2-3-3-3. 痛みでは、感覚と感情の区別がしにくい
痛み感覚のうちでは、おそらく多くの場合、痛みの感情も抱いている。痛み感覚とみなしているものが、実は、感情だということがありそうである。損傷には痛み感覚が生じるが、火急の事態として、即感情も続く。感覚の持続のもとには、回避衝動・逃走衝動等の感情も含まれている。痛みの感情がその感覚と別に生じるのなら区別しやすいが、痛み感覚に対して即その痛み感情をもつのが普通だから、両者は、渾然一体となって区別しにくい。
痛みの感覚と感情の違いを自覚するには、痛み感覚のみの状態とこれを超える状態とを観察するといいかも知れない。軽く痛み感覚のみを生じる状態にして、痛み感覚を知り、その痛みを強化して、これを避けたい、この痛みから逃げたいと思うようになる段階が生じたら、そこからは、感覚のみでなく、痛み感情も生じているはずであろう。感覚自体には逃げたいとか避けたいという反応はない。回避とか逃走という動きは、心身全体での反応をもってなる痛み感情になる。もっとも、弱い痛み感覚でも、逃げたいとは思わないにしても不愉快で嫌悪的になるなら、これは、感情的反応をもっているのである。また、強い痛みとなってはじめて感情を生じたとしても、その強い痛み感覚とその感情は、一体的となっていて区別をつけるのは難しいかも知れない。
弱い、あいまいな痛み感覚のもとで見ていくのではなく、間違いなく痛みの感情も感覚もある強い痛みのもとで見ていき、そこで感覚と感情を分別できるのが一番であろう。感覚と感情の渾然一体の強い痛みのうちで、その感覚を除去することは、伝達神経や脳の痛覚部位を麻痺させてできるだろうが、おそらくその感情の成立も不可能にしてしまう。逆に、感覚の方はそのままにし、強い快感情(弛緩)を与えて痛みの感情(緊張)の方をなくして、その強い痛み感覚を取り出すことができれば、そして、改めて全体からその感覚部分を差し引けば、感情が残ることになるであろう。例えば、眼の中にいれても痛くない愛児から痛みがもたらされた場合とか、苦痛の持続する中でそれの軽減のために快楽湧出の麻薬類(感覚までは麻痺させない類いのもの)を使用した場合、快感が優れば痛み感情はそこでは相殺されて消えるはずである。そういう状態にできれば、純粋に痛み感覚を残し分出でき、その感情と感覚を弁別できるような気がするが、どうであろう。
痛み感覚のうちでは、おそらく多くの場合、痛みの感情も抱いている。痛み感覚とみなしているものが、実は、感情だということがありそうである。損傷には痛み感覚が生じるが、火急の事態として、即感情も続く。感覚の持続のもとには、回避衝動・逃走衝動等の感情も含まれている。痛みの感情がその感覚と別に生じるのなら区別しやすいが、痛み感覚に対して即その痛み感情をもつのが普通だから、両者は、渾然一体となって区別しにくい。
痛みの感覚と感情の違いを自覚するには、痛み感覚のみの状態とこれを超える状態とを観察するといいかも知れない。軽く痛み感覚のみを生じる状態にして、痛み感覚を知り、その痛みを強化して、これを避けたい、この痛みから逃げたいと思うようになる段階が生じたら、そこからは、感覚のみでなく、痛み感情も生じているはずであろう。感覚自体には逃げたいとか避けたいという反応はない。回避とか逃走という動きは、心身全体での反応をもってなる痛み感情になる。もっとも、弱い痛み感覚でも、逃げたいとは思わないにしても不愉快で嫌悪的になるなら、これは、感情的反応をもっているのである。また、強い痛みとなってはじめて感情を生じたとしても、その強い痛み感覚とその感情は、一体的となっていて区別をつけるのは難しいかも知れない。
弱い、あいまいな痛み感覚のもとで見ていくのではなく、間違いなく痛みの感情も感覚もある強い痛みのもとで見ていき、そこで感覚と感情を分別できるのが一番であろう。感覚と感情の渾然一体の強い痛みのうちで、その感覚を除去することは、伝達神経や脳の痛覚部位を麻痺させてできるだろうが、おそらくその感情の成立も不可能にしてしまう。逆に、感覚の方はそのままにし、強い快感情(弛緩)を与えて痛みの感情(緊張)の方をなくして、その強い痛み感覚を取り出すことができれば、そして、改めて全体からその感覚部分を差し引けば、感情が残ることになるであろう。例えば、眼の中にいれても痛くない愛児から痛みがもたらされた場合とか、苦痛の持続する中でそれの軽減のために快楽湧出の麻薬類(感覚までは麻痺させない類いのもの)を使用した場合、快感が優れば痛み感情はそこでは相殺されて消えるはずである。そういう状態にできれば、純粋に痛み感覚を残し分出でき、その感情と感覚を弁別できるような気がするが、どうであろう。