正しいことから、より正しいこと(まこと・真実)へ

2013年05月25日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

5-5. 正しいことから、より正しいこと(まこと・真実)へ
 節制や勇気の道徳は、悪人のもとでは悪に加担することがあるけれども、正義は、悪人が抱いても善になる。しかし、法としての正義は、単に悪・不正ではないというだけであれば、さして誇れるようなものではない。これに比して、道徳のもとでは、しなくても(それの不正の)許されているような、より高く、より正しい規範、理想を求めていくものとしては、これと取り組むこと自体が誇らしい事柄となる。
 節制や勇気などのより善い生き方を求める道徳のひとは、多くが不正・無法などとは無縁で、法(正義)など気にする必要のないひとである。かりに正義に関わる必要がでてきたとしても、そこでは、不正をしないだけの法的な正義にとどまるのではなく、道徳的姿勢をもって、より正しくより善い正義、つまり、こころから法に適うことを願い、平等になるようにと細かに気を配る姿勢をもった者となる。善意・誠実等も単に法的正義下での、悪意がない、嘘をつかないといった底辺のレベルではなく、利他の精神をもち、力を尽くし心を尽くしていくものとなる。
 道徳的向上を願う場合、正しいこと・正義の現にある事実(あるいは不正・悪の無)のレベルから、より正しい、いまだ実現できていない、かなたの理念・理想、いわば真にあるべき事への、真事(まこと、誠)の世界への飛躍を求める。不正がないという正義の事実世界に安んじるのではなく、かなたの、有るべき、より正しい、自律理性の見出す合理的で普遍性をもった真実の世界を希求していくことになろう。
 とどのつまり、(法的な)正義の「正しさ」は、許しがたい不正・悪を阻止しているだけである。だが、節制・勇気などの道徳の方は、さらに、「より正しい」ものを目指すのであり、有るべき真実を追求することに連なると思われるが、どうであろうか。
(終わり)


正義の道徳化、内面化

2013年05月18日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

5-4. 正義の道徳化、内面化
 行為の正しさを求める正義(法)も、心から正しくということになれば、道徳の領域に入ることとなる。善意も信義誠実も、悪意・偽証などのない法的正義にとどまるのでなく、つまり、単に不正をしないという消極的なものでなく、心から善意・誠実にということになると、それは、法の領分をこえて、心構えとして内面化し道徳化する。善意は、道徳化すると、無知のもとでの単なる悪意の欠如ではなく、心からして善いことをと意志するものになる。この道徳化した正義は、ときに法と対立する。義賊は、その「義」において道徳的正義をとり、その「賊」によって法的正義に背く。
 現行法に忠実なだけではなく、より正しい、一層の合理的普遍的な正義を求めるひとは、法的な正義の純化とともに、心からの正義を求めるものともなろう。不正・悪に厳格で、法的な正義・正しさに飽き足らず、さらに道徳的な悪をも嫌悪して、道徳としての正義を身に引き受けるのである。たとえば、自分の不利になろうとも公明正大にというフェアの振舞いはそれになろう。誠実、寛大、慈愛・敬愛の心構えも、利害対立のもとでの、ありたい、より正しい心構えであり、いわば高級な正義、道徳化した正義と見なせる。
 正義・正しさの道徳化は、広義の正しさの広がりに向かうこともありうる。どんな道徳規範も、理法に合った正しさのもとにある点から、すべて正しいもの・広義の正義になった。この広義の正しいものの広がりに眼が向けば、心からする正義は、道徳的に多様なあらゆる試みをおのれの関心事とするに至る。どういう場面に直面しようとも、理に合ったより正しいものを選び出して、正義・正しさを広げ高めていくこととなろう。


節制・勇気の正義(=法)化

2013年05月11日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

5-3. 節制・勇気の正義(=法)化
 不正・悪に厳しい眼を注ぐ正義と、理想・善を憧憬する道徳とは、逆方向を向いているが、(節制や勇気の)道徳は、正しいこととしては広義の正義に含まれる。さらには、狭義の法的な正義のうちにも、これらの道徳の含まれることがある。節制の道徳のうちでの性的な逸脱の一部(強姦とか不倫)や麻薬の使用は、害悪が大きく、社会的に許せる悪ではないので法(正義)にふれる悪・不正のうちにあげる。したがってまた、無法・醜悪の不倫等との対比において、節度ある異性関係は、法的に適正なものとの評価を得ることとなる。
 その不道徳の社会的影響が些事であれば、できるだけ国家はこれには干渉しないで個人の自律の尊厳をふまえて、自由にしておくべきであろう。だが、それが、社会的に大きな悪影響をもたらすとしたら、これは放置しておくことができない。法的正義に反する悪・不正との刻印をうって国家の強制力をもってこれを禁じることが必要となる。
 節制や勇気の徳のうちでは、その実現の困難な高度なものがあるし、実行のやさしいものもあるが、法的な取り締りの対象となるのは、その難易度にはかかわらない。それのもたらす社会的な害悪の大きさが、法(正義)化される時の注目点・肝要事である。その節制を守る事が相当に困難であっても、害悪が大きければ、それは、許容できない悪・不正となる。重い刑罰の脅しをもって無理をしてでも守らせることになる。
 節制などの道徳が正義化する場合、法の取り締り対象になるということであり、もともとの道徳的なあり方とはちがって、心のもの、内面のものではなく、外的な言動をもったものとなる。内的心的にとどまるものは、取り締りようがない。不倫したいという思いではなく、事実をもって、不義密通は処罰される。


下向きの(法的な)正義、上向きの(節制や勇気の)道徳

2013年05月04日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

5-2. 下向きの(法的な)正義、上向きの(節制や勇気の)道徳
 法としての正義は、悪・不正を阻止・禁止するためにある。この正義は、不正・悪への善後策にとどまる。法で「善意」をいうが、それは、単に「悪意」が無い無知状態を指すにすぎない。悪・不正へと下向きである。だが、道徳的な対応は、「善意」でいえば、真に善いことをと意志し願うもので、積極的で上向きの姿勢をもっている。
 法としての正しさ・正義は、そこに実現されて現に有る。悪・犯罪の取り締まりが肝要で、正義は、悪を無に押しとどめて、その社会に現前している。だが、道徳は、達成すべき理想としてかなたにある正しいものであり、それは、これを意志する時点では、そこに未だ実現されておらず非存在にとどまることが多い。法的な正義では、不正・悪(偽証とか傷害)の方が、平生の状態では非存在で、これを阻止する正義が厳として存在する。
 理想となる道徳は、かなたの理念としてあっていまはまだ実現されていないとしても、それを憧憬し意志するということで、心には、現に有る。節制や勇気の徳を意志するという形で自律理性のもとに確固として有って、道徳は、法的な正義のように杓子定規に普遍にとどまるのではなく、その場の個別事態に即して自らを具体化し現実化していく。
 道徳は、こころを問う。外からは勇敢と見えても、内心では臆していたのだとすると、自身を決して勇敢と思うことはない。節制しているように見えても、実際は食欲がなかったのなら、節制しているとはいえない。だが、正義は、外面のもので、心では不正を思っていてもいい。事実として、法に適い、えこひいきをしなければ、それで正義である。