忍耐は、自分だけが知る心の中のことである

2018年10月26日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-1-3. 忍耐は、自分だけが知る心の中のことである 
 忍耐は、苦痛であることを隠して平気を装う。主観内の苦痛であり忍耐であるが、そのおかれた状況を見れば、それが苦痛になることか、忍耐のいることかは、見る者自身における体験をもとにして、見当のつくことではある。だが、ひとによって、苦痛の感受性のちがいがある。同一人でも、ときによって過敏になることもある。知覚過敏の病いになると、なんでもない音や光にも過激に反応して苦痛となることがある。苦痛も忍耐もそとからは見えないが、当人は、苦悩し耐え忍んでいる可能性がある。
 欲求も忍耐の対象になることが多いが、これは、各人が抱く内面的なもので、そとからの傷害・苦痛以上にわかりにくいことである。「蓼食う虫も好き好き」というから、人ごとに、好むもの・欲求するものは、異なる。忍耐している者は、さらにそれを隠して忍ぶから、ますます欲求も忍耐も分からなくなる。同程度の強さの欲求をいだいていたとしても、自制心発育不全のわがままな者には、わずかな欲求不満も耐え難いものとなる。普通の者には何でもないものも不満となるから、人並みに振舞おうとするなら不要の忍耐をすることになる。 
 怒りを見せないひとは、大様で穏やかなひとということになるが、怒りの感情自体をもちにくいひとの場合は、こころのうちから楽である。だが、怒りを抑圧して穏やかに見えているひとは、かならずしも内面においては穏やかではない。みかけは、穏やかで気楽にみえても、内には大いに怒りをいだき、これを無理やり抑えているだけということもある。当人は、怒りの忍耐で消耗している可能性がある。それでも、苦痛も忍耐も心の中の展開にとどまるから、穏やかなひとという評価となりうる。


忍耐では、苦痛に平然としていて、苦も忍耐も見えにくくなる

2018年10月19日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-1-2. 忍耐では、苦痛に平然としていて、苦も忍耐も見えにくくなる 
 忍耐する者は、苦を忍び耐える。忍耐しない者は、苦しければ、これを拒否する振る舞いにでる。苦を回避しようとするので、不快・苦痛であることがよく分かる。だが、忍耐する者は、苦痛を甘受し、あたかも苦痛ではないかのようにして、これに平然としている。もし、いやな顔をして拒否的に振る舞うと、「受け入れていない、忍耐していない」と言われることである。
 食べ物で、まずい不快なものを忍耐しない者は、これを避けて、食べない。だが、忍耐する者は、不快を耐えて忍び、穏やかに、あたかも不快・苦痛がないかのように、これを甘受し、食べる。そとから見ると、不快はなく、忍耐もしていないかのようである。怒りを忍耐するものは、怒りの感情をうちに閉じ込めて、これを外には出さないようにと我慢する。そういう場合、怒りの対象になっているひとですら、その怒りの存在に気づかない。もし怒りを知られたら、怒りの忍耐に失敗していることになる。忍耐は、うちに不快・苦痛を忍びつづける。
 忍耐するとは、不快や辛苦を甘受することであろうが、甘受、逆らわず甘んじて受け入れるとは、ためらい、しぶる気持ちを抑えて、苦痛拒否のそぶりを見せず受け入れることである。忍耐しない者は、自然の苦痛反応にしたがい、苦痛を回避(逃走・排撃)する。忍耐するかぎりでは、逃走も排撃も抑止し続けるから、あたかも、苦痛なく受け入れているかのように見える。外からは、その苦痛も忍耐も気づかれないままとなる。


同じことでも、耐えがたく思う者も、楽しいと思う者もいる 

2018年10月12日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2. 忍耐は、何を対象とし、どう働くのか-辛苦の甘受-
2-1. 忍耐の範囲は、決めにくい
2-1-1. 同じことでも、耐えがたく思う者も、楽しいと思う者もいる 
 同じ虫の音を、心地よく感じる民族があるし、不快な騒音と捉える人たちもいる。現代音楽は、これに慣れた者には心地よい音楽であるが、そうでない者には、不快な騒音である。心地よく思う者は、それらの音にやすらぎ、あるいは躍動感をいだくことになろうが、不快と感じている者には、それを聞くことが強制されるとなると、苦痛で、これには我慢・忍耐が必要となる。
 同一の掃除の仕事でも、これを有意義と捉えてボランティアで率先してやるのなら楽しいことだが、無意味な奉仕活動と思っている者だと、ボランティアと肩を並べてごみ拾いをしていても、腹立たしく耐え難いものになる。同じ汗を流す仕事であっても、そのひとがどうこれを価値づけているかで、苦痛になることもあれば、楽しみとなることもある。楽しみなのであれば、少々のことならば不快となることはなく我慢・辛抱などの言葉も出てくることはない。だが、苦痛と感じるのであれば、それを続けることは、辛抱がいることであり、忍耐すべきものとなる。
 忍耐は、不快・辛苦にするが、同じ客観的な事柄に発するものであっても、個人によってそれが不快とも快ともなるのであれば、忍耐になるものかどうかは、当人に聞いてみなくては分からないこととなる。よかれと思ってしたことでも、当人に快でなく不快をもたらしているのだとしたら、これをすすめるほどに、大きな忍耐を強いるのである。各人で快不快の感じ方は相当に異なるから、その忍耐も個人によって異なってくる。それが苦になり忍耐になるかどうかは、当人しだいということになりそうである。
 


忍耐は、人生の決定的な場面に出てくるものもある

2018年10月05日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-6. 忍耐は、人生の決定的な場面に出てくるものもある
 忍耐に出会わない日はない。朝起きるときから、眠いのを我慢して起きるのだし、尿意を抑え忍びつつ、顔を洗う。テレビが朝から姦しいのを我慢しながら、天気予報のあるのを待っている。こういう些事の忍耐が、してもしなくてもどうということのない忍耐が日々の忍耐である。忍耐などどうでもいいではないかと言いたくなる。だが、なかには、人生に決定的となるものもある。怒りを忍耐できなかったために、失職したり、ひとを死に追いやるようなこともある。玉石混交の忍耐である。些事の石ころの忍耐は適当に片づけておけばよいが、人生の玉となる決定的な忍耐については、これは命を懸けても成功させる気構えを堅持するのでなくてはならないであろう。かつ、忍耐力は、経験を通して高まるものであるから、些事の忍耐も馬鹿にせず、肝心の時のためにトレーニングしておくことも必要となる。
 忍耐は、徳目にあがる節制や勇気以上に、多くのひとの人生にとって、ときに決定的なものとなることがある。いくら大馳走を前に節制できても、そのひとの人生は、それだけでは何も変わらないであろう。だが、忍耐は、善悪を問わず、直面する辛苦から逃げることがなければ、そのひとのなすことをストレートに大きなものにする。なにごとについても、やけにならず、我慢強く生きることがいる。ここというところで忍耐すれば、未来が開けてくる。忍耐できたかどうかで、人生はまるで違ったものになってくる。勇気は、これがあれば、危険に際して有利な生き方ができるが、幾重にも安全を配慮した現代社会では、ごくごく特殊な場面に限定される。だが、忍耐は、日常的にでてくるもので、これに優れておれば、人生の多方面において有利に立ち向かえることとなろう。どんぐりの背比べの戦いであれば、先に諦めたものが敗退し、忍耐に優れた方が勝利者になる。ナポレオンの格言に忍耐を語る言葉がある。それは、「勝利は、忍耐する方に、ありLa victoire appartient à persévérer.」というものである。おそらく、これは、多くの人の納得する人生の真実であろう。