快楽を目的にして生を維持・推進する食・性の動物的欲求

2012年12月29日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

2-2. 快楽を目的にして生を維持・推進するのは、食・性の動物的欲求に限られる。
 食の節制では、おいしいものを制限・節制するだけでよい。おいしくない食べ物は、食べ過ぎない。(食や性の)快楽への欲求を制限するのが節制である。 
 性欲は、快楽が大目的であり、日本語で快楽主義というと、この性的快楽にのめりこむ状態を想起しがちである。ヨーロッパで快楽主義者(epicure)というとまず第一には食道楽である。性の快楽は刹那的だが、食の快楽なら、アメ玉をなめて終日この快楽にひたっておれる。なお、食の「おいしさ」の核心は、舌の味覚(甘い・からいの感覚)にあるのではなく、のど越しの触覚を通じた快楽にある。飲み込まねば快楽が得られないから、食道楽は肥満しがちとなる。
 生の保護・推進は、快となるものを是とし、不快となる事態を避けることで可能となっている。しかし、快の感情自体を欲し求めて動くのは、食や性の動物的な生の営みに特徴的なことである。快不快の感情は、動物的なものから高次の精神生活までを貫いているけれども、高次層の感情になると、遊びやギャンブル以外では、快は目的ではなくなる。快系列の喜びや希望・幸福といった感情は、快を求めるのではない。喜びは快ではあるが、快は付随するだけである。食ではおいしければ(快楽なら)栄養はゼロでもかまわないが、喜ばせるだけの「ぬか喜び」に感謝するひとはいない。喜びとか幸福の場合は、価値物・恵みの獲得が目的で、それには快はともなわなくてもよい。
 節制は、ひとの生の土台を担う動物的な基本欲求を、食欲と性欲、その推進力としての快楽を、この土台のうえにそびえる高度の精神的社会的な生活にふさわしいものにと制御しようというのである。


節制の定義

2012年12月22日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

2.節制とは
2-1. 節制の定義
 節制の節も制も制限することである。何をそうするのか。人間の動物的根本欲求、食と性の欲求の抑制である。個体の生は食欲をもって維持され、類の生は性欲をもって維持される。この二つの根本欲求がなくなれば、その生は滅びる。生維持をもたらすこの二つの欲求の充足には、大きな快楽のほうびが与えられる。この食と性の欲求と快楽への人間的に節度ある対応につとめるのが節制である。
 時代によって節制の内容自体は異なってくる。食糧難の時代の節制は、現代のような肥満に注意する節制ではなく、ゲテモノ食いはいけないとか、おいしい物ばかりを大食することはいけないといったものになる。性の節制も、時代と民族により相当に異なったものとなる。禁欲的宗教のもとでは、しばしば性の快楽自体が否定され、夫婦でも生殖目的以外の性交は控えるようにとか、不倫・同性愛はもとより自慰すらも止めるようにと説かれた。
 なお、現代の節制は、あそびやギャンブルも対象にしている。いずれも、快楽にのめりこんで生を乱すものである。食と性の節制では快楽の制限が中心になり、その快楽制御という点で、快楽(快感)のとりこになるギャンブルなども節制の領分とするのであろう。
 現代の節制は、古代・中世の食欲と性欲の制御から少し範囲をひろげて次のようにこれを定義しておけるのではないか。
 節制とは、「食欲・性欲、或いは嗜好のものごと・遊び等、快楽を目的とする欲求への耽溺で、生の健全さが損なわれるような時に、その欲求を理性でもって適正なものにと抑制して行くこと」である。


悪人が正義のひとになれば、その悪行は停止する。

2012年12月15日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

1-4. 悪人が正義のひとになれば、その悪行は停止する。
 ヤクザが、自分の脅迫した老人の自殺の報を耳にして、哀願していた孤老の顔を想起しながら、自分の邪悪な生き方につくづく嫌気がさしたとしよう。もうこれ以上悪いことはやめようと、自身の悪行をくいて正義に生きる決心をしたとすると、かれは、善人にと生まれかわるのである。正義を守り不正をしないという決心をつらぬくことは、悪人としての自身の否定となる。
 暴力団であっても、正義の味方になって町のゴロツキ退治に積極的になるなら、たぐいまれな義人団体となる。さらには、自身に正義を実行・貫徹するとしたら、無法者の組織を解散して、みんなに歓迎されることであろう。正義は、悪人が実行しても善となる。
 ただし、なにが正義と見なされるかという点では、節制や勇気とちがって、問題となることが多い。海賊は、国家から承認されておれば、堂々の水軍・海軍である。政治的な確信犯は、崇高な正義の旗手と自身を確信しているが、国家や批判的市民からいうとやっかいな犯罪者にすぎない。正義をになう国家は、その確信犯からいうと不正・邪悪の牙城である。
 戦争は、自国の正義と敵国の邪悪の間の戦いである。その各々の国からいうと、正義と正義の戦いである。裏返していうと、不正義と不正義の戦いである。先の世界大戦でもそうだったが、力があり勝った方が正義となり、負けた方は不正義・悪として裁かれるのが常である。太平洋戦争の最大の戦争犯罪は原爆投下であろうが、勝った米国は「過ちは繰返しませぬから」と反省するどころか終戦をはやめた正義だといい、日本人の少なくない者もこの強弁を受け入れている。攻撃的な軍事大国の米国・中国は、自分たちの主張・暴力を正義として通用させる力をもつ。正義は、弱者をだまらせ、強者の横暴を正当化する巨悪になることがある。


悪人の勇気は、悪行を支え促進する。

2012年12月08日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

1-3. 悪人の勇気は、悪行を支え促進する。
 ヤクザが節制して健康になったからといって、直ちに市民への悪行が大きくなるわけではない。だが、かれらが勇気をもつと、まちがいなく市民は大きな禍いをこうむることになる。ヤクザも、警察や裁判所は怖い。こわいから、大きな危険はさけて、警察に捕まらない程度にと、恐喝もおさえ気味にしている。そのとき、やけっぱちなヤクザの男が「死刑なんか平気だ」と勇敢であったら、かれは、脅しも過激になり実際に殺人事件も起すことになりかねない。勇気が殺人をそそのかすのである。勇気は、ヤクザの悪行を大きなものにしてしまう。
 ヤクザの勇気のみではない。一般市民のもとでも、勇気は、ときに悪を助長する。道ばたで100万円の札束を見つけたとしよう。ねこばばしようかと一瞬魔のさすことがあったとして、これを実行しないで交番にとどけようというのは、良心がうずくこととともに、ばれたときがこわいからである。そこで勇気をだせば、ねこばばしてしまうことになる。臆病ならそういう邪心は自身でおさえつけることになろう。あるいは、不正はいけないと正義感を発動させれば、ねこばばは自制される。だが、勇気は、日ごろ善良な一市民のこころにひそむ悪をそそのかすことになる。
 節制は、とくに食のそれなど、自分の身を健やかにするだけで、社会に直接影響するものではない。しかし、勇気は、周囲の危険なものごとへの大胆な対応として、悪人のそれは、社会に対して直接的に、より大きな害悪をもたらすことになる。

 


ヒトラーが反節制の人だったら、戦争犠牲者はもっと少なくて済んでいたかも。

2012年12月01日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

1-2. ヒトラーが反節制の人だったら、戦争犠牲者はもっと少なくて済んでいたかも。
 節制(temperance)運動というと、最近は、肥満対策が主であるが、かつては禁酒運動であり、いまも禁煙運動は盛んである。禁煙をけむたがるひとのなかには、禁煙運動の元祖としてヒトラーをあげることがある。ナチスは、妊婦の禁煙をすすめるなど国民の健康政策での先駆的な運動を展開した。ヒトラー自身は、どこまで節制のひとだったのかは知らないが、「禁酒」「禁煙」「菜食主義」のひとで、チャーチルのような肥満体でもないし、その点では健康的であった。これが、新生ロシアのエリチン大統領のように酒びたりで肥満体でと、反節制の不健康な人間であったら、ヨーロッパのひとたちの戦争被害はもっと小さくてすんだかも知れない。
 善人が節制するなら、より健康になって、その善行はいっそうすすむ。節制は、善を促進する。不摂生・反節制をつづけたのでは、健康をくずして病気になり、善行は、とどこおりがちになって、悪しき結果をもたらすであろう。だが、悪人が節制して元気になると、いっそう周囲への悪行に精を出すこととなる。悪人に節制をすすめることは、悪行をそそのかすことになりかねない。
 暴力団員になるような者は、不摂生で、刹那の快楽にながれがちで麻薬中毒などで身を滅ぼすようなことが少なくない。それは、かれら自身の生にはマイナスだが、周囲の市民には、かれらが麻薬中毒で廃人になったり病気になってくれれば、悪行の被害が少なくてすむことになる。極論するなら、悪人の節制は、一層の悪を周囲にもたらし、その反節制の結果は、朗報をもたらすといえなくもない。