傷がなければ、健やかで、なにも意識する必要もない。損傷からの回復の必要なところのみが、不快のみが意識されるのでないと、意識は、無数の健やかさ(快)にとらわれて、その必要な回復にと眼を向けることは困難となる。快調な胃はしずかにして、傷んだ胃のみが騒いで痛みを知らせれば良いのである。
高次の精神世界でも同様で、不安は、ひとを眠らせず、この不安なものに意識を向け続ける。逆の安心、安らかな事態は、意識を誘わず無にとどまる。それが意識を快へと誘う場面では眠りをさそうばかりである。仮に安心できることにすべて快が意識されるのだとすると、振り返れば無数の安心安全のあることで、これに囚われて生は心地よく眠りこみ続けることであろう。不安・絶望・悲嘆等の不快のみが意識されて、これへと囚われることで、不快なものごと、生否定的な苦難の事態の解消のために専念することが出来て、精神的生は、維持され前進可能となる。
快は、生が充足している状態で、快適な寝所、快適な食事は、生を保護・保持する。不快は、反対で、そういう保護がならないどころか有害な事態に抱くから、その不快(とその原因)を排除しようと動く。不快と感じるものを避けることで、危害の発生を阻止もできる。快は、その快享受を想像して前向きにひとを進める。が、一旦快を獲得してしまうと、この快の享受においては、これにのめりこみ、その先など見る目はなくなり生を眠り込ませてしまう。逆の不快・苦痛は、大きすぎては潰されて生自体が破壊されることになるが、この不快がそこまでのものでなければ、生を先へと駆り立てていく。生推進のためのムチとなる。その不快を回避・消去したい一心で、その不快を克服したところへと前進することになる。損傷やそれを招く状態がなくなるまで、不快は、意識を覚醒しつづけ、その損傷をなくするためにひとを駆り立てつづける。
ひとは、不快・苦痛があることへと注意を向け、覚醒状態をつくっていく。快は、褒美であり、その享受にのめりこみ、まどろみ、そこに停滞するが、ムチとなる不快は、そこに注目させ、さらに、その不快を解消するために種々努力することへとひとを仕向けていく。生が尋常に機能して快調であれば、これを意識することは無用である。だが、それが損傷をうけたりして不調になり乱調状態になると、これをもとのように回復することが必要となるから、その不調・損傷を意識することは、生理的であれ精神的であれ、必須のこととなる。皮膚は損傷がなければ、健やかで、なにも意識する必要もない。損傷からの回復の必要なところのみが、不快のみが意識されるのでないと、意識は、無数の健やかさ(快)にとらわれて、その必要な回復にと眼を向けることは困難となる。快調な胃はしずかにして、傷んだ胃のみが騒いで痛みを知らせれば良いのである。
高次の精神世界でも同様で、不安は、ひとを眠らせず、この不安なものに意識を向け続ける。逆の安心、安らかな事態は、意識を誘わず無にとどまる。それが意識を快へと誘う場面では眠りをさそうばかりである。仮に安心できることにすべて快が意識されるのだとすると、振り返れば無数の安心安全のあることで、これに囚われて生は心地よく眠りこみ続けることであろう。不安・絶望・悲嘆等の不快のみが意識されて、これへと囚われることで、不快なものごと、生否定的な苦難の事態の解消のために専念することが出来て、精神的生は、維持され前進可能となる。