1-3. 忍耐は、徳目とはなりにくい
「忍耐」に関する言葉や文章は、しばしば、格言となり、座右の銘となる。それは、節制などの比ではなく、たくさんある。ひとを戒め励ます、高い価値の見出されている「忍耐」(あるいは「我慢」「辛抱」)であるが、忍耐は、かならずしも、倫理的な善行とか善になる心構えとは見なされない。徳目のちかくに置かれるとしても、徳目とするには躊躇するところがある。なぜであろうか。
忍耐は、苦痛を甘受して忍び耐える。苦痛・不快は、自然的には回避したいものだが、より価値あるものごとを得るために、忍耐はこれを甘受する。自然に追随する営みとは違い、これを拒否し超越した反自然・超自然の営為である。このこと自体は、優れた人間的営為として高く評価される。辛いこと、不安や恐怖させられることから逃げずに我慢・辛抱できることは、ひととしてありたいことで、卓越した営みである。
だが、その高い能力をつかって、ときに犯罪の行われることがある。忍耐は、悪の強力な道具となりうる。万引きや強盗などの犯罪をと思うものは、つかまったらどうしよう、反撃されるかも知れない等と不安になろう。この自然的反応に耐えられないものは、犯罪を断念するが、これに耐えることが出来る者は、実行に踏み切ることであろう。不安に忍耐できること自体は当人にとって価値あることであるが、悪においてもそれは活用される。悪用されるものとしての忍耐は、優れた人間的能力だとしても、善と見なすことはできないであろう。