忍耐は、徳目とはなりにくい

2016年10月28日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3. 忍耐は、徳目とはなりにくい 

 「忍耐」に関する言葉や文章は、しばしば、格言となり、座右の銘となる。それは、節制などの比ではなく、たくさんある。ひとを戒め励ます、高い価値の見出されている「忍耐」(あるいは「我慢」「辛抱」)であるが、忍耐は、かならずしも、倫理的な善行とか善になる心構えとは見なされない。徳目のちかくに置かれるとしても、徳目とするには躊躇するところがある。なぜであろうか。

 忍耐は、苦痛を甘受して忍び耐える。苦痛・不快は、自然的には回避したいものだが、より価値あるものごとを得るために、忍耐はこれを甘受する。自然に追随する営みとは違い、これを拒否し超越した反自然・超自然の営為である。このこと自体は、優れた人間的営為として高く評価される。辛いこと、不安や恐怖させられることから逃げずに我慢・辛抱できることは、ひととしてありたいことで、卓越した営みである。

 だが、その高い能力をつかって、ときに犯罪の行われることがある。忍耐は、悪の強力な道具となりうる。万引きや強盗などの犯罪をと思うものは、つかまったらどうしよう、反撃されるかも知れない等と不安になろう。この自然的反応に耐えられないものは、犯罪を断念するが、これに耐えることが出来る者は、実行に踏み切ることであろう。不安に忍耐できること自体は当人にとって価値あることであるが、悪においてもそれは活用される。悪用されるものとしての忍耐は、優れた人間的能力だとしても、善と見なすことはできないであろう。


節制における抑制(自制)と忍耐の有り様

2016年10月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4-5. 節制における抑制(自制)と忍耐の有り様
 節制は、本来、快楽享受を抑制することである。その大原則からいうと、忍耐は、不快の忍耐であるから、節制では中心にはならない。食において、不味いもの(不快)を甘受することを節制は求めない。快楽抑制に限定している。性欲の場合も、同様である。不快・苦痛の性行為に節制は関与しない。
 節制は、抑制の営みであるが、自分のそとにあるものを抑制するのではなく、自己のうちにある欲求の抑制であり、自制ということになる。自身の快楽享受を自制するのである。忍耐は、あまり出てくることはないが、強く抑制するときには、不快・苦痛となるから、そこでは、自分のうちの苦痛・不快を甘受するものとして忍耐の出番がある。
 節制(=食と性の欲求の抑制)の対象・有り様は、そとから見える。過食や肥満は、自分では自覚しないことがあるが、そとからは誰が見てもよく分かる。性的逸脱も、単なる自己内の淫らな妄想をいうのではなく実在の異性にかかわることであれば、露見する。節制という自制・抑制は、これをしている・していないがそとから見える。だが、忍耐は、自身においては苦痛と忍耐の自覚はしっかりと持っていても、自分のうちのことで、そとからは分かりにくい。節制、快楽享受の抑制においても、不快に我慢しているかどうかの忍耐は見えづらい。かりに節食がスムースで苦痛でないのなら、清清しく感じているのなら、忍耐などの出番はない。辛いことになってはじめて忍耐は登場する。それは、そとからは分かりにくい。節食を苦痛と感じる感覚は、こころのうちのことである。かつ、忍耐は、しばしば、それに苦痛を感じていることを隠す。苦痛になるということは、そのことでの弱虫ということでもある。弱虫は知られたいことではないから、うちに忍び隠す。よけいに辛苦と忍耐は分かりにくくなる。


抑制のうちにも忍耐があり、忍耐にも抑制がある

2016年10月14日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4-4. 抑制のうちにも忍耐があり、忍耐にも抑制がある
 忍耐と抑制は、別であるが、相互に他方を含むものでもある。忍耐は、辛苦を甘受することで、辛苦を抑制するのではない。もし、辛苦を抑制するのなら、苦痛を小さくしようと欲するのなら、それは、苦痛をそのままには忍耐しないということである。忍耐は、その点では、抑制を発動させない(よりよく忍耐を持続させるために、忍耐しなくてもよい苦痛の部分は排除・抑制するだろうが)。つらいものをそのままに、抑制せずに受け入れる。だが、それを実現するには、自然的に生じる苦痛回避の自身の衝動(逃げたいというだけでなく、攻撃し抵抗したいというものも含む)を働かないようにしておく必要がある。その苦痛回避の衝動の抑制が必須となる。忍耐は、抑制を含み持つ。欲求の忍耐の場合は、はじめから欲求を抑制していることで、抑制するから不快・苦痛となるのでもある。
 他方、抑制の方は、そこに苦痛がなければ忍耐など必要としないが、そとの強力な動きを抑制したり、自分のうちの欲求を抑圧していると、これがつらくなってくることがある。その辛苦の回避は、抑制を放棄することになっていくから、辛苦の甘受の忍耐が登場しなくてはならなくなる。欲求が大きくなるほどに、これを抑制することは難しくなる。欲求不満が高まるほどに、これを押しとどめることは苦痛になってくる。この苦痛から逃げることは、欲求抑制を断念することである。抑制を貫徹するには、苦痛を甘受して忍耐することがなくてはならない。外の強力なものの動きを抑制するときも、抑制が難しくなればなるほど、忍耐が求められるようになる。抑制は、それがつらい大きな抑制になると、忍耐がなくては貫徹できないこととなる。


忍耐では、抑制とちがい、その根本の対象は自分になる

2016年10月07日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4-3. 忍耐では、抑制とちがい、その根本の対象は自分になる
 抑制は、心の中のことのみでなく、そとの物を動かないようにと抑制もする。だが、忍耐では、自分のうちに生じた不快・苦痛が直接の対象となる。欲求不充足の忍耐がすべて心のうちでの展開になることはいうまでもなく、その苦痛の原因がそとにある場合も、忍耐は、うちに生じた苦痛の甘受を第一とする。
 苦痛の生じるそとの原因が明確であれば、その原因の対象自体を忍耐するということで「熱い風呂を我慢」「重い荷物を辛抱」等、そとのものに忍耐するという。痛み・辛苦をとめるには、その外的な原因となるものを除去すればいいことだから、外的原因に注目する。そして、痛みを甘受し忍耐することをもって、その原因を甘受して忍耐してもいる。しかし、そこで忍耐が直面しているのは、痛みや辛さなどの不快で、この不快に耐えているのである。その不快がどんどん大きくなってついに忍耐できなくなる。はじめは風呂とか荷物に注意がいくとしても、忍耐がしがたいようになるとともに、その意識は、風呂にではなく自身の皮膚の痛みに、荷物ではなく腕の辛さという苦痛に向かうのではないか。忍耐できなくなるとは、痛みに耐ええなくなったということである。どんなに荷物の重量が大きくなっても、風呂の湯が熱湯になっても、苦痛でなければ、平気の平左であろう。
 そとに傷害や妨害がいくら発生していようとも、それが苦痛でないなら、我慢することはない。かりに、そこに生じている苦痛を麻酔で無化したら、当然、我慢・忍耐する必要はなくなる。歯痛も、痛いから我慢がいるのであって、歯茎が炎症を起していても痛みがなければ、なにも忍耐はいらない。忍耐は、炎症にではなく、痛みにするのである。さらには痛みの原因がわからないとか、ないときでも、とにかく痛めば、我慢がいる。忍耐は、自分のうちの苦痛・辛苦の現存することに対してする。同じ仕事や勉強をしていても、一人は嬉々として楽しみ、もう一人は忍耐しているということがある。ちがいは、当人たちの心のうちにあり、忍耐する者は、心に苦痛を抱いているということである。こころに不満・苦痛がなくなったら忍耐は無用となる。