3-8-6-1. 美の世界全般で不快は快の要素となる
芸術の分野では、どんなものでも、美的な快を享受して楽しむが、不快なものを要素に含むことが多い。音楽が音の美を楽しむとき、不協和で不快の音を混ぜることで独特の美を作り出すように、他の分野においても、それぞれの美という快には、美でない不快な醜というようなものをその構成要素にしたり、薬味として使用して美的快を一層豊かなものにする。
美は乱調にありというが、諧調、快調では、単調になり、すぐに飽いてくる。そこに、本来はそれだけでは不快な反調和のもの、乱調が加わることで、より豊かな美的世界が広がる。絵画は、写真のない時代には、それこそ写真のような、対象世界をそのままに映しこれに一致したものが、ゆがみなどの稚拙さのないものが快として感じられたことであろう。だが、近代になると、写実の調和から離れたゆがんだものとか相当にデフォルメされたものがより優れた美と見なされるようになった。写実主義のものであっても、より美しく快となるのは、写真とはちがい、見るべきところをしっかりと描きながらも、周辺は、かなりぼかして美的に手を抜いたものがより優れて美的快をもたらす。フェルメールは、現代とはちがい、まだ、肖像写真の代わりに肖像画を求めていた時代の人だが、その「レースを編む女」は、現代的美を思わせるように、中心の糸は繊細に写実的に明快にしつつ、周辺の糸はあいまいにぼかして(いってみれば不快にして)すぐれた美的調和を作り出している。
ひとによって絵画への快不快の感受性は顕著に異なるのか、商売上手な者の絵がもてはやされるのか分からないが、ピカソなど、より優れた美を追う中で、幼稚園児の絵のような不快で稚拙なものを描いている。彼の「ゲルニカ」は戦争の悲惨さを表現したのだというが、歪んで滑稽さを感じさせる不快な表現で、ゲルニカで殺された人々を茶化しているように、私には見える。しかし、おそらく、そういう不快を多く含むなかで、優れて現代的な美的快を彼らは見出しているのであろう。
日本の陶器の中には、ピカソや、奇怪な建物を作った同郷のガウディたちも脱帽するような、相当にデフォルメされた奇怪なものがある。茶道具の陶器では、茶碗も建水も花器も、一般の焼き物でいえば、途中で火によって歪んだり不快に変色した失敗作とでもいうようなものに、その反調和の不快を含むものに、すぐれた美を見出す。歪で不快を感じてもよいはずのものであるが、日本人には卓越した美がそこに感じられるのである。
日本の庭園は、茶器と似た歪みなどの不快を相当に含んだ美になっている。ゴミ一つない庭よりは、紅葉などの落ちている方を一層の美(快)とする。西洋の庭園を見ると、定規で整えたような四角や三角といった単純な調和をもったものを並べていて、樹木ですら杓子定規に円錐形などに剪定している。それを我々日本人は、単調すぎて退屈なものと感じる。その点、歪みにゆがめた松の盆栽などからはじめて大きな庭園でも単純な幾何学的な形になることは嫌う。頻繁に歩く道では石畳はヨーロッパと同じく整然と並べるが、美的なものに重きをおいた場合は、歩くと躓きそうで緊張し不快になるような並べ方をし、不快を含んでメリハリをつけ総体として卓越した美的な石の並びとする。乱調(不快)を含んだものに美を見出して楽しむのである。
芸術の分野では、どんなものでも、美的な快を享受して楽しむが、不快なものを要素に含むことが多い。音楽が音の美を楽しむとき、不協和で不快の音を混ぜることで独特の美を作り出すように、他の分野においても、それぞれの美という快には、美でない不快な醜というようなものをその構成要素にしたり、薬味として使用して美的快を一層豊かなものにする。
美は乱調にありというが、諧調、快調では、単調になり、すぐに飽いてくる。そこに、本来はそれだけでは不快な反調和のもの、乱調が加わることで、より豊かな美的世界が広がる。絵画は、写真のない時代には、それこそ写真のような、対象世界をそのままに映しこれに一致したものが、ゆがみなどの稚拙さのないものが快として感じられたことであろう。だが、近代になると、写実の調和から離れたゆがんだものとか相当にデフォルメされたものがより優れた美と見なされるようになった。写実主義のものであっても、より美しく快となるのは、写真とはちがい、見るべきところをしっかりと描きながらも、周辺は、かなりぼかして美的に手を抜いたものがより優れて美的快をもたらす。フェルメールは、現代とはちがい、まだ、肖像写真の代わりに肖像画を求めていた時代の人だが、その「レースを編む女」は、現代的美を思わせるように、中心の糸は繊細に写実的に明快にしつつ、周辺の糸はあいまいにぼかして(いってみれば不快にして)すぐれた美的調和を作り出している。
ひとによって絵画への快不快の感受性は顕著に異なるのか、商売上手な者の絵がもてはやされるのか分からないが、ピカソなど、より優れた美を追う中で、幼稚園児の絵のような不快で稚拙なものを描いている。彼の「ゲルニカ」は戦争の悲惨さを表現したのだというが、歪んで滑稽さを感じさせる不快な表現で、ゲルニカで殺された人々を茶化しているように、私には見える。しかし、おそらく、そういう不快を多く含むなかで、優れて現代的な美的快を彼らは見出しているのであろう。
日本の陶器の中には、ピカソや、奇怪な建物を作った同郷のガウディたちも脱帽するような、相当にデフォルメされた奇怪なものがある。茶道具の陶器では、茶碗も建水も花器も、一般の焼き物でいえば、途中で火によって歪んだり不快に変色した失敗作とでもいうようなものに、その反調和の不快を含むものに、すぐれた美を見出す。歪で不快を感じてもよいはずのものであるが、日本人には卓越した美がそこに感じられるのである。
日本の庭園は、茶器と似た歪みなどの不快を相当に含んだ美になっている。ゴミ一つない庭よりは、紅葉などの落ちている方を一層の美(快)とする。西洋の庭園を見ると、定規で整えたような四角や三角といった単純な調和をもったものを並べていて、樹木ですら杓子定規に円錐形などに剪定している。それを我々日本人は、単調すぎて退屈なものと感じる。その点、歪みにゆがめた松の盆栽などからはじめて大きな庭園でも単純な幾何学的な形になることは嫌う。頻繁に歩く道では石畳はヨーロッパと同じく整然と並べるが、美的なものに重きをおいた場合は、歩くと躓きそうで緊張し不快になるような並べ方をし、不快を含んでメリハリをつけ総体として卓越した美的な石の並びとする。乱調(不快)を含んだものに美を見出して楽しむのである。