ガッつかず、大きく深い快楽をじっくり味わいたい

2013年07月26日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-3-2. ガッつかず、大きく深い快楽をじっくり味わいたい。
 おいしいもの=栄養あるものは、動物なら、ガツガツとたくさん口につめこんで噛むのももどかしく急いで胃に送る。これは生存競争のきびしい自然においては妥当なあり方になる。ひとも、しばしば、おいしければおいしいほど動物的になって、ガッついて早々に胃に送ってしまい、空になった皿をなめながら後悔する。自然にさからって快楽をじっくりと堪能しようというのであれば、理性は、はやる自然的食行動を抑制して、のど越しの快楽を長く味わえるように工夫することが必要である(自然感性におもねる理性の一部も「快楽を早く!」と逸ることで、この理性の部分を抑えることが肝要となる場合もありそうである)。
  快楽は、のど越しにあるのだから、一口分を少なめにし、よく噛みしめながら、少しずつゆっくりのどに送り、その味わい・快楽内容をしっかり意識できるようにするべきなのである。食べ物の色とか形をめで、香りに酔い、絶妙な歯ごたえ舌触りをふまえ、舌とのどでその味覚をたっぷりと堪能して、楽しむことである。そのおいしさに、異国のひとの汗と遥かな大地のエキスがわが血肉となるのをしみじみと感じることがあってもいい。あるいは、料理する人のみごとな腕前に感心し、隠し味を推察しその高められた味わいをみんなと会話しながら賞味するなら、おなじような甘さであってもそこに味わいの微妙な違いも発見しえて、食の快楽は深みを増すことである。
  自然的動物的にガツガツ食べていたのでは、そういう深い快楽は得られない。大きく深い快楽を味わうには、自然を超越している理性が、その味わいの繊細さをふまえながら、動物的な(かつ、感性におもねる理性自身の)粗野な食行動をしっかりと抑制・制御していることが必要なのであろう。

 


ガツガツするのは誰か

2013年07月19日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-3-1. ガツガツするのは誰か。
 せっかくの美味のものを舌で味わうこともないぐらいに急いで呑み込んでしまい、もったいないことをしたと後悔することがある。ガッついて丸呑みしてしまって、のど越しのあの美味しさの快楽を小さくしてしまい、残念がることである。
 何が焦らせるのであろうか。おそらくは、ひとのうちの動物的自然が本来的にそうさせるのである。野生の世界では、よい食べ物に出会える機会は多くはなく、見つけた物は早々に食べなくては他の動物に奪われてしまう。犬や猫のように一日中ひまで余裕の動物ですらもガッつく。おいしいものは、良好な栄養物のしるしなのだから、躊躇することなく速やかに飲み込み、つぎの食べ物に直ちに注意を向けられるようにするのが、自然であろう。腐っているもの、苦いものの場合は、臭いをかいだりして迷い、口にしてもガッつくことはない。
 おいしいものにガツガツする自然を抑制して、快楽をじっくり堪能したいというのが、ひとの快楽主義的な望みである。食べ方を制御して、ゆっくりと長々と反自然的に快楽にひたっていようと、コップなら一気に呑めるものを、一寸法師のお茶碗にもみたない猪口でチビリチビリと飲んで快楽陶酔を引き伸ばすのである。
 性的欲求でも動物はガッつく。異性獲得のための戦いでは延々と時間をかけるが、交尾はというと、ごく短時間で終える。そうでないと、オスは競争相手に襲われて授精が困難となる。短時間に射精できる個体が淘汰で生き残る。ひとは、これを、動物的にはナンセンスなのに、快楽のためにと、引き伸ばそうとする。


快楽は、欲求の不快があるから可能となる

2013年07月12日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-3. 快楽は、欲求の不快があるから可能となる。
 快楽は、欲求の充足にいだく。その欲求があるかないか分からないぐらい小さければ、それが充たされたとしても、その快は、小さかったり、生じることもないままとなろう。逆に欲求不充足の不快が大きければ、快と不快の大きな落差のもと、その充足の快は大きいものとなる。食の場合、空腹であれば、どんなものでも美味しく食べることができる。性的快楽も同様であろう。性欲が消えていたのでは、快楽になりようがない。性欲自体は快ではなく不快であろうが、これがあるから、充たして快となる。不快の欲求不充足があってのち、これを充足して快となるのである。
 快系列のより人間的な、喜びとか幸福も、似た事情にある。価値あるものの獲得には喜びを生じるが、無所有のところから、大きな獲得がなったと思えば、大きな喜びの快となる。金持ちは、少々の金銭には喜ばないが、貧乏しておれば、これを喜ぶことができる。
 節制は、快楽が生の促進に資するかぎり(快楽享受で害が出ないかぎり)、快即善とする。節制は、自然感性にまかせて満腹するよりは、腹八分にとどめ、欲求の不快を残す。おいしいものを食べ過ぎて快への感受性を低くするようなことはしない。また、快楽主義のように快にのめり込んでその奴隷になるようなこともない。節制は、快楽を、そまつにも偏愛もすることなく、ひとの生の基礎欲求を導く力として大切にあつかう


食と性における快楽主義と自然主義の異同

2013年07月05日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-2-2. 食と性における快楽主義と自然主義の異同
 食と性の営みでは、自然主義と快楽主義は一致することが多い。だが、大きな苦痛・不快のともなうことが問題になる場合は、不一致となる。自然主義は、苦痛の出産を受け入れるだろうが、快楽主義を徹底する者は、これを回避することになろう。自然主義のひとは、自然の産物であれば、まずくても気にせず食べるであろうが、快楽主義者は、食べない。
 おいしさ(快楽)の内容については、肉類とか甘いものなど、求める食べ物は概ね一致したものになろう。だが、自然主義なら自然の甘さを求め、糖度もほどほどの虫食いの自然の果物を好むであろうが、快楽主義は、糖度を無理やりあげた温室の果物を選択することになる。自然主義は、自然をできるだけ尊重しようと、苦いもの・酸っぱいもの・堅いものでも食べ物であれば食べるが、快楽主義は、不快なものは避けて、もっぱらに快楽(おいしいもの)を享受する方向に向かう。現代の食事は、やわらかくておいしいものばかりであり、快楽主義者でなくても、その内容は、多くが快楽主義的である。おいしいものは過食をさそうから、節制は、自然主義者よりは快楽主義者に多く必要となる。
 快楽主義は、快楽が得られるのなら、不自然など気にすることはない。性的快楽をもたらす自慰は、自然主義のひとでは、自然のなかにいて現代社会の性的挑発がなければ、おそらく、あまり、これには用がないことであろう。だが、快楽主義は、人間関係の煩わしさのない自慰には淫する可能性が高い。