人を奮い立たせる根性だが、どこかに否定的イメージがまといつく

2018年04月27日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-6. 人を奮い立たせる根性だが、どこかに否定的イメージがまといつく
 島国根性はいうが、大陸根性は言わない。町人根性はいうが、武士根性は言わない。あるいは、利他(隣人愛)に徹した人などを根性で形容することもないのが普通である。どうしてであろうか。武士根性をいわないのは、武士という強者・支配階級は、被支配者に辛苦を与える側で、辛苦に耐える側ではないからかと思われる。つまり、根性は、恵まれず劣等の階級であったり、逆境などの受難・受苦のもとにある者が、よりよく忍耐できるようにと発揮する心構えになるのであろう。強者になったら、力み無理をする根性は無用になる(もちろん、武士であっても、苦難を背負い込む境遇に落とし込まれた場合には、苦痛によりよく対処できる根性が育つことであろう)。
 利他の愛の働きにはかならず自己犠牲があるのに、根性があまり似あわないのは、その意志は犠牲に耐えることより、ひとに価値を贈与する方向にむいているからではないか。根性をいうような場面は、受け身で我うちに生じた苦痛が中心にあり、受難状態にある。贈与愛の、与える者は、受苦受難にないか、これを気にしない者である。寛大・鷹揚な者は、受苦を受苦としないで、それを些事とし無頓着でおれる者であろう。根性は、そうなれないで、受け身になり自己の防衛に必死で、エゴ・個我へ執着せざるを得ない未熟者がもつのである(砂漠の植樹ボランティアを根性と評価するとすると、それは、おそらく、慣れないことへの受苦を想像するとともに、どこかで、これを強引・若いなどと解釈しているからでもあろう)。守るべき自己を気にしないで無我になる者、与える者、利他の愛のもとでは、自身の損傷は気にせず、したがって苦とせず、苦でなければ、忍耐も根性も無用となる。
 さらに、「根性」に「性根(しょうね)」というようなものを重ねると、根性には、やはり泥の中に根をはった植物のイメージが強くもなる。動物とちがい、植物は、風雪に耐え酷暑に耐えて、逃げることができず耐え続けるというイメージである。そういう泥の中に根をはった、おどろおどろしさが、牧畜民のガッツ(根性=腸(ガット))とちがい、ひたすら苦痛に耐える農耕民族の日本の根性のイメージにまといついている感じもする。貧乏人根性とか奴隷根性という場合、逞しさではなく、もっぱら否定的にその自虐性・卑賤さに焦点をあて、これを批判するものであろう。
 根性が、どこかにひとの心構えとして暗いものを感じさせるのは、それを、根性批判の勢力が強く拒否していることもかかわるのではないか。高校球児に代表されるような猛特訓では「根性」をたたき込むが、科学的に指導をと思うものは、「もっとのびのびと楽しくやれないものか。「根性論」には、へどがでる」と、野蛮な虐待・自虐の根性論を、有害として否定し唾棄する。むやみやたらとムチをつかい痛めつけるだけの不毛な特訓に陥らないようにと、根性論が細心の合理的な配慮をすべきことは確かである。


忍耐では、根気も大切である

2018年04月20日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-5. 忍耐では、根気も大切である
 辛いことが続くと疲労が溜まり忍耐を断念したくなる。同じことを反復していると面白かったこともそうでなくなり、飽いてくる。そうなると、忍耐する意志が虚弱な場合、これを中断して逃げてしまう。根性があれば、これに歯を食いしばって耐えるが、長い先を見つめての忍耐は、根性だけでは息が続かない。その長期にわたる忍耐は、根気といわれるものが加勢してくれる。放棄したくなる辛苦の甘受を、諦めることなく飽きることなく持続させていく精神的な活力としての根気である。短期の激痛に耐える我慢には根性だが、長期の辛苦を耐え続ける辛抱には、根気である。
 忍耐は、その犠牲=手段の先の目的のためにすることだが、長期だと、その目的は見失われがちとなり、目的が描けねば忍耐を引っ張っていく牽引力も失われていく。目的を鮮明に描き、中間目標なども詳細に描ける聡明さがあれば、長く根気強く辛抱ができることになろう。途中の諸手段もその展開の過程を細かに描ければ、一段一段目的に向かっての達成度を自覚できて、諦めることなく前に忍耐を進めていきやすくなる。さらには、その忍耐のもたらす周囲への影響・責任を自覚すれば、そう簡単には忍耐を放棄することはできなくもなる。根気ある展開が可能となるには、そういう目的・手段とか責任・義務・使命などについての聡明で鋭敏な感受性をもつ必要があろう。単細胞では見通せない知恵・深慮遠謀が、長期の遙かな目的のための忍耐を支えることである。
 複雑難解で手間・暇のかかる仕事のみでなく、単純な作業の、永遠に続くかもと思えるような反復も、辛抱強さ、根気がなくては続かない。根気は、聡明というより、無知で鈍感であるがゆえになることもある。なにも考えず習慣化しておれば、いつまでもこれを続けうることになる。我慢していると思えばいらいらもし疲労もすぐに溜まるが、そういう意識なく無に徹した状態なら、いつまでも平常心で忍耐も持続できよう。緩急をいれ休息もはさんで疲労からの回復も組み込めることになれば、忍耐は、家事・労働のように永続可能にすらなる。忍耐の反復経験は、疲労蓄積を小さくするよう工夫し、あるいは、心身のホルモンも忍耐持続に対応するように分泌を調整することであろう。やる気を支えるドーパミンなどのホルモンを忍耐の仕様にあわせて出したり、老廃物を敏速に取り除く内臓とか、疲労しにくい筋肉が多くなったりすれば、息の長く根気強い忍耐力が心身において養われることである。
 


アメは根性を駄目にし、ムチは根性を強化する

2018年04月13日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-4. アメは根性を駄目にし、ムチは根性を強化する 
 ひとを鍛えるとき「アメとムチ」をいう。アメで誘い、ムチで追い立てて鍛練する。だが、アメは、鍛練の場へと誘う常套手段ではあるが、それ自体が能力を引き出すことはない。快楽は、ひとを成長させない。快は、そこに充足・安住するもので、目をつむりまどろみ、ひとの能力も眠りこませる。能力の発揮は無用となり、それが続けば、これを退化さえさせる。落語に出てくるアメばかりをなめて育った「若旦那」は、自制心発育不全の遊び人で、家をつぶす二代目である。
 反対のムチは、訓練へと駆り立てるのはもちろん、能力も開発する。そのムチのもとで苦痛を甘受し忍耐するが、苦痛は乗り越えたいから、もてる能力を動員して解決へとむかう。困難があれば、既存の能力では間に合わなくなり、眠っていた能力を目覚めさせ新規の高い大きな能力を開発し活性化させていくことになる。もちろん、耐えるための根性もできあがっていく。若旦那の腐りきった根性も世間の荒波に抛り棄てておけば、野垂れ死にすることがなければ立派な根性のあるものにとたたき直される。
 快を求める動物的生を超えて、苦難を乗り越え多様な価値に生きる精神的社会的生をもってこそ人間であり、そこに日々の労働をはじめとする人間的営為がある。その精神生活は、快苦の自然を超越した生として、辛苦への忍耐を必須とするが、そのなかで、特にその根性を強くささえ大きく養うような営為としては、使命とか信念・信仰などがあげられよう。使命は、自身に課せられた崇高な課題である。挑戦のしがいのあることで、託された難題を自発的に引きうけ、自身をムチうち強制し駆り立てていく。艱難辛苦に耐える誇らしい根性が養われる。信念や信仰は、自身は至高の価値があり真実と確信し、かつ周囲は、それを真と認めず、無視・白眼視するものになる。したがって、押し寄せてくる困難・受難に耐え得なくては信念や信仰は維持できない。その方面での(少々、ひねていびつになりがちの)頑なな根性が養成されることである。


忍耐する根性を養う感性もある

2018年04月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-3. 忍耐する根性を養う感性もある 
 根性は経験的に身につけていくが、自身の心のうちには、それを周辺から支えるものがある。根性を支えこれを鼓舞する感情等が心の中に存在する。
 敗北すれば、悲しみが生じるが、その苦痛に、泣きながら逃げたり茫然自失となるのでは、忍耐にならない。忍耐し根性を養うような悲しみは、まずは「くやしさ」であろうか。悔しさは、単なる悲しみではなく同時にそこに怒りをもつ。攻撃的闘争的精神がそこにはある。自身の弱さを嘆くと同時に、強くなって次はかならず勝つといった積極的姿勢をもつ。苦難を乗り越えて勝利してやるという闘争精神を、悲しみの涙のもとにもっているのが「くやしさ」であろう。そういう姿勢があれば、苦痛に耐えこれを乗り越えて未来に勝利をという覇気をもち、辛くなると先の敗北を思い出し歯を食いしばって耐えていくことになっていく。おのずと忍耐強い根性ができていくことである。
 似たものに、「憎悪」がある。ここでは、仕打ちをうけて弱者ゆえに仕返しできず、その悔しさ・怒り(攻撃衝動)を心の奥底に押しとどめて耐え続ける。はるかな未来に復讐を誓い、その暗い意志・冷酷な情念の炎を燃やし続ける。その情念貫徹の強さは、すさまじいものがあり、個人の一生を貫くのみか、次の代にまで貫徹されることもある。ただし、これは、復讐という破壊的なものにとどまり、建設的ではないのが普通である。そこに苦難に耐える根性はつくだろうが、それこそ地下の暗いじめじめした陰険な根の性にとどまりそうである。それでも、ときには、公明正大に、世の中の腐敗を「憎悪する」、不正を「憎む」というようなこともなくはない。
 逆に、愛も忍耐の根性をささえ養うものとなりうる。利他の愛は、自身の犠牲をもってなりたつ。その犠牲への忍耐が愛を実現する。辛苦に耐えるほどに、その利他の愛は実ってくる。砂漠での植樹のボランティア(隣人愛)など、厳しい気候に挑戦する青年にしっかりした「根性」を植え付けてくれることであろう。母性愛は、女性を逞しく忍耐力にとむ者へと変えていく。ただし、そのたくましさを根性ということはあまりない。捨身の利他に徹する聖人なども、根性があると形容することは少なかろう。根性には、どこかに泥臭く未熟な我慢(「我」まま・ごう「慢」で強情)のイメージがあるのであろう。