(目的の)手段の忍耐では、苦痛の原因を甘受する

2020年03月28日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-2.(目的の)手段の忍耐では、苦痛の原因を甘受する
 ひとは、何事をするにも目的をもって動く。仮に、ビールを飲む目的を実現するために、寒くて苦痛の中を、近くの販売機までいって購入することが必要になるとしよう。ここでは、寒さの苦痛だけを引き受けて、販売機までいくという手段(寒さの原因)を引き受けないということはなかろう。寒さに忍耐するのだが、それ以上に、販売機に行くという寒さの原因こそを第一に引き受けることになろう。とくにひとにこれを頼む場合は、「寒さの苦痛に忍耐しなくていいから」ビールを買ってきてくれとは言えないであろう。販売機に行って来るには、かならず、寒さへの忍耐がいることで、その苦痛を前提として苦痛の原因の実行を頼むのである。手段(苦痛の原因)を依頼するに際しては、そこに苦痛が必ずともなうから、その行為(原因)を「忍耐・我慢してくれ」と言うことになろう。ときには、寒さの苦痛は回避して、したがって普通には販売機には行かないのを、寒さ対策をして行くということはある。だが、逆に、苦痛を引き受けて、販売機に行かないことはなかろう。苦痛を引き受け忍耐するのは、その原因を遂行するためである。ここで忍耐するというのは、苦痛の原因も引き受けるということを前提にしたものになろう。
 目的を描き、これの不可避の手段を実行するには必ず苦痛をともなうというとき、手段の引き受けは、苦痛を引き受けることでもある。苦痛をそこで引き受けるとは忍耐をするということであり、手段引き受けのうちにその忍耐も意志していることになる。目的を実現しようという意識は、苦痛の手段の引き受けをうちに有し、したがって忍耐の決意をそこに含んでいることになろう。もし、そこに忍耐、つまり苦痛引き受けの覚悟がないなら、手段はならず、目的は実現できないこととなるから、目的と手段を引き受ける段階で、忍耐の心構えも作動しはじめているのでなくてはならないであろう。目的をなんとしても実現したいと思えば、ひとは、この苦痛の原因を受け入れることになり、したがって、苦痛を甘受せざるを得ないということになっていく。そこで、苦痛を引き受けている、忍耐の決意をしているということは、手段(原因)を引き受け遂行する意志をもっているということである。苦痛の忍耐は、その原因の受け入れを含んでいることになろう。
 ただし、その苦痛の手段を実際に引き受けて忍耐する場になって、これが意外にも苦痛でなければ、この手段の実行は、苦痛でないのだから、苦痛の甘受とはならず、したがって、忍耐でもないこととはなろう。狭義には、やはり、忍耐は、苦痛の甘受ということではある。

浦島と山幸彦のちがい

2020年03月23日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【1-3.浦島と山幸彦のちがい】浦島説話によると、竜宮から故郷に帰った浦島太郎は、ほんのわずかの間留守にしただけなのに、長大な時間を思わせる故郷の変貌を見出すことになった。そして、その長大な時間に見合うように突如白髪になってしまった、と時間的な異常を語る。この話は、現実にはありえないことであるが、単にナンセンスと放置もできず、なんとなく、これにひかれてしまう。しかも、浦島太郎のような異常な時間体験をする話は、どこの国の昔話にもあるぐらいにポピュラーでもある。「今浦島」の体験、たとえば、長らく会わなかった故郷の級友たちに会ったところ突如老人になって現れて驚いたといった体験は、珍しくない。つまり、一方では昨日の今日と感じているのに、その同じものが、他方で、知らぬ間に大きな変貌を見せていて長大な時間を思わせるといった奇怪な時間体験は、けっこうみんなもっていて、これは、奇妙な、あるいは驚きの体験として忘れがたく心の片隅に残っている。それが、浦島説話などの奇怪な異時間を語ることをもっての異境・異世界の昔話を受け入れやすくしている素地となっているのであろう。 
 だが、同じように竜宮に行って帰った「山幸彦」では、時間の経過の異常さは言われることがない。それは、異時間体験が、主観的なものにとどまり、客観的にいうなら錯覚でしかないと無視しているか、実際に、そういう奇異な体験そのものをもつことがなかったということなのであろう。「浦島と山幸では、竜宮にいた時間がちがい、山幸は、釣り針を見つけたら、すぐ帰ったのでは?!」と言われるかも知れない。が、山幸彦も、同じように、竜宮で妻となる女性に出会い結婚生活をはじめており、帰郷時には浦島が玉手箱を携えていたように、海の干満を自由にできる魔法の玉をもらって帰っている。核をなす事態は両者同じであり、おそらく滞在時間もそんなに違うものではなかったであろう。それでいて、山幸彦では異時間を語らないのである。
 外国に長く滞在していても、いまなら、インターネットで毎日でも連絡をつけあうことができる。何年かぶりに帰郷しても、一週間前スカイプで見た8歳の甥っ子は、8歳の姿で現れる。異時間を感じることはなかろう。異世界に行っている間も故郷との音信を保って、次々と新しくこれを記憶にとどめていくなら、故郷の時間的展開をたどりつづけることになる。帰ったとき、旅立ちの時から一足飛びに帰郷時へと飛躍することはない。
 山幸彦は、海幸彦との兄弟葛藤のなかにあって、かれから、失った釣り針をさがしてこいといわれて探しに出たのであり、見つけてもって帰ることが課題となっていた。釣り針は異世界の竜宮と故郷をつなぎ続けるものとなっていた。なにより、兄弟葛藤の結末はつけられていなかったのであって、帰ってからその決着をつける必要もあった。山幸彦が帰ってみたら、兄の海幸彦は、250年前に死んでいたというのでは、話にならない。もらって帰った魔法の玉は、兄を懲らしめるためのものだったのに、もはや使いようがないことになってしまう。山幸彦は、神武天皇の祖父となるはずであるが、300年もあとになって帰っていたのでは、夢と現をないまぜにしてロマンに酔う日本古代史を大混乱に陥れてしまうことにもなる。時間的差異が浦島のように生じていたのでは、そういう後につづく肝腎の課題がむなしいものとなり、故郷でのつじつま合わせができなくなるから、異時間体験はあったとしても、主観的な錯覚という些事にとどめられる必要があったのであろう。
 長旅をして帰郷したとき、客観的には、山幸彦のように旅先と故郷は空間を異にするだけで、時間は共通で滑らかに流れるとしても、主観的な体験としては、その時間的な前後の空白が長いほど、浦島のような異常な時間体験をすることは、しばしばある。しかも、時間感覚が異常をおぼえることは、些細なことがらではなくて、世界と自己の存在の根本形式がゆらぐ由々しき奇怪な事態である。浦島説話は、その奇怪な異時間体験をもって世界の根本をゆさぶり、人の心を揺さぶるのである。



忍耐は、一つの営為の部分的対処としては、苦痛だけにかかわる

2020年03月18日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-1-3. 忍耐は、一つの営為の部分的対処としては、苦痛だけにかかわる
 仕事や勉強は、はじめは、楽しくやっているが、途中から困難が生じて苦痛になることがある。忍耐は、この場面になってはじめて必要となってくる。仕事・勉強は、楽しければ忍耐無用であろう。忍耐の対象ではない。同じ仕事をしていても、苦痛が出てこないなら、忍耐はいらない。が、苦痛を感じはじめるとその仕事をやめたくなり、そこからは、忍耐がなくては先にすすめない。苦痛に忍耐できない場合は、苦痛に屈して仕事をやめる。苦痛にまけず逃げずにこれを甘受するものは、つまり、忍耐するものは、ここを乗り越えていける。もちろん、ここにいたっても苦痛を感じないものは、忍耐無用で、さきへすんなりと進む。忍耐は、仕事自体にかかわるのではなく、そこで苦痛を抱く者のみが、これに対処するために必要とするのである。
 こういう場合、ときに仕事・勉強自体を(途中で苦痛になって)忍耐のいることとして、忍耐の対象ということがあるが、正確には、ほかの者が楽々とするその同じ仕事をしつつ、その仕事以外について、つまり、苦痛について対処するのである。途中で苦痛を生じたところで、苦痛をいだく者のみが、ほかのひとと並んで同じ仕事をしつつ、仕事以外に、その苦痛を対象にして忍耐するのである。「今日は、しんどい、辛いから仕事をしたくない」というのを我慢する場合、辛苦・苦痛を前にこれを受け入れて忍耐して苦痛から逃げずに仕事を続ける。苦痛の原因は、仕事の内容にあるのか、自身の身体的な不調なのかは不明だが、とにかく、心身の苦痛があって、これに負ければ、さきにはすすまないことになる。苦痛を専らに意識し対象にして、忍耐をして先にすすむのである。仕事や勉強という持続する営為の一部分に生じる辛苦について、その原因は、どうであれ、忍耐は、その辛苦の生じている場面で、この辛苦を乗り越えていく決意をして、これを甘受する意志を貫く。ここでの忍耐は、現れている苦痛をもっぱらその対象にしているといえるであろう。
 仕事ではあまりなかろうが、趣味などでは、快・楽をもたらす物事が主となって、一部不快を生じるような場合がある。ここでは、苦痛の原因は快・楽にあり、原因は、忍耐無用どころか、大いに受け入れたいものとなる。それに不快がともなうのであれば、忍耐は、この不快にするのみであろう。悪臭のする美味の醗酵食品では、悪臭の原因は快で享受したいものであり、忍耐は、悪臭という不快・苦痛にのみする。

あの世とこの世の時間の違いを浦島にいう場合もある

2020年03月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【1-2.あの世とこの世の時間の違いを浦島にいう場合もある】浦島太郎の異時間の話の背景には、いわゆる「今浦島」の異時間体験があるように思われるが、それとは別の考え方をする浦島の昔話の語り手もいる。それは、竜宮にいた期間は1年ぐらいの短期間だったが、故郷に帰ってみたら300年も経っていたと語る。つまり、「今浦島」の方は、身近に多くの者が経験している事実を踏まえており、旅の期間は現にそうである通りに長大だったというのに対して、こちらの見方では、竜宮の異世界での時間の速度自体が、ごくゆっくりと進んでいたと語る。これは、宗教でのあの世の時間の速度とこの世のそれの違いをもとにしたものになる。天国も地獄も、永遠をもって語られる世界であり、時間は動くとすると、きわめてゆっくりとしか動かないと想定されている。コーヒーに誘われて30分ほど天国にいっていただけなのに、この世に帰ってみたら、1月も経っていたというようなことになる。この宗教的な世界観を踏まえての浦島では、竜宮にはほんのわずかの間、1年ほど過ごしただけなのに、この世に帰ってみたら300年も経っていたというような時間の速度の違いを語る。 
 竜宮は、異世界・異境であるが、これをあの世、神々の常世の国とみなすことがある。盆や正月には、あの世にいった祖先たちが帰ってくるという考え方は、この国の一般的な民間信仰として受け入れられてきた。あの世とこの世は、(死んだ者に限定してだが)行き来できるものとの発想であり、そういう中に浦島を組み込んだ場合は、両方の世界での時間の速度の違うことをもっての話となるのは自然ではある。ただし、この世とあの世の行き来にもとづいているものは、(今)浦島体験とは言わない。今浦島体験は、この世の多くが実際に体験していることである。長旅などで、長く見ることのなかったもの(故郷とか旧友とか)を見たとき、途中の記憶更新なく昨日の今日と感じる(錯覚する)中で、そのものに、唐突に、長大な時間経過を思わせる変貌を見いだす奇怪な体験である。この今浦島の異時間体験をふまえて示そうとする異世界も、もちろん、この世を超えたあの世、不死の常世の国となってもよい。しかし、あの世を信じない者は、この世のうちにある遥かな異境ぐらいを浦島の行ったところと想定することである。その異時間体験自体は、あの世を必要としないというのが、今浦島体験をもってする語りということになる。 
 ただ、今浦島体験をふまえる場合、長旅を誇張して捉えるだけだから、浦島の300年は、相当過激な誇張を前提にしないと成り立たない。その点、この世とあの世の時間の違いをいう方は、説明が楽である。天国は永遠で時間はごくゆっくり過ぎるといわれ、あの世での1日はこの世に換算した場合1年(365日、365倍)になると仮定すると、浦島でいう故郷の300年は、あの世でいうと1年弱なので、計算としては、分かりやすくなる。300年という数は、あの世の永遠のおこぼれをもらった年数ということで、妥当なものともなる。ただし、今浦島体験とちがい、この世とあの世の行き来とか、あの世の存在自体は、そういう宗教的世界観を受け入れてのみ納得できることで、信じないものにとっては妄想でしかなく、説得力ゼロで、受け入れ難い話となろう。あるいは、天国とこの世界の時間の速度のちがいも、実在的には、なんの根拠もないことではある。
 かりに、あの世、不老不死の常世の国があるのだとすると、それを踏まえた浦島の異時間は、錯覚をもって成り立つ「今浦島」よりは、しっかりとこれを論じるものにはなる。今浦島は、だれでもが、長く生きておれば、どこかで出くわす異時間体験で、記憶の中断、ブランクをもっての錯覚であるから、異世界を示すには、物足りないところがなくもない。その点では、あの世とか常世はまるでこの世とは違う世界で、その違いは世界の根本形式をなす時間の違いにまで及んでいるということで、その発想は、大がかりでありつつ単純で分かりやすい。神々の不老不死の常世の国では、時間が極々ゆっくりと進み、そこに1年いて、有為転変の激しい無常のこの世にと帰ってきたら300年が経過していたといった形で異質の世界の異質の時間を明快に語る。が、それは、この世にのみ生きる者には、しらふでは到底受け入れがたい妄念であり、「今浦島」の異時間体験と違って、誰もあの世に行ってきて実際に経験したわけではなく、極論すれば、虚言・作り事にすぎない。
 今浦島は、錯覚とはいえ感覚的事実である。が、それに基づく浦島の話は誇張が過ぎる、ほらふきの話になる。他方、あの世とこの世の異時間をいう方は、虚妄の作りごと、捏造になる。どちらにも問題があるが、昔話として聞く者を引き付ける点では、今浦島の方に軍配があがるのではないか。常世のあの世と、無常のこの世が各々に固有の時間をもっているという方は、それはそれとして、あの世があろうとなかろうと、両方は、別々ということでその間に矛盾を感じることもなく、平凡な作り話として見過ごして終われる。だが、今浦島は、昨日の今日という1日が同時に奇怪にも10年間でもあったという非両立、矛盾を提示するのであり、合理性に挑戦するかのようで知性は興味津々となる。しかも、錯覚ではあるが、多くの者が奇怪な感覚的な事実として体験していることでもある。知性にも感性にも刺激的な話ということになる。 
 浦島の話は、あの世との交流がテーマではない。あの世との交わりということなら、一般的には、死を媒介にすることが必要だろうが、浦島は死をもってあの世と関わる話ではない。彼の死をもって話は終わる。後日譚でも作れば、あの世にも居づらくなって、また帰ってきた浦島ということで、この世とあの世の異時間が言われるかもしれないが、そういう話ではない。この世において、魚女房などとはちがうが、羽衣伝説の天女やかぐや姫ほどでもない、亀姫(乙姫)という、この世を少々超えた世界の女性に出会ったので、常世とかあの世的なものに若干関わることになるだけである。浦島の話は、この世において、一応冒険の旅に出かけ帰還するまでの話(失敗談)であり、山幸彦とか桃太郎の話(成功談)と同類のものとみてもさしつかえなかろう。長旅の冒険談の最後を悲劇として盛り立てるために、現実の長旅からの帰郷でもしばしば体験する奇怪な「今浦島」異時間体験を針小棒大にして語っているのである。好みの問題ではあるけれども、この世のうちでの「今浦島」の異時間体験を踏まえたものの方が、浦島説話には、よりふさわしい解釈になるのではないか。ここでは、今浦島体験をもとにするものの方を採っておきたいと思う。

苦痛とその原因が一体的なものなら、原因無視とはいかない

2020年03月08日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-5-1-2. 苦痛とその原因が一体的なものなら、原因無視とはいかない
 痛みは、それをもたらす痛い物に密着して現れていることが多い。痛みの原因の物があって、痛い物となっている場合、痛みに耐えるのは、痛い物に耐えることになる。自然的にはそれが普通だろう。痛い物が痛みを与えるので、この痛い物から逃げるのである。痛いからといって痛みのみから逃げて痛い物は放置するわけには行かないのが普通だろう。麻酔をして痛みだけをなくすることができる時もあるが、一般的には痛みをなくするには、麻酔するのではなく、痛む物から逃げる、これを遠ざけるのである。痛みに耐えるとは、その原因に耐えるというのが普通であろう。
 忍耐は、痛みをあたえる傷む物をそのままに受け入れる、甘受し続けることである。傷みがあるから、痛むのであり、痛みを受け入れる忍耐は、傷み(原因)を受け入れるのであり、傷みをそのままにして、これに触れないでおこうというのである。熱い風呂では、その熱湯による皮膚の傷み=痛みに我慢するのだが、熱湯に我慢するとか、熱い風呂に我慢するという。それは、熱湯をそのまま維持しておこうと意志をもってすることである。忍耐しないのなら、冷水をもってうめる。それをしないという意志を維持して、熱湯(原因)の苦痛に忍耐する、「熱湯を我慢する」のである。
 歯痛に我慢するとき、虫歯の炎症が苦痛の原因であると分かっている場合、「虫歯の炎症の痛みに我慢する」のだが、くどくなるから、「虫歯を我慢する」という。苦痛の原因が明確で、似通った歯槽膿漏などと区別する必要もあって、「虫歯」をもって表現する。意識としても、歯医者に行かずに、しばらく炎症の起こるままを、原因を放置しておこうという意志をもって受け入れ、これを維持するのである。原因について、無視・無関与にとどまっているわけではなく、原因の作用を自身が受け入れる決断をしている。つまり、こういう場合は、苦痛とともに、それの実在的な原因も忍耐の対象としているのが普通で、苦痛への忍耐(苦痛の甘受)は、苦痛の原因についての忍耐(原因の甘受)と意識されるであろう。