勇気は、恐怖反応を制御

2012年02月27日 | 勇気について

3-4-2.勇気は、恐怖反応を制御し、これに対抗する意志をもって忍耐する。
 恐怖は、危険に対する防護感情であるが、人間的生にとっては、原始的で妨害的なものになりがちで、これを制御する必要が生じる。勇気は、人間社会にふさわしくない原始的で身体的な恐怖反応を抑止し忍耐して、落ち着いた理性的対応にと心がける。恐怖反応に対抗的な対応を意志することが勇気の忍耐となる。その恐怖反応には、逃走などの衝動があり、逆に腰を抜かして動けなくなることとか、緊張・萎縮、あるいは震えたり蒼白になることがある。これらを勇気は、必要に応じて、直接的間接的に制御していく。
 まず恐怖の反応として目立つのが、逃走や悲鳴への衝動である。動いたり声を立てたら敵に見付かって殺されるというような場では、勇気ある意志は、この衝動をしっかりと抑止して忍耐する。衝動の抑制は、欲求や衝動が時間のうちで展開するので、その間・途中に抑止の意志を介在させつづけることでなされる。一見、衝動は、思いをただちに行動に移して衝動とその行為・結末の間に割ってはいるすきはないかのようである。しかし、衝動は、不随意の胃や心臓の運動とはちがい、随意のものである。ただ、短絡的に無反省に強い欲求に駆り立てられているのみである。怒りも性衝動も、それらを出すと殺害されるのだったら、100%これを抑えることができる。甘えて短絡的になっているだけである。恐怖の逃走や悲鳴への衝動は、強く、不意に出てくるが、これも、抑えるつもりになれば、おそらくできる。この衝動抑制の忍耐は、はじめは突如で意識の制御が間に合わないこともあろうが、これを抑ええたら、あとは、予め注意できるから、そんなに強い忍耐力がなくても持続可能となる。
 衝動を抑えるのと逆に、腰を抜かして動けなくなっているのを動かす努力をするのが勇気の対応となるときもある。勇気は、直接には自由がきかなくなっている筋肉を動かすかわりに、動く自由の残っている筋肉を使ってこれを恐怖反応に対抗させていく。その忍耐は、行動の達成まで、自由のきく筋肉に命令しつづけ、気力を振り絞り、力みつづけることに精力をつかうことになる。
 恐怖では萎縮・緊張するが、これも、反対の弛緩の意識をもっての対応で軽くできる。長く続く恐怖や不安では、できるだけリラックスして、小さな不快にして忍耐しやすいようにすることが求められる。震えや蒼白になる恐怖の反応は、不随意で意志が直接制御できるものではないが、抑制する必要があれば、間接的にでもできるようにこれを工夫しなくてはならない。蒼白で問題になることはあまりないが、震えは、支障をきたすことがある。細かな手作業では震える手を抑制することが求められる。震える手に力をいれたり、あるいは逆に弛緩することで、若干は、震えを小さくできよう。もう一方の手で押さえることでもよいであろうか。工夫して間接的にでも抑制を続けねばならない。


忍耐は、苦あってのもの

2012年02月23日 | 勇気について

3-4-1-1.忍耐は、苦あってのもの-苦でなくなれば、忍耐でなくなる。
 呼吸を止めて、息をするのを我慢・忍耐する。だが、はじめの間は忍耐とはならない。それが忍耐になるのは、苦しくなりだしてからである。苦があっての忍耐である。ニンジンを食べるのを我慢して食べることがあるが、それは、これが苦痛のひとのみの忍耐である。ニンジンが嫌いでないひとは、これを食べるのに微塵も忍耐することはない。
 苦の甘受としての忍耐は、それが十全な忍耐と認められるには、嫌だといわず排除的にならず平然とこれを受け入れることである。我慢して食べる忍耐のひとは、大嫌いなニンジンでも、(好きかのような素振りをすることはないとしても、)嫌だと拒否するような顔はしないで、平然と平らげるひとである。恐怖を忍耐するとき、「こわい、こわい」と叫んでいたら、忍耐してないと見なされよう。内心では、震え上がっていても、表面的には、平然として、恐怖をうちに忍んで甘受するのが勇気ある忍耐のひとである。表向きは、いやでも苦でもないかのように平然と甘受するのであり、かつ、内心では、どこまでも苦・不快で噛み殺したいと思っているのが忍耐の一般的なあり方となる。もし、内心までが嫌でなく平気になったのなら、もう忍耐など不用である。忍耐しているかぎり、表では平然としていても、内心では、これがどこまでも嫌で苦痛なのである。いわば、「面従腹背」状態である。自分の嫌だ・苦だという本心を変えることなく維持しつつ、表向きでは、これをなんでもないこととして受け入れるのが忍耐であろう。
 ひとは適応能力に富む存在で、嫌なことにも慣れて平気になる事が多い。歯痛の場合は慣れても何時までもつらいが、ニンジンなどの食べ物の好き嫌いの場合は、慣れると平気になり、さらには、食べず嫌いだったのなら、嫌いの反対の好き・快にまで変化しうる。平気になると忍耐は無用となる。好きになると、甘受の忍耐ではなく、享受となり、楽しみとなる。恐怖でも、慣れることが結構ある。これが平気になったら、もう忍耐不要であり、勇気も出番を失う。ジェットコースターは、はじめは不快な恐怖だが、多くのひとは、すぐに慣れてくる。そして、それが快感になってくると、忍耐ではなく享受したいものとなる。勉強とかスポーツなどもそうである。嫌なものなら、忍耐の対象であり、義務の対象となる。同じものが、好きなら、楽しい享受であり、権利となる。
 なお、忍耐は、快・欲求充足の方は、これを阻止し受け入れないようにするが、これは、苦あっての忍耐とちがい、欲求不充足が不満・不快にならない小さな段階でも、忍耐の対象となる。「ケーキを食べるのを我慢する」のは、その不充足の不快が、なお、なくても、忍耐になる。恐怖の忍耐でも、その衝動・欲求(逃走衝動など)の抑制は、それが不快でなくても、そのはじめから、忍耐となる。


勇気は、恐怖の不快を忍び、いまと未来に忍耐する。

2012年02月20日 | 勇気について

3-4-1.勇気は、恐怖の不快を忍び、いまと未来に忍耐する。
 忍耐は、現にいま存在する苦・不快に耐え、まだ存在しない快(欲しいもの)の不充足に耐える。勇気の耐えるその恐怖は、不快・苦であり、それが現に存在しているのを、我慢し甘受する。ただし、歯痛とちがい、その恐怖は、いま苦だとしても、その本格的な苦としての禍いは、未来にあり、その未来についての現在の危険に脅え苦悩しているのである。その苦は現在あるとしても、苦の根拠は未来にある。つまり、今は存在しない、あるいは、未来にも存在することがないかも知れない禍いを想像し危険を察知して、これに恐怖という辛い感情をいだいているのである。歯痛の苦のように、どう思おうと変わらない感覚的現在の苦痛なのではない。今ある恐怖の苦だとしても、未来に関わっての今の苦であり、その未来を想像することをやめれば、今の苦自体も霧散しうる苦になる。恐怖の苦への忍耐は、歯痛の忍耐とちがった対応がとられうることになる。
 歯痛などとちがい、恐怖を含む精神的生の営みは、悲しみや絶望でもそうだが、この瞬間の現在にあるのではない。ながくは、未来と過去をつつんだ一生を自己とし、そのいまは、時間的には一生全体すらもが、いまとなりうる。今生である。20年前死んだひとも、いまだにそれが自分にとり喪失なら、いまも悲しくなる。死など、はるかな先にあるものにでもひとは今恐怖できる。未来も過去も解釈されて、なる。この解釈を変えれば、恐怖もしずまるかも知れない。歯痛は思いを変えても痛みはほとんど変わらない。だが、恐怖や悲嘆・絶望は、過去や未来を中心にした感情であり、想起・想像しだいで、かなり感じ方が変わることになる。より忍耐しやすい工夫をする余地が大いにある。恐怖や不安の不快が耐え難ければ、その恐怖のよってたつ未来の禍いについて楽天的に解釈を変えたり、想像をほかに向ければ、その不快な感情を和らげることができる。
 忍耐は、恐怖のそれもそうだが、いまの苦・不快に耐える。だが、その忍耐は、いまの瞬間ではなく、その持続において実現される。瞬間のみでの忍耐は、ない。痛みを耐える場合、一瞬の痛みだと、どんなに強烈でも忍耐は無用である。耐えようと思ったときには、もう痛みは存在しなくなっている。歯痛も、(冷たいものを口にしたときなどの)瞬間の痛みなら忍耐するまでもなく終わってしまう。忍耐するのは、痛みがいつまでも持続することに対して、持続して我慢するのである。
 ただし、恐怖の場合、その禍いの展開が瞬時で、痛みを感じる間もほとんどないようなものでも(例えば、抜歯)、その瞬時の痛みを予め予想して、それの想像をする今の時点においては、不安・恐怖を持続的に抱くことになる。今の持続する恐怖には、持続に耐える忍耐が必要となる。未来の瞬時の忍耐無用の禍いに対するいまの不安・恐怖の構えについては、いま持続してそれから逃げず耐え続けるということで忍耐の対象となる。


勇気において、忍耐とはなにか。

2012年02月16日 | 勇気について

3-4.勇気において、忍耐とはなにか。
 勇気では忍耐が求められる。自然感性(恐怖など)を制御する理性意志の働きとしての勇気では、感性は抑圧され我慢が強いられる。理性も、自分に抵抗する強力な自然感性を制御していくのだから、辛抱がいる。勇気の意思は、恐怖に忍耐するのみではない。果敢な攻撃意欲も、逸らないように抑制すべき場合がある。攻撃が途中でしんどくなっても中断してはならない場合もある。だが、勇気で一般にいわれる忍耐は、これらではなく、恐怖に対する忍耐になる。攻撃するより、攻撃されてその危険に恐怖する方が、よほど辛い。殴り攻撃することは、むずかしいことではないが、恐怖に忍耐することは、よほど心を奮い立たせなくてはできないことである。
 そもそも、忍耐とは、どういう状態をいうのであろうか。一般的にいうと、受け入れたいものを受け入れず、受け入れたくないものを受け入れて、その状態を甘受し忍びつづけることであろう。食べたいケーキを食べずに我慢し、歯が痛いのを堪(こら)えて騒ぎ立てず辛抱するのである。欲求や快については、これを抑制して許さず、逆に、不快・苦は、これを甘受して、屈することなく、静かにこれを忍び耐え続け、その状態を貫く。
 忍耐では、快・欲求も、苦・不快も、それ自体は、そのままに、いわば温存している。忍耐すべき快や欲求自体(例えば性欲や食欲)を消滅させたら、もう忍耐することはなくなる。忍耐は、忍耐する対象の不快・苦(例えば歯痛とか暑さ)の撲滅へと力を注ぐのではない。苦を撲滅するのだとしたら、我慢してないのである。歯痛を我慢する者は、その痛みをそのままにしておく。我慢できなくなったら、歯を抜いて歯痛を消滅させる。忍耐のエネルギーは、歯痛撲滅ではなく、痛み撲滅への衝動や欲求を抑圧するために使うのである。
 しかし、勇気の忍耐では、恐怖における欲求・衝動(逃走とか悲鳴)も、その不快・苦(ショックや困憊)もこれら自体を温存するよりは、小さいものにと押さえ込みつつ忍耐するのが普通である。勇気で肝要なことは、危険と恐怖に平然と対応できることである。そのために恐怖に我慢するのであり、我慢大会ではないのだから、より小さな恐怖にしてしっかりと耐える方が得策である。恐怖から逃げなければいいのであって、より辛い恐怖を感じることが目的ではないのだから、反応や不快を小さなものにして確実に忍耐できるようにする。
 欲求を抑え苦を甘受するのが忍耐の基本だとすると、恐怖の忍耐のうち、その震えや蒼白への対応は、若干特殊な忍耐になろう。震えや蒼白になることは、逃走衝動のように直接抑圧できるものではない。かといって苦としてこれを甘受するものでもない。それらを目立たなくすることが求められるが、その制御は、間接的にしかできない。力を全身にいれてみたり弛緩してみたりして、震えを小さくはできる。これらの行為は、自由のきかない身体を意志のもとでなんとかしようと苦心し続けるものとして、震え自体は苦という訳ではないが、一応、苦に耐える忍耐ということになろうか。


攻撃意志が、恐怖への忍耐を助けることもある。

2012年02月13日 | 勇気について

3-3-8.攻撃意志が、恐怖への忍耐を助けることもある。
 危険なものは、とくにひとや動物の場合、こちらの出方次第で、その危険度を変えることが多い。危険な相手からの攻撃を放置したりこれに怯んでいたら、相手は図にのってますます攻撃的になってくる。すると、こちらは、一層ひるみ臆してしまい、より大きな恐怖への忍耐を必要としてくる。悪循環に陥る。暴力団に屈すると、市民は、ますます脅される羽目に陥り窮地に追い込まれてしまう。日本の政府は、ことを荒立てないようにと近隣の諸国家へ屈する傾向にあるが、それは、かれらの要求・攻撃のエスカレートを誘うことになっている。
 この悪循環を断ち切るには、うかつに相手が攻撃できないように、毅然とした態度をとることである。相手の攻撃にひるむのではなく、これを撥ねつけ拒否することであり、積極的にはこちらからも攻撃的に出て行くことである。「攻撃したら反撃される」と分かれば、相手は、安易に攻撃することはできなくなる。反撃すると、相手は、その部分では防御の態勢をとらねばならない。その防御態勢が手薄なら、攻撃どころではなくなる可能性も出てくる。防御に手を取られることになると、その分、攻撃力は削減される。つまり、こちらが反撃に出れば、相手は、攻撃力を削がれてしまい、こちらの防御態勢は、小さくて済むようになる。危険は小さくなり、恐怖も小さくなって、勇気の忍耐も小さくて済む。恐怖の忍耐をよりよく持続させるには、単に受身に留まることなく、攻撃的に出るのが得策だということになる。反撃で相手がひるみ攻撃力を弱めるなら、一層こちらは小さな危険と恐怖に耐えればよくなり、一層、強く出て相手を弱くしていける。好循環となる。
 さらに、相手を攻撃する態勢をとると、自身の恐怖を直接小さくすることともなる。攻撃に気が持って行かれるから、恐怖に気がかりとなる度合いが小さくなる。攻撃に注意が集中するほどに、恐怖に気をとめておくことはできなくなり、恐怖を忘れてしまう。攻撃の姿勢は、恐怖に縮みこむのとは反対の構えをとる。大胆な攻撃の構えをつくり、胸を張り腕を振り上げるといった振る舞いをすると、身体は反恐怖の体勢となり、恐怖を打ち消してしまう。攻撃的に熱して来ると、冷たく震える状態は吹き飛び、恐怖の出てくる幕はなくなってしまう。
 「攻撃は、最大の防御」という。攻撃では危険なものを叩く。危険をつぶせば、防御が不要にすらなる。相手を自身の防御に向けるから、その攻撃力を削ぐことともなる。単に防御に徹するだけでは、攻撃をやめさせることはむずかしい。殴っても殴り返されないのであれば、殴る方は、鬱憤晴らしにでも攻撃してくることとなる。攻撃したら反撃されると知らしめることで、つまり、反撃を想像させてこれに恐怖させることで、攻撃意欲を削ぐことが可能となる。そうすると、こちらの危険は小さくなり、恐怖も小さく忍耐することで済むようになる。