苦痛甘受の受動的忍耐における能動性

2016年09月30日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4-2. 苦痛甘受の受動的忍耐における能動性
 忍耐は、不快・苦痛に抵抗せず、あくまでもこれを甘受するだけの受動に徹する。苦痛を排除したり攻撃するのだとしたら、忍耐しないということだから、表向きは、忍耐は、あくまでも、苦痛を静かに受け入れているのである。だが、忍耐には、どこかに大きなエネルギーの使用を感じる。では、忍耐に感じるそのエネルギーは、どこに注がれているのであろうか。
 その中心は、なんといっても、苦痛に対決して譲らずこらえるというところにあろう。苦痛・辛苦がこころに与える不快刺激をしっかりと受け止めて、不安・嫌悪・抑うつ等の押しつぶし悶えさせる感情的重圧に向かい合い、逃げず屈せず緊張し力んで踏ん張るのである。激痛に面と向かって一歩も引かない対抗的能動的な構えをとる。生じる緊張・抑うつなどを持ち堪えようと汗を流して耐える。
 苦痛は、自分の心身が傷つき障害の生じていることを知らせ、心身は自然的にはその傷つけるものを拒否し苦痛を回避しようと緊張し激している。忍耐は、この苦痛からの逃走や排撃への自然的な大きな力を強引に抑えて冷静に装って忍び耐える。左手は動こうと全力でもがき、右手はこれを強引に全力を傾けて抑止する。その使われるエネルギーは外には出ないが、自己において二重の全力をもって衝突して消しあう。自己内での膨大なエネルギーの消耗となる。忍耐が成り立っている限りでは、そとには何も出ず、穏やかで消極的な受動状態にとどまる。うちは、猛火に身を焦がしながら、そとは、何事もないかのように穏やかに苦痛を甘受しているのが忍耐である。苦痛が去れば、どっと疲労感が押し寄せてくるほどのエネルギーを使う。
 欲求の忍耐の場合、その欲求自体はしっかりともっている。それがなくなっておとなしくなるのなら、忍耐は無用である。外面と裏腹にうちでは、活発に欲求が息づいている。忍耐は、この強い欲求をより大きな力でもって動かないようにする抑圧の能動性・積極性を維持し、欲求不充足の辛苦をうちに耐え忍ぶことをもって成り立つ。苦痛となった尿意を抑えて七転八倒するときのように、欲求の激しさ、不充足の辛苦が一方にあり、これを抑圧して歯を食いしばっても譲らない猛烈さが他方にあっての忍耐である。 


忍耐は、面従・腹背である

2016年09月23日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4-1. 忍耐は、面従・腹背である
 抑制では、心の内と外の分裂は、どうでもよいことである。だが、忍耐では、基本的に内面と外面は反対になる。いやなものを我慢するとき、外面では、これを甘受して抵抗せず受動に徹する。だが、内面はそうではない。内心・本心においては、これを拒否し排撃したいのである。もし本心においても外面と同じように無抵抗になり、不快とも排撃したいとも思わないのなら、これを忍耐することはいらない。忍耐するかぎり、外面では淡々と受け入れるが、内面では、猛烈に不快とし排撃的なのであり、この不快や排撃欲をうちに隠し禁圧している。ニンジンを我慢して食べるのは、これが不快でいやだからである。ニンジンが好きになったら、すこしも忍耐することはない。忍耐するかぎりでは、外面では無抵抗の受容だが、本心においては、外面とは裏腹に、不快・苦痛とし、これを拒絶しているのである(苦痛は、多く外から来るから、外面と内面となるが、専ら自己に起因する苦痛もある。この場合も内外の二面に見てよいであろう。苦痛を回避・排除したいという自己の内的自然本性に対立する外は、この苦痛を受け入れねばならないという、自然感性を外から制御する理性であり、うちへ抑え込む自己ということになる)。
 忍耐が、内心の通りにして苦痛を排除する攻撃的能動的な対応をするとしたら、忍耐できていないということになる。能動的攻撃的な振る舞いはせずに、外面的には、これを従順に受け入れるのが忍耐である。攻撃も逃走・回避もせず、抵抗することなく、あえて受け入れる、甘受する。うちにある反発・不快・排撃欲を押さえつけてそとに出ないようにして、いわば「面従腹背」に徹する。
 欲求の忍耐の場合も同じく二重になろう。本心では欲求しているのだが、外的には(個我の理性的統体としては)それの発現を抑制して欲しくはないかのように振舞う。忍耐は、「外面如菩薩、内面如夜叉」といってよいようなことになる(この「内面、夜叉の如し」は、邪な本心を隠して人を偽るような時に言われることだが、忍耐の場合の内面は、邪悪というわけではない。内にとどめられた、外面とは逆になっている本心・自然・感性を語る)。


抑制と忍耐のちがい

2016年09月16日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4. 抑制と忍耐のちがい 
 抑制は、抑え制することで、抑制する者からみて放置しがたい動きを抑えて、これを制御しようという積極的能動的な営為であろう。積極的能動的とはいえ、大きな動きにと推進していくことを「抑制する」とはいわない。その放置しがたい動きを抑圧して動かないようにすることが中心になろう。その対象が自分自身の場合、「自制」ということになる。自身の欲求などを動かないようにと抑えつけるのである。
 これに対して忍耐の場合、その対象は、自身のうちの苦痛・不快であり、これを忍耐するのである。もちろん、苦痛の原因自体は、しばしば外にある。「お客の傍若無人」に我慢し、「いつもの悪口」を辛抱するという。それらが愉快で心地よいのだとすると、なんら忍耐はいらない。あくまでも自分に不快なものが忍耐の対象である。抑制の場合は、例えば「振る舞い」を抑制するとは、これに能動的にかかわり押さえつけることである。だが、忍耐は、その「振る舞い」を甘受することにもなるが、なによりも、それによって自分に生じた心中の不快・苦痛を対象としこれを甘受するのである。
 抑制する場合の対象は、忍耐の対象とちがって、これが不快とか嫌なものとは限らないであろう。好きなものであろうと嫌いなものであろうと、とにかく、それの動きを動かないようにか動きを小さく制御するのが抑制であろう。そとにあるものであろうと、自分のうちの心身の動きであろうと、これの動きを小さめにと抑圧するのである。
 抑制は、能動的積極的に対象にかかわるが、忍耐は、その点では、あくまでも受動的で消極的である。忍耐は、苦痛・不快を対象にするが、能動的になってこれを抑圧・抑制するものではない。自分のうちに生じている不快・辛苦を排撃したり積極的に小さく抑制するとしたら、忍耐してないことになる。忍耐では、苦痛をそのままに甘受する。歯痛に忍耐するものは、歯痛を排撃しない。もし、薬を使ったり抜歯などして歯痛をなくするのなら、痛みを抑制し排撃するのであって、忍耐しないのである。忍耐するかぎりでは、歯痛をそのままにして抵抗・排撃せず、その痛みのままを受け入れ甘受することになる。
 


自制・自己抑制・抑制

2016年09月09日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-3-4. 自制・自己抑制・抑制
 節制は、快楽享受の抑制になるが、自分の抑制することで、「自制」と捉えられることがある。自制は、「自己抑制」であるが、両者は若干ニュアンスを異にする。自己抑制は、「自分から」「自己による」という面が強いだろう。自己抑制で対比的に想起されるものは「他者」(からの)抑制である。他者による、外からの抑制である。それに対しては、自己抑制は、まずは「自己による」ということになろう。他者によるのではなく、自分によって自発的にする抑制だと。ひとに言われる前に、自分から、それを見越して自己抑制すると。
 自制は、それに対比しては、「自分を」抑制することが中心になろうか。怒りで、あるいは妖艶さに「自制心を失った」という場合、その「自」は、制すべき「自分を」であり、自分の冷静な判断を失い、自分の欲望を抑制することができなくなったということであろう。もちろん「自制」も「自分から」という自発性が前面にでることもある。上司の意をくんで同僚の批判を「自制する」というのは、強制されたものではなく、自発的に「自分から」ということであろう。
 抑制は、自制もそうだが、対象の動きを前にしてこれを抑圧してその動きを制限する。その動く対象が、自制では自分、自分の心身になるが、これはさらに限定される。抑制では、胃の動きを薬で抑制するというように、不随意の心臓や胃の動きを小さくなるようにと抑制できる。だが、そのために自分で薬を飲むとしても、それを自制とはいわない。自分が直接に抑制できるものではないからであろう。自制は、「自分が」あるいは「自分で」抑制・制御できるものにと限定されるわけである。自制の抑制対象は、随意の自分ということになる。自制は、「自分の」「自由」(自律)にできる「自分を」対象とし、「自分から」(自発)「自分が」(自主)「自分で」(自力)抑制するのである。
 さらに、嫌いなもの、いやなことは、求めることはないから、動きを抑えて自制するまでもないことである。自制の対象は、したがって、随意のもののうちでも、したいこと、ほしいことという、放置しておくと過度になりがちの欲求あたりが中心になる。
 自制は、自らを制するということだが、その「制」は、自己「抑制」に限定されることはないのかも知れない。抑制・制限とともに、制御・統制といったものも想起されうる。自制は、英語でself-controlと訳すようだが、コントロールは、抑制を含む「支配」「管理」「制御」「統制」であろう。「不安に自制心を失う」(パニックで、どうしていいのか分からなくなり、おどおどする)といった場合の「自制」には、単に抑制のみでなく、統御・制御・支配も含めていいような感じがする。
 


我慢・辛抱・忍耐のニュアンス

2016年09月02日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-3-3. 我慢・辛抱・忍耐のニュアンス
 忍耐では、我慢と辛抱の言葉がよく使われる。ケーキを食べるのを待たせて子供に忍耐させるとき、「3時まで我慢しなさい」といい、「もう30分辛抱しなさい」という。しかし、忍耐であろうけれども、こういうとき「忍耐しなさい」とはあまり言わないのではないか。同じ忍耐を意味する言葉であるけれども、忍耐の有り様や忍耐へのかかわり方のちがいがこれらの言葉づかいにこめられているのであろう。
 禁煙で喫煙欲を抑制するとき、たばこを「吸うのを我慢する」といい、「吸わないで辛抱する」という。我慢は、「喫煙を我慢する」と、吸いたいという喫煙欲を禁じるもので、感性的な喫煙欲求自体に向かって働くものであろう。だが、「喫煙を辛抱する」とはあまりいわない。辛抱は、禁煙をリードする忍耐の意志に働きかけることが中心になるのではないか。辛抱は、「喫煙」ではなく、「禁煙を辛抱する」のである。
 我慢は、抑えられるべき自然(感情や欲求)に面と向かってこれを戒める。おやつの欲しいのを我慢し、たばこの吸いたいのを、我慢せよと戒める。これに対して辛抱の方は、主として忍耐する意志に働きかけ、この意志を貫徹するようにと励ます。おやつ抑制の意志を、「3時までの辛抱だ」と励ます。禁煙していることの辛い、くじけそうになる意志の状態を前にして、「もう一月もしたら、落ち着く。辛抱、辛抱」と、禁煙の意志を貫くようにと励ますのである。我慢は感性的忍耐になり、辛抱は理性的意志的忍耐になる。我慢は、苦痛の生じている現場の忍耐として断片的短期的となり、辛抱は、そういう苦痛の連続・断続を貫いての、強い意志をもっての長期的忍耐になるともいえようか。注射は我慢で、点滴は辛抱である。
 ただし、禁煙持続の忍耐を、「禁煙を我慢しろ」「喫煙を辛抱しろ」といっても通じないことはなかろう。「忍耐」という言葉の場合は、「禁煙の忍耐」はいうが、「喫煙の忍耐」は誤解を生みそうである(この表現だと、タバコ嫌いなのに無理やり副流煙などを喫煙させられる状態がまず念頭に浮かぶ)。「忍耐」は、おやつとか禁煙の具体的な場面では、使いにくい。おそらく、日常の生活用語としては、我慢や辛抱のようには使われない。よそ行きのことばであり、かしこまったときに使うものになるのであろう。我慢とか辛抱として日常生活に具体化されているものを前に、一歩距離をおき、総括的に抽象化して語るような場合は、忍耐をつかう。「我慢、我慢!」「辛抱、辛抱!」と日頃は励まし、一歩離れて高みから、「忍耐が必要」というのである。