痛みでは、感覚と感情の区別がしにくい

2021年12月28日 | 苦痛の価値論
2-3-3-3. 痛みでは、感覚と感情の区別がしにくい
 痛み感覚のうちでは、おそらく多くの場合、痛みの感情も抱いている。痛み感覚とみなしているものが、実は、感情だということがありそうである。損傷には痛み感覚が生じるが、火急の事態として、即感情も続く。感覚の持続のもとには、回避衝動・逃走衝動等の感情も含まれている。痛みの感情がその感覚と別に生じるのなら区別しやすいが、痛み感覚に対して即その痛み感情をもつのが普通だから、両者は、渾然一体となって区別しにくい。
 痛みの感覚と感情の違いを自覚するには、痛み感覚のみの状態とこれを超える状態とを観察するといいかも知れない。軽く痛み感覚のみを生じる状態にして、痛み感覚を知り、その痛みを強化して、これを避けたい、この痛みから逃げたいと思うようになる段階が生じたら、そこからは、感覚のみでなく、痛み感情も生じているはずであろう。感覚自体には逃げたいとか避けたいという反応はない。回避とか逃走という動きは、心身全体での反応をもってなる痛み感情になる。もっとも、弱い痛み感覚でも、逃げたいとは思わないにしても不愉快で嫌悪的になるなら、これは、感情的反応をもっているのである。また、強い痛みとなってはじめて感情を生じたとしても、その強い痛み感覚とその感情は、一体的となっていて区別をつけるのは難しいかも知れない。
 弱い、あいまいな痛み感覚のもとで見ていくのではなく、間違いなく痛みの感情も感覚もある強い痛みのもとで見ていき、そこで感覚と感情を分別できるのが一番であろう。感覚と感情の渾然一体の強い痛みのうちで、その感覚を除去することは、伝達神経や脳の痛覚部位を麻痺させてできるだろうが、おそらくその感情の成立も不可能にしてしまう。逆に、感覚の方はそのままにし、強い快感情(弛緩)を与えて痛みの感情(緊張)の方をなくして、その強い痛み感覚を取り出すことができれば、そして、改めて全体からその感覚部分を差し引けば、感情が残ることになるであろう。例えば、眼の中にいれても痛くない愛児から痛みがもたらされた場合とか、苦痛の持続する中でそれの軽減のために快楽湧出の麻薬類(感覚までは麻痺させない類いのもの)を使用した場合、快感が優れば痛み感情はそこでは相殺されて消えるはずである。そういう状態にできれば、純粋に痛み感覚を残し分出でき、その感情と感覚を弁別できるような気がするが、どうであろう。

痛みの感情は、損傷との価値判断と、拒否等の反応からなる

2021年12月21日 | 苦痛の価値論
2-3-3-2. 痛みの感情は、損傷との価値判断と、拒否等の反応からなる  
 痛みの感情は、痛み感覚と一体的で、感覚なのか感情なのか不分明である。が、感覚は、痛覚刺激を受け取っての受動的なものに留まるのに対して、痛みの感情は、これに能動的に反応した萎縮や回避の構えをもつものとして、概念的には区別されるものであろう。
 一般的に感情は、生主体がその対象とする物事について抱くものだが、それは、一方でその物事が自身にもつ意味、価値・反価値を察知し判定して、他方でその判定に応じて自身のためになるようにと心身全体で反応する。悲しみの感情は、自身に喪失が生じていると価値判定して、これに心身が萎縮・自己閉鎖等の反応をもったものである。怒りの感情は、その対象・事態を気障りなものと判定して、これに懲罰をと攻撃的反応をもったものである。解釈・価値判断があっても、心身の反応面がない場合、感情にはならない。怒りで、気障りと判定しても、身体が反応せず冷静に損害賠償を求めるようなときには、怒りにはならない。ムカつき心身が反応してはじめて怒りである。ときには、解釈・判定面はなくても反応さえ生じるなら、怒りとなる。気分としてのイライラする怒りは、その気障りとの解釈対象を欠いた心身の反応面のみでも成り立つ感情である。感情では、心身の反応面が要となる。喪失の事実、その解釈がなくても、身体が冷え冷えとしたり涙をだせば、悲しみの感情がもたらされる。
 痛みの感情は、一方にその生において傷つき損傷を生じていると判じて(痛み刺激をもっての痛み感覚となり)、他方にこれに心身全体で萎縮・緊張・抑鬱・拒否等の反応をもつ。痛み感覚をもち、これに生主体が拒否的に能動的に反応するとき、痛み感情になるということである。
 痛みの場合、苦痛刺激が意識の多くを占めて、その感覚とそれから生じる痛み感情は、一体的に感じられ、感覚と感情は区別しにくい。まずは痛み感覚に始まり、その持続の中で痛み感情も生じるから、しばしば痛み感覚の中にその感情は埋没して、区別がしにくい。しかし、痛み感覚はあっても、痛みの感情とならず、感情としては、ストレッチのように、痛みの感覚が快感になることもあるから、痛み感情は、その感覚とは別に考えられるべきものであろう。その痛み(感覚)が大きな価値を伴うものだとすると、感情的には、快になり(身体は、苦痛感情の緊張・萎縮があっても、快感が勝つと、弛緩し、伸張することになり、快のみを感じることとなる)、不快・痛みの感情は消失して、感じられない。そこでは、したがって、痛みの感覚のみが感じられ、感情的には、快感が続くこととなろう。
 痛みでの感覚と感情は、区別しにくいが、痛み始めに損傷の部位に感じるのは、痛み感覚である。それに続いて萎縮したり緊張するのは、心身全体で反応することで、これは、痛む部位の感覚を超えたものであり、痛み感覚ではなく、痛み感情になると言ってよいのではないか。腕が痛む(感覚)とき、逃げたい、これを回避したいと思うことになるが、その逃げたいという衝動・思いは、腕が思い反応するのではなく、個我としての私の心身全体での反応であり、これは、痛みの感情になるであろう。

痛みの感情は、心身全体での反応

2021年12月14日 | 苦痛の価値論
2-3-3-1. 痛みの感情は、心身全体での反応 
 感覚としての痛みは、損傷の部位、傷んだところに位置して感じられる。足が傷んで、足が痛いと感じる。だが、感情は、身体の部位に感じるものではなく、足の感覚的な痛みを踏まえて、私が、この個我主体の私が、痛いと感じる。感情は、生主体の能動的反応であり、痛みの感情は、能動的に萎縮や緊張、焦燥・抑鬱等の反応をとる。足に感覚的に痛みを感じるからといっても、足が萎縮・焦燥をするのではなく、心身全体をもって感情としては反応する。ただし、痛み感覚が大きければ、その部位にと痛みの感情も引き寄せられ、その部位あたりに感じることはありそうである。
 これは、快感情でも同じことである。好ましい感覚を受動的に感じとって、これに生主体が心身全体をもって快の感情反応をする。口に甘いものを感覚しても、即おいしいという快楽にはならない。それがのどを通過して確かにわがものになったことをのどで感受して、これに快楽の、心身全体をもっての感情反応をして、甘くておいしいと感じることになる。おいしさの快楽は、心身全体で反応し感じとるが、その味覚を踏まえて生じるものとして、その部位(味覚)に重ねて感じる。同じように、下半身の放尿、射精あるいは排便では、その部位に近づけて(その感覚を踏まえこれに引かれ)、それぞれ下半身に快楽を感じる傾向がある。特に放尿・排便の場合は、先立つ痛みがあって、その部位の痛みからの解放感が快の中心で、痛みを感じる下半身の部位に快感は強く結ばれることになる(もちろん、放尿をぎりぎり我慢していた後の大きな快楽感情など、全身に弛緩を感じるし、顔面に法悦の表情を自覚もする)。
 逆の苦痛の場合、切実なこととして、痛み感覚に、より密接に重ねてその痛み感情を感じることになる。ひとの意識は、ひとつのことを意識するのが通常で、感覚と感情は別であっても、強い感覚刺激が持続して、その感情が別に生じても、これをはじめの意識の感覚の場に重ねて感じることになりやすい。痛みの感覚が足に生じていることを意識するときには、同時に、これを回避したいという感情ももち、その感覚とその感情はひとつの痛みとなって、したがって足の痛みなら、足に意識をもっての感覚・感情となる。ただし、少し反省的に見れば、足の損傷とその痛みだとしても、痛みの感情としての萎縮は足ではなく心身全体が緊張萎縮していると自覚できるし、足の痛みに感情的に反応して涙を出すときは、足に出すのではなく目に出していることを自覚はする。



感情としての痛み

2021年12月07日 | 苦痛の価値論
2-3-3. 感情としての痛み   
 痛みは、感覚なのか感情なのか、両者は一体的で、分けてみることは難しい感じだが、これを分けて見るとしたら次のように捉えられるであろうか。痛みは、感覚としては、損傷の部位からの痛覚刺激を脳が受け取って感じとるもので、その感情の方は、その損傷と感覚をふまえて、心身全体が反応することでなる。痛みの感覚(感受)と痛みの感情(反応)は、危機に発するものとして緊急を要し同時的になっているが、一方の痛みの感覚は、身体の各部位から脳中枢に向けて発する神経刺激でなっている受動的営為である。他方、痛みの感情の方は、受け取った感覚としての痛みに対して、生主体としてこれに反応していく能動的営為である。痛み感覚は、損傷した部位に帰してそこが痛いと感覚する。だが、痛みの感情は、それを踏まえてこの私という個我主体が能動的に反応するものになる。痛みの感情的反応は、心身全体で行い、萎縮、緊張し、嫌悪・拒否等の構えをとり、悶え焦燥するといった様相を見せる。
 小さな痛み感覚は、感情としての痛み反応までにはならない。あるいは、小さな痛みは、心地よいものとして快の感情反応をもたらすこともあろう。ストレッチなどでの小さな痛みは、快なのではないか。体を使って一仕事したり、スポーツで筋肉を使用したあと、体が痛むことがあるが、これには充実感をいだき、身体強化の裏付けを感じて、愉快となる。痛みの感覚はあるが、痛みの感情、つまり身体全体が萎縮したり焦燥感にとらわれたりといったことはない。身体の痛み感覚はあるが、心身全体での感情としては、快ということになるのではないか。
 しかし、痛みの感覚が生じるのは、損傷を受けて、生に否定的な危機的事態が発生しているという場合が一般である。この危機的な痛みの感覚には、普通には、個我としての私の心身は緊張し萎縮して痛みの感情を抱くことになる。痛み・苦痛の感情は、損傷を前に能動的に防衛的反応をもつ。その痛み・損傷に拒否的に反応し、これを嫌悪し、抑鬱感をもち、悶え焦燥し、疲労困憊もしていく。痛みの感覚は、単に危機的状態を脳中枢に通知するだけであり、受け身に受動にとどまる。だが、これに応じる痛みの感情は、防衛・防御の能動的反応をもって積極的な対処にと出る。損傷を回避し、これから逃走しようとの衝動も含みもつ。