些事・小事の忍耐、肝心要めの重大事の忍耐 

2017年12月29日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-1. 些事・小事の忍耐、肝心要めの重大事の忍耐 
 不快・苦痛もそれの忍耐もいたるところにある。毎日、どこかで忍耐している。起床とともに忍耐ははじまる。もう少し寝ていたいのを、我慢して起きる。朝食は食欲がなくていやでも我慢して食べる。尿意・便意はすぐ用足しできるとは限らず、しばしば我慢することが必要となる。些事・小事の忍耐は、日々、とりあげれば、きりがない。どうでもいいような忍耐に満ち満ちている。
 忍耐の多くは些事であり、してもしなくてもどうということのない小事である。だが、他方では、ここというところで忍耐するかしないかが人生に決定的というようなこともある。上司から暴言を吐かれて、我慢せず、これに暴行を加えたり、辞職するということになったら、人生に大きな影響が出るであろう。教師が、生徒の非行に対して寛容であるべきを我慢せず退学を命じるとしたら、その生徒の長い人生をゆがめることになる可能が大きい。じっと我慢することが、自他の人生のために決定的となる。「あの時ちょっと我慢していたなら・・」と、あとの長い人生において繰り返して悔やむことになる。
 小事・大事を問わず、忍耐する心がけをもっているか否かでは、長い人生において、おそらく、まるで異なったものを結果する。小事・些事の忍耐は、どうでもよいことであるが、忍耐するという姿勢自体はそういう些事において作られる。小事の忍耐のできないものが大事の忍耐のできるはずがない。人生に肝心要めのところで忍耐ができるには、日頃からの些事の忍耐でトレーニングしていることは、大きいであろう。


どこにも満ち溢れている苦痛と忍耐

2017年12月22日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5. どこにも満ち溢れている苦痛と忍耐
 忍耐(我慢・辛抱)に類する格言は多い。それだけ多方面に忍耐は必要になっているということであろう。あるべきひとの姿勢・心構えとしては、正義・節制・勇気などの徳目がある。だが、正義を自身の行為において意識する人は、日本ではあまりいない。節制は、肥満の人では日々必要となる心構えであるが、痩身のひとにはダイエットとしては用がない。出された食事を享受するのみのこどもなど、はじめから必要量しか美味のものは出されないので、節制する必要がない。が、不味いものは、いやでも食べる必要があり、「ニンジンを残さないで、我慢して食べなさい」と、忍耐は、親から求められる。勇気は、最近は、危険が予め排除された生活であれば(川があってもプールでしか泳がず、身近に自然があっても公園でしか遊ばず、危険のない空間に過ごしている)、これもあまり登場することがない。危険や勇気を意識しなくてもよい学校や職場であるが、勉強や仕事では、いやなことでも我慢し辛抱する必要があり、忍耐は不可避である。
 忍耐は、おそらく、毎日、だれもが何らかの形でしている。子どもも大人も男も女も老人も、周囲のことに我慢し、自分自身のことに辛抱することである。生きている限り、生を妨害したり傷害を与えるものに遭遇するが、ひとは、しばしばその不快・苦痛を回避せず受け入れて、苦痛の犠牲を手段にして、より高度の生の営みを実現していく。苦痛・不快に逆らわず甘受しようという忍耐は、人間的生には必須の日々の営みである。
 


我慢するよりは、楽に生きる方が賢明かも

2017年12月15日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-7. 我慢するよりは、楽に生きる方が賢明かも
 忍耐は、苦痛の甘受で、苦痛に無抵抗になり、なんでもないかのようにして耐える。周囲からは、忍耐は見えにくいことになる。平気ならと、周囲は、ますます我慢を強いるようなことにもなりかねない。
 苦痛を受け入れるのは、目的実現にそれ以外の手段がないとか、その苦痛を受け入れる方が大きな苦痛や犠牲を避けられるとか、稀有の価値が獲得できるとかの、犠牲に見合う価値があるときに限るべきであろう。忍耐には、「無駄骨」「骨折り損のくたびれもうけ」ということがしばしば結果する。愚かしい忍耐、有害な忍耐、犯罪のための邪悪な忍耐もある。自身の忍耐がどういう価値をもっているのか、よく考えてしないと、自身を犠牲にするだけではなく、周囲にも迷惑をかける。
 せっかくの苦痛、自身の損傷の犠牲を払っての辛抱である。限りのある生のことであり、大きな目的のためにとっておかないと、いざというところでは、もう消耗してしまって早々に忍耐を断念するようなことになりかねない。忍耐、苦痛の甘受は、どこまでも手段である。目的は、価値あるものの獲得である。楽に目的を実現できる道があるのなら、それを選択し、犠牲・苦痛甘受の忍耐は、その先のより大切な不可避のことのためにとっておくべきであろう。


忍耐は、苦痛に耐えて頼もしいが、賢明さを持つわけではない

2017年12月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-6-3. 忍耐は、苦痛に耐えて頼もしいが、賢明さを持つわけではない
 忍耐は、苦痛をあえて受け入れる超自然の人間的尊厳をもった営為だが、苦痛以外のことに目を向ける余裕のない場合が多い。忍耐の基本姿勢は、苦痛に無抵抗になってひたすらこれを受け入れるだけのもので、受動的消極的である。忍耐を引き受けるに至るには深慮遠謀がありうるとしても、忍耐自体は、能動的積極的に働くものではなく、あまり周囲のことを配慮するような姿勢にもない。我慢することに集中してくると、苦痛以外の事柄への配慮は手薄になりかねない。
 忍耐は、苦痛甘受では頼もしく自然を超越しているのだが、賢明さには欠けるところがある。悪事に関わる忍耐、無駄な愚かしい忍耐もあり、犠牲のみが顕著なものもある。苦痛にとらわれてしまい結果をしっかり見渡していないことがある。うちに生じた苦痛を耐えようと懸命になるのが忍耐であり、その懸命さをそとの方にむけて深慮遠謀のような賢明さにまわすものではない。
 忍耐力の大きい者は、忍耐に関しては巧みで苦痛を小分けして耐えやすくしたり、忍耐の前進の一歩一歩を目的への確かな高まりと捉えて、結果・目的も多様多彩に大きく描きこれを励みとしていく。だが、苦痛が耐えがたくなるほどに、苦痛自体に集中し、広い大きな展望は視野のそとに消えてしまう。そとのことは見えなくなり、臨機応変に対応するような余裕も失い、賢明さに欠けがちとなる。


忍耐させられる場合は、おおむね、価値あるものを産む

2017年12月01日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-6-2. 忍耐させられる場合は、おおむね、価値あるものを産む
 ひとに強制される忍耐がある。強制する者がそういう無理をさせるのは、成果が得られるからである。強制的な忍耐は、その強制者が(自身または忍耐する者に)利益がある、大きな価値を生み出せると見ているから無理強いするのである。見通しをもち、ことの手段・目的の展開の全体を見定めて、嫌がる者を強制してそうさせる。
 強制労働は、労働する者には無益でも、強制する方には大きな利益のもたらされるのが普通であろう。ニンジンを食べることをこどもに無理やりに我慢させるのは、いやがられ嫌われても親はそうするだけの価値があると思うからである。栄養の点で必要なことだから、これに我慢して慣れて平気になり、ニンジンを好んでたべるようにと成長を求めているのである。
 だが、自分だけですすめる忍耐は、そこまでの見通しがなくても、希望的観測のもとにすることがある。結果・成果は、まだ見えておらず、確かなのは、いまある苦痛であり犠牲だけである。犠牲だけは忍耐では確実にある。しばしば「骨折り損のくたびれ儲け」となる。忍耐を引き受けるには、苦痛甘受という犠牲について、それ相当の成果が当人において明らかでなくてはならないであろう。自分でする忍耐は、自分が見通さねばならない。その見通しがしっかりしていないと、無駄な忍耐、犠牲のみとなりかねない。