痛み消去の方法

2022年01月25日 | 苦痛の価値論
2-3-6. 痛み消去の方法 
 痛みは、損傷に抱くものであるから、その損傷を解消できれば、当然、痛みは消失する。これが一番自然で真っ当な痛みの解消法であるが、損傷は消去できないとしても、その痛みでの萎縮とか緊張といった構えを消せるなら、痛みを小さくしたり消去することができる。痛みの反対極はないが、痛みの諸様相を打ち消して、痛みの萎縮とか緊張をなくするようにと、弛緩・伸張をもたらす動きができれば、痛みの感情は相殺される。弛緩・伸張等をもたらすものは、不快の反対の快であり、快を痛みに対置できれば、痛みは小さくできることになる。激痛のある末期癌に麻薬を使うことがある。快楽を麻薬で与えることで、激痛を緩和する。
 精神的な痛みでも、感情は身体的に反応することが大きいから、身体的に反苦痛つまり、弛緩し伸張するような反応をとれば痛み・不快反応は軽減される。精神的苦悩であっても、精神的な快でなく身体的に快楽をもたらすものでもっても、これを小さくできる。美味しいものを食べたり、湯船でゆったりすれば、こころも和んでくる。逆もありうる。身体的な痛みを精神的な快としての喜びとか楽しさ、慰めの言葉が和らげてくれる。
 痛みの感情は、痛み感覚、痛覚刺激が脳に伝達されてなるのだから、途中の神経伝達を生理的であれ物理的であれブロックできれば、当然、痛みは生じない。脳の機能の一部を麻痺させることもある。飲酒は、高度の知的機能の部分を麻痺させるようで、精神的苦痛をいだくに必要な知の働きを麻痺させて憂さを忘れさせてくれる。麻薬等の薬物は、快楽を湧出する脳内麻薬様物質と同じことをして快で苦痛を軽減するのみでなく、脳の機能自体を麻痺させ眠らせることもある。眠り、意識がなくなれば、痛みを意識することもなくなる。
 麻痺させる場合は、一時的な痛みの無化であるが、永続的に痛みを無くした方がよければ、単純には痛みをもたらす機能・部位を除去すれば可能となろう。通常は、それでは、損傷などの危機に対応できなくなるから、痛覚をなくすることは一時にとどめる必要があるが、ときには痛覚自体の除去でよいこともある。歯では、神経を抜くことがある。歯は残して使用可能な状態にして、歯の内部の歯髄という部位を、痛覚を含めて血管などもすべて取り除く。それで猛烈な痛みであるその場所での歯痛は除去されることとなる。それを、苦悩の止まない脳の内部に施したのがロボトミーであるが、これは、苦悩する必要のあるときもできなくするのだから、無気力になる等の後遺症を種々残した。現代は、そういうことはしないようであるが、正確に脳内での問題部位をつかんで、これをレーザーで焼いて働かないようにして、(悩ましさのみをもたらす震えのような誤作動を止めて)健やかさを取り戻すことが可能になっているとか聞く。

痛みからの解放時、楽を感じる

2022年01月18日 | 苦痛の価値論
2-3-5-1. 痛みからの解放時、楽を感じる
 「まだ、痛いですか」と聞かれて痛みがない場合は、「今日は、痛みが無くて、楽です」という。痛みの反対、痛みが無い状態を、「楽」と言い表す。だが、これは、楽(快)が、痛んでいた箇所に生じていることをさすのではなかろう。痛みがなく気がかりがなくなったというだけである。苦痛から解放されたときには、それまでの痛みの抑鬱感や嫌悪感から解放されて重荷がとれて、ほっとする。その解放感を、「楽になった」と表現するのであろう。歯が痛み続けて、抜歯で若干痛みが残る程度のとき、この「楽」を一番感じる。それは、そこに快の感情が生じているとしても、それは、解放されたという安堵感、安らぎの感情である。痛みから逃れたいという欲求が生じていてそれに苦しんでいたのが、これが抜歯で一挙になくなり欲求充足がなってその充足感の快として楽を感じるのであろう。それは、痛みに対立した楽ではなく、苦に対立しての楽と見なすべきであろう。時に歯痛を生じるその歯や歯茎に、虫歯のない健やかさを、「楽」・快楽と感じとることは不可能である。苦痛の重圧から解放された時にのみ感じうる解放感である。歯茎の痛みに、楽という感情が歯茎において対立的な極として存在するものではなかろう。痛み=損傷があるのに対して、それがない無事の歯茎や皮膚は、無感覚・無感情にとどまる。
 痛みがあるとき、これを和らげるために、快をもってくることがあるが、これからすると、やはり、痛みの反対極に快があるのかと思いたくなる。だが、これは、痛みの感情の萎縮とか緊張を小さくするために、その反対の動きとなる伸張とか弛緩をもってくるということである。快がそのために有効ということである。痛みの反対極があってこれをもってくるというのではなく、なんでもいい、痛み感情の緊張・萎縮を打ち消すために快一般をもってくるだけである。痛みに対して、緊張・萎縮を解く弛緩・伸張の快なら、それは、食のおいしさの快でも、性的なものでも、精神的な愉快さでも、なんでもいいのである。痛みに固有の対立極があるというわけではない。 
 しかし、ものごとはこれを見る視座によって異なって捉えられることで、痛みも、その対立極をもつように捉えることも可能ではあろう。唯一絶対と見られるものも、見方によっては相対に捉えられる。客観的実在的には、有るのは唯一、光のみで、闇はないにも関わらず、主観的に感覚では、光(白色)は、闇(黒色)と二元的に見られる。電極などもプラスとマイナスがあるとも言えるし、あるのは一つの電流のみとも言える。痛みも、あるのは感性的には痛みだけだが、その無を健やかさとか安らかさと見なして生の営為の総体的見地から見直せば二元的に捉えることもできる。しかも、その生の有るべき本来の姿は、痛みではなく、健やかさや安寧の方である。その健やかな生が損なわれた逸脱状態が病み痛むことであり損傷であって、痛みは、本来的生(存在)にともなう、それの無、逸脱した悪・暗黒と捉えられることの方が普通であろう。


痛みの反対極は、単なる無

2022年01月11日 | 苦痛の価値論
2-3-5. 痛みの反対極は、単なる無 
 痛みは、感覚としては、痛覚をもってなるが、痛みの反対の感覚としての快覚・楽覚は、存在しない。つまり、痛みは、温覚に対する冷覚というような対立感覚はもたない。痛覚は、その部位の損傷を感覚するものであり、その損傷がなければ単なる無感覚にとどまる。かりに、痛覚に対立する快覚のようなものがあるとすると、いたるところから快の感覚が生じてしまうことで、快に意識は圧倒されてほかのことは手につかなくなろう。損傷に痛みがあるだけというのが理に合っている。
 痛みの反対、痛まないことは、単に痛みがないだけで、損傷がないという健やかさにあって、その部位に注目すべきものは何もない。身体が傷ついたときのみ、注目してこれに対処すればよいことで、その傷ついた部分以外は、放置しておいて健やかに機能しているのであり、無視してよい。身体の傷む部位以外のすべてが無事の状態であり、なにも意識するものはなく無感覚・無感情である。痛みは、対立する極をそれとしてはもっていない。快不快の不快のみからなる感情だということである。
 痛覚とちがい、温覚と冷覚は、暑すぎず寒すぎずを感じとるために、対立する温度感覚となっている。それぞれは、過度に高温低温になると、過激な温度を感じるのではなく皮膚を傷めるようなことになって、非常時の態勢をとれと緊急信号を出す痛みとなる。この損傷通知の痛みの反対は、損傷がない状態だが、その至るところの無損傷状態は、そのすべてにおいて意識をかきたてるものはなく無感覚無感情に留まる。火傷で指が痛むとき、それ以外のところは、手足のみか体全体が、痛まない健やかさにあって、意識を駆り立てる必要はなく無感覚で、単なる痛みの無にとどまる。痛みは、緊急信号であり、道路を消防車が大音量の警告音を発しつつ通るようなもので、他の全車両は平常運転で沈黙している。この平常運転の無数の車は、穏やかに走っているが、その穏やかさを表して大音声の軽快な音楽を流すことなどせず沈黙を保ち無にとどまっている(暴走族が爆音を誇示したり、街宣車が大音量で軍歌を流すといった例外はある)。痛みとそれに対立的な無数の無事の無の状態は、こういう状態であり、痛みは、温覚と冷覚のような対立的なものにはならないで、単独に存在する感覚・感情になるといってよい。
 味覚・嗅覚では、受容と拒否のために、快不快の感情をもつ。美味しいと不味い、悪臭と良い匂いを感じとる。そこでも痛みの言われることがある。口が唐辛子でひりひりと痛いとか、わさびが鼻にツンときて痛いと。この痛みは、もちろん不快だが、その反対の快は、ない。緊急信号の痛みはあるが、安穏状態の方は、無である。この痛みのない無の状態が仮に快として有るのだとしたら、鼻も口も食べるのを忘れて尽きせぬ快楽に浸っていることだろうが、そんな快は存在しない。緊急信号に緊急の対応を迫る痛みはあるが、穏やかなら何も対応すべきことはなく、無に留まる。

「痛い」という言葉について

2022年01月04日 | 苦痛の価値論
2-3-4. 「痛い」という言葉について
 痛みは、和語では、物が損なわれたときにもいう。「この壁は、いたんでいる」とか「この肉は、いたんでいる」と。肉の新鮮さが損なわれて少し腐敗している状態に、壁が少し壊れているときに、そういう。いたむとは、少し損なわれることである(大きく損なわれた場合は、いたむことを超えて、取り返しのつかない腐敗・破壊となる)。痛むとは、ものの正常さとか健やかさが損なわれて傷んでいることの感覚・感情になるのであろう。食べ物を「いためる」ともいう。腐敗させるときもいうが、通常は、そうではなく、フライパンで熱を加えて食べやすいように加工する行為にいう。生(なま)の状態からいうと、これを損ない、表面を主にいためつけるのである。その食物からいうと、外傷が加えられることに似た状態であろう。いたみは、そとから害が加えられて傷んだ状態であり、その内的感情・感覚としての痛みである。いたんだ壁は、まだ修復が可能な状態にいうように、痛む傷は、つらいけれども、なお回復可能と読み取れるものでもあろうか。
 漢字の「痛」は、病垂れをもってなる。つまり、傷つき「病」んでいる状態において、「涌く」(甬は、つらぬくという意味になるのだとか)ものということであろう。痛みがうちから涌き出してくる、あるいは、体を貫くということである。生体の損傷・病いで、うちから涌き上がってくる痛み、損傷個所から絶えることなく涌き出してくる痛みということであろうか。激痛など、全身を貫(甬)き侵襲するといった感じになる。
 和語の「いたむ」は、損傷発生を語るもので、痛みより、傷みに重きをおいたものであろう。これに対して漢字の「痛む」は、感覚・感情としてのうちから湧いてくる痛み、あるいは損傷個所から涌き出し貫いて出てくるものである。損なわれての傷み(和語)をもって、これに痛み(漢字)を感じるわけである。
 あるいは、和語としての「いたい」は、「いと」云々ということを思わせれば、はなはだしい、過激、非常ということでもあろうか。損傷するような激しく甚だしい、痛覚を興奮させる非常事態である。異(い)である。異常ということである。これは、また、「いと(厭)う」「い(忌)む」といった嫌悪の「い」でもあろうか。異常と嫌悪の損傷を、いとう痛みである。
 フランス語で代表的な痛みの表現は、douleurで、ラテン語dolor(苦痛・悲嘆)由来だが、遡ると、引き裂くとか 切るという意味合いをもっていたようである。傷める、損なうという発想と同じであろう。ドイツ語ではSchmerzがよく使われる。これは、smartという語源によるようで、鋭い・猛烈ということで、痛みの鋭さ激しさを語ろうというのであろうか。和語のいたみの「いと」「異(い)」という甚だしさ・異常さに類似するかも知れない。英語のpainは、ラテン語のpoena、ギリシャ語でのpoineeにさかのぼる。その意味は、罰とか報いということで、この痛みは、むち打ちの刑のように、そとから損傷が加えられることに発した受苦、受傷に由来する表現である。漢字の痛みが内(あるいは損傷個所)から涌き上がってくるものという痛みであるのとちがい、painは、和語の「いためる」と同様に、外から傷めつけることに注目したものとなるのであろう。