不快は、人を覚醒させ、損傷回避、生促進にと向ける 

2021年09月28日 | 苦痛の価値論
2-2-3. 不快は、人を覚醒させ、損傷回避、生促進にと向ける 
 快は、生が充足している状態で、快適な寝所、快適な食事は、生を保護・保持する。不快は、反対で、そういう保護がならないどころか有害な事態に抱くから、その不快(とその原因)を排除しようと動く。不快と感じるものを避けることで、危害の発生を阻止もできる。快は、その快享受を想像して前向きにひとを進める。が、一旦快を獲得してしまうと、この快の享受においては、これにのめりこみ、その先など見る目はなくなり生を眠り込ませてしまう。逆の不快・苦痛は、大きすぎては潰されて生自体が破壊されることになるが、この不快がそこまでのものでなければ、生を先へと駆り立てていく。生推進のためのムチとなる。その不快を回避・消去したい一心で、その不快を克服したところへと前進することになる。損傷やそれを招く状態がなくなるまで、不快は、意識を覚醒しつづけ、その損傷をなくするためにひとを駆り立てつづける。
 ひとは、不快・苦痛があることへと注意を向け、覚醒状態をつくっていく。快は、褒美であり、その享受にのめりこみ、まどろみ、そこに停滞するが、ムチとなる不快は、そこに注目させ、さらに、その不快を解消するために種々努力することへとひとを仕向けていく。生が尋常に機能して快調であれば、これを意識することは無用である。だが、それが損傷をうけたりして不調になり乱調状態になると、これをもとのように回復することが必要となるから、その不調・損傷を意識することは、生理的であれ精神的であれ、必須のこととなる。皮膚は損傷がなければ、健やかで、なにも意識する必要もない。損傷からの回復の必要なところのみが、不快のみが意識されるのでないと、意識は、無数の健やかさ(快)にとらわれて、その必要な回復にと眼を向けることは困難となる。快調な胃はしずかにして、傷んだ胃のみが騒いで痛みを知らせれば良いのである。
 高次の精神世界でも同様で、不安は、ひとを眠らせず、この不安なものに意識を向け続ける。逆の安心、安らかな事態は、意識を誘わず無にとどまる。それが意識を快へと誘う場面では眠りをさそうばかりである。仮に安心できることにすべて快が意識されるのだとすると、振り返れば無数の安心安全のあることで、これに囚われて生は心地よく眠りこみ続けることであろう。不安・絶望・悲嘆等の不快のみが意識されて、これへと囚われることで、不快なものごと、生否定的な苦難の事態の解消のために専念することが出来て、精神的生は、維持され前進可能となる。

不幸の無としての幸福

2021年09月21日 | 苦痛の価値論
2-2-2-3. 不幸の無としての幸福
 多くの幸福論は、不幸(不快)の無こそが幸福なのだという。不幸は、禍・苦痛を被っている状態で、これを無化できれば、穏やかに安堵できる状態になる。不幸でなければ、それだけで恵まれているのであり、不幸の無が、その安らかさが幸福なのだと論じる。不幸(損傷・苦痛)は、有り、意識するが、幸福は、その不幸の無(無傷)ということであり、意識しないのが普通である。皮膚の痛みは意識してその傷の手当がいるけれども、その傷・痛みがなければ、この無は、意識されることは、普通は、なしで過ごす。しかし、思い直せば、それこそが健やかで安らかなのである。精神的生の感情である幸福・不幸も、これと似たものになる。
 幸福論者の中には、これだけ現代は恵まれているのだから、幸福を感じないのは不遜だと憤る者がいる。だが、不幸(損傷・苦痛)とちがい、幸福は、積極的なものではなく、単に不幸・禍がない状態であるとすると、ことさらに意識するのでなければ、幸福と感じることはない。もちろん、身体の健やかさ(無損傷)を振り返れば、快感を抱くことができるように、幸福も、恵み(不幸の無)を反省すれば、精神的な快感、幸福感を抱くことができ、感情的に不幸と同様に幸福を実感し、かみしめることはできる。
 さらに、恵みとなるもの、富とか名誉とか価値あるものが獲得できれば、一層の幸福となる。が、ひとは、いくら富を得ても、名誉を得ても、幸福をいうより不平不満をいうことが多い。幸福論者の憤りは、幸福への不感症にであるより、多くの国民は恵まれているはずなのに、なおも「不平を言い、不幸をなげく」という不遜な態度にと向けられる。欲望肥大を作る商品社会では、肥大した欲望のもとに不足を感じることになりがちで、欲望肥大の状態を平生のことととらえて、その肥大に間に合ってなければ恵まれていないと感じて不幸気味となる。
 禍いに傷つき痛みを生じているのでなく、安穏な生に恵まれているのなら、不幸ではない。身体が損傷を被ることなく健康でおれるのなら、その無は、ありがたいことである。不幸でないのなら、その健やかな無に、ときには、幸福を自覚することがあってもいいのではある。


希望の無としての絶望

2021年09月14日 | 苦痛の価値論
2-2-2-2. 希望の無としての絶望
 希望は、精神的快で、その反対の極をなす絶望は、精神的な苦痛・不快で、この苦痛の絶望は、人に深刻なダメージを与える。だが、絶望は、希望が絶たれて欠如した状態であるから無であり、そのことからいうと、希望の有に対して絶望は単なる空無と見ることもできなくはない。仏教の空、無我の境地からいうと、真実はそうで、つまり絶望などない、妄念だと達観する。だが、普通は、逆に見る。有るのは、精神世界の損傷の苦痛感情、絶望であり、目的論的に日々を生きるひとのもとでは、希望(目的)は、生が順調な、いたるところにもっているもので、ことさらに感情を抱くようなことなく、感情的には無にすぎないとも捉え得る。皮膚で損傷の苦痛のみをいだくように、希望の営為を破壊されての、不快・苦痛のみ、つまり絶望のみが際立つとも言える。
 絶望は、希望が絶たれたもので、いうなら無である。だが、その無がときには自殺も招きかねない強烈な苦悩をひとにもたらす。通常、ひとは、未来に希望をもって生きる。人生の根幹をなす希望は、その人生の現在を支配し、その未来(例えば裁判官希望)が現在(法学部学生)を作り上げている。その未来の希望がなくなることは、単なる無にはとどまらず、この現在を暗黒にしてしまい、現在の生を大きく傷つけ窒息状態にしてしまうこともある。
 その未来の希望は、自身が作り出したものであり、希な望みとして尊大なものであることもしばしばである(古い時代には、希望は、「けもう」と読まれて、希な、尊大な願望と見なされていた)。ミス日本一になれずに絶望したり、マラソン世界一の期待を背負いきれず絶望して自殺するようなことがある。だが、ミス日本一になれず(その希望を実現できず)絶望できる人とは、希な美人である。マラソン世界一になれず自殺した人は、類い稀な日本一のランナーである。絶望する人は、そういう点でいうと、希な望みをいだけた希な優れた存在なのである。希望は、未来に想定されるもので、未だ無にとどまる。だが、今は無の、その未来の希望が絶たれることでなる絶望は、現在を傷めつけて悲痛な現実を作りだす。絶望は、現在あって現に自身を傷めつけ苦悩させる。希望が絶たれて無いという無が、剥奪的な無として、損傷と捉えられ、現在の自分を痛めつける状態が、絶望である。希望の無が絶望という有を作り上げているのである。だが、思いを改めるなら、希望の無は、無であり、これに執着しないなら、単なる無である。とすれば、無を、ないものを絶つということであれば、絶望も無にとどまる。ミス日本一やマラソン世界一の希望と無縁の凡人は、それらを別世界の高嶺の花と見なして、それを思いつくことすら無く、その無に安んじている謙虚な存在である。 
 絶望は、希望の絶えた無であるが、この無は、単なる些細な欠如と見なされれば、穏やかに対処できる無となる。和食の希望が絶たれて洋食になっても、その希望は無になっただけで、せいぜい失望する程度で絶望する者はまずいないだろう。だが、受験や就職の希望の絶たれた状態は、それが自身の未来のみか現在の人生そのものを奪う剥奪的な無となって、穏やかではおれなくなる。身体の損傷のように、絶望では心が大きく傷つけられた状態になり、そうなると希望(快適さ)がない単なる無ということにはとどまらなくなる。しかし、耐えがたく自身の生をもう終わりにしたいというぐらいに辛い絶望になるのであれば、思いを変えて、希望(けもう)をもう少し引き下げた望みに変えるべきなのかも知れない。そうすれば、いくらでも、希望は見出されてくるし、絶望に呻吟するようなこともなくて済む。

精神的生のもとでも不快は大きな意味をもつ

2021年09月07日 | 苦痛の価値論
2-2-2-1. 精神的生のもとでも不快は大きな意味をもつ
 快は、精神世界では付随的だが、不快は、そこでも、単に付随するものではなく回避すべき肝要な対象、反目的になる(かつ、その不快が手段として避けられないものなら、忍耐がそうであるように、回避せず引き受けもする)。精神世界の多方面に顔を出す不安、この否定的な未定状態において、その主観的な不快・苦痛だけはなんとしてもなくしたいと動く。簡単には、深呼吸してみたり、精神安定剤あたりを使って不安を解消しようとする。不安感情に突き動かされて、この不安をなくするために、客観的に存在する不安な未定状態を解消しようと必死になる。あるいは、不安の客観的な事態は変わらないとしても、その解釈を変更して、自己自身の生き様を変えて、不安となることをやめるようにと試みる。不安の不快感がその生を動かす。その不快感情は、付随するものではなく、なんとしても排除したい反目的となる感情である。
 喜びと悲しみは精神生活を日々動かす快と不快の感情であるが、喜びは、獲得にともなう感情で、この快感情は、付随的な終結感情であり持続性は低い。かつ、純粋な喜び、つまり価値獲得のない喜び(ぬか喜び)は、嫌悪される。逆の悲しみは、喪失感情として、価値あるものの回復がなるまで、これに囚われ続けて悲しみを持続させる。喪失があっても、悲しみがなければ、些事としてうっちゃっておけるが(例えば付き合いのない同級生の死)、悲しみがあるとその喪失に囚われ続ける。悲しみの感情がひとを突き動かし、喪失からの回復がなるものなら、それに懸命となる。回復不可能という場合でも、解釈を変えて悲しみから抜け出そう試み、「亡くなった子は天国に召されたのだ」と思って悲しみからの回復をはかるようなことになる。
 ひとは、未来にと生きていくが、その希望と絶望において、その不快感情の絶望は、耐えがたいものになることが多い。ひとは絶望感解消にと駆り立てられる。希望は、快であるが、感情としては感じないことも多く、快感情なしで希望を推進するのが通常であろう。だが、逆の絶望は、まず苦悩という強い不快感情として意識にのぼる。もちろん、絶望の事態そのものをなんとかすることに懸命になるが、同時に、その絶望感の呻吟状態が耐えがたく、この感情自体をなんとかすることにと駆り立てられる。一時の安らぎを求めて麻薬(酒など)を使ったりする。絶望の不快感情は、希望を絶たれたことに付随する感情ということでは済まされず、ひとは、この絶望の感情に突き動かされて、絶望状態の解消に必死となる。