未来の快を目指し、現在の苦に急き立てられて前進する

2023年11月28日 | 苦痛の価値論
3-6-7. 未来の快を目指し、現在の苦に急き立てられて前進する 
 苦は、人を鍛えるが、快は、人をまどろませ能力発揮の機会もうばうと言われる。だが、快がそうなるのは、これにのめりこみ現をぬかすことになるからで、快も持ち方しだいでは、大いに有用となる。
 快・不快(苦)は生の原動力で、動物はもちろん人も多くこれに導かれて生を営んでいる。快は、ことが首尾よく進んでいることを感じるもので、快であるようにともっていくことは、その生に好ましい状態になることである。だが、ときに快は、ひとに害悪となることがある。快が有害になるのは、その与え方、利用の仕方においてである。快は、ことがうまくいったときの褒美であり果実・報酬である。これが常時与えられ、ことを始める前に与えられたのでは、前には進まなくなる。もう報酬が得られているのであり、これを楽しみ、これにのめりこむばかりとなる。動物を調教するときは、快の餌を与えるが、それは、苦難の芸を上手にできたその褒美としてである。褒美の快につられて、難しい芸に挑戦するのである。芸をする前に快を与えたのでは、もう芸をする必要がないといっているに等しい。ひとの場合も似たものであろう。未来に快を描き、これを目指して、苦難の現在を前進させていく。未来の快、その人間世界での代表は、希望という快であろうが、希望は、いま、果実が与えられるのではない。今あるのは苦難・苦労である。だが、その苦痛を受け止めて進めるなら、一定の苦難の手段を実行したならば、未来の希望がかなえられ、快が帰結するというのである。希望は、ひとを駆り立てる力であり、いまは、それは実現されていないから、未来へと前進して、これを達成しようと努める。未来の憧れの快は、希望となって、ひとを導く。引き立てていく。未来へと先導する。未来の快は、ひとを覚醒する。その希望・快の褒美は、さきに出してはならない。快はいま与えるとこれにのめりこみ先には進まなくなる。未来に快は与えるべきである。三代目が家をつぶすのは、その現在に快が与えられるからである。逆に、苦痛は、未来に与えたのでは、これも停滞する。先には苦痛だけが待っていると思えば、現在に停滞して未来の苦痛を避けようとするだろう。  
 快は、ひとの営為を推進させるものとしては、これを未来にとっておく必要があるが、現在与えられて効果のある場合もある。苦痛が耐えがたく、その過激な苦痛に絶望して前進を諦念するようなときに、これを慰め苦痛を和らげ生気をとりもどすのに快は有用となる。苦痛は萎縮・緊張をもたらすが、快は、弛緩し伸張する反応であるから、苦痛と相殺することができる。あるいは、未来の希望も、それは、いまは快ではないが、未来の大きな快がひきつけ、想像で感情は生じうるから、その未来の快は今に感じられもし、それはひとを苦によりよく耐えさせる。戦争などの絶望状態のなかで、生き残ったのは、希望を失わない者だったと聞く。その現在の苦難を諦念せず未来を信じているものは、より大きな苦難に耐えうる。未来の希望という快が現在をも照らして、その光のもとに、絶望的な現在にあきらめることなく、耐えることが可能になる。

苦痛・苦労で、眠っている能力が覚醒する 

2023年11月21日 | 苦痛の価値論
3-6-6. 苦痛・苦労で、眠っている能力が覚醒する 
 「三代目は家をつぶす」と言われてきた。初代は、苦労して産をなす。それを見ていた二代目はこれを見習うこともあって家は守られる。だが、三代目は、生まれたときから、安楽な状態で育つので、揉まれることがなくて、甘い生き方に終始して、家を滅ぼすということである。過保護はよくないと知っているから、なるべく風雨にさらして鍛えるつもりでも、いざ危険・困難に対決という場面になると、つい手助けをしてしまう。結局あまい育て方をしてしまう。
 快適な状態にあると、それに埋没し、まどろみ、ふやけた存在になってしまう。快では、その状態で満足なのであれば、それ以上に努力などする必要がなく、すぐれた能力があってもこれを使うことがなくなる。使う機会がなければ、その能力を錆びつかせて駄目にしてしまう。身体の強化には、鍛えるべきところに負荷をかけていく。筋肉は使わないと弱体化してしまい、逆に、使って痛めつけるなら、その必要に応じて、強くなっていく。同じように、精神的世界でも、苦労し苦痛が与えられることで、鍛えられていく。ひとの適応能力は高く、困難に出会えば、それに見合うだけの力が発揮されていく。もちろん、過剰な苦痛・負荷は、身体を傷めて台無しにすることもある。絶望・不安に押しつぶされるようなことになる場合もある。しかし、身体とちがい、精神世界では、かなり融通がきき、どんな逆境であっても、思いよう次第ということがかなりあって(悲惨・絶望も、比較対象を変え、心機一転、生きる場を変えれば、多くの場合、消去できる)、これを耐える工夫さえできれば、もてる能力を発揮し、必要に応じて新規の能力も獲得していける。盲目の人が、聴覚を頼りにする以外なくて、風の音とか反響音をもって、周囲の状況をまるでレーダーでするように把握する能力を獲得することがあるという。精神的世界では、苦痛・苦労は、感じるものの姿勢如何で、かなり軽減もできることで、大方の苦労は耐えることができ、苦労するほどに、最後まであきらめないならば、大成できる度合いが大きくなる。
 快の状態では、それに充足しまどろむことになるから、自身の有している創造的な能力など気づくこともない。それが発揮されるのは、困難な状況になってこれを乗り越えていくべき状態になってである。そこにおいて、自身の強さも弱さも明白になる。自身の固有性にも目覚めることになる。必要に応じて、その弱さを克服することもあろうし、その持前の力をより大きくしていくことも可能となる。苦痛・困難さがその能力発揮へと自身を導いていくことになる。苦労には、慣れる。したがって、ある程度慣れてきたら、一層の苦労・苦痛を背負えるように強くもなる。快は、ひとをなまくらにするが、苦痛・苦労は、ひとを鍛え、より強くしていく。
 困難・苦労は、ひとを目覚めさせ強くしていくが、これは個人にとどまらず、社会全体・集団においても似たことが言える。苦難に出会って、目覚めて、文明は進展する。時代が人を造るとよくいう。幕末の内憂外患は、日本人を目覚めさせ近代化をもたらした。 

苦痛は、意識(注目)することを強いる

2023年11月14日 | 苦痛の価値論
3-6-5-1. 苦痛は、意識(注目)することを強いる
 意識は、無意識から覚醒した状態をいうだけでなく、覚醒状態の中でさらに一点にと焦点を合わせ、注視・注目することを指す場合がある。この一点への注目・注視の意識にも苦痛はしっかりとかかわる。けがをして苦痛が生じるとき、苦痛は無視を許さず注視することを強制する。歯が痛めば、虫歯にと意識が集中し注目が強制される。
 覚醒状態であっても、習慣化したものは、自動化して、無自覚、無意識的な状態になる。だが、そこに異変が生じたとき、その自動化し習慣化したものをチェックすることが必要となる。注視・注目して、その習慣化したものを見直してチェックすることになる。その習慣化したものの一々のステップに注目して、これを意識化しスポットライトを当てながら見直していく。心身の全体を担い指令・統率している私が前面に出て、そのスポットライトを当てたところをチェックし、必要な記憶情報を呼び出して、あるべき対応を指示していく。その注視を主観的に自覚しつつ展開するのが、一点に集中した意識ということになろう。
 苦痛は、この一点への集中した意識についても、これを鼓舞する、というか、それを強制する。苦痛は、無視できない。苦痛は、意識をそれへと集中して注目するようにと強いる。一点にスポットライトを当てて意識を集中することは、ひとの自律的な自由の営為である意志の活動に典型的であるが、苦痛による意識集中の場合は、自由の営為ではなく、意識が注視へと一点集中へと強制されるのである。無視しようと思っても、これを無視することができず、注視が強制される。意志をもっての能動的な意識集中に対しては、この苦痛によって強制される意識は、受動的意識集中とでも言えようか。
 苦痛によって意識集中が強いられる場合、その苦痛の原因の損傷へと注目も進む。ひとつには、苦痛関連の情報をそこに集めていくことがあり、あるべき対応の指示もそこに集められ統合統率される。その苦痛にともなう感情もその意識集中のもとに生起してくる。苦痛があれば、心配になり、場合によっては死を想像し、不安、恐怖、怒り等の感情が自ずと生起してくる。そのことで苦痛への全面的な対応が可能となる。
 この意識(注意集中)においては、しばしば意識はその一点から一層限定した一点へと集中していくが、それに応じて、ほかのことは、一層、視野の外へと無視され、不注意となる。視野が極度に狭くなる。痛みに意識が集中させられた状態では、ほかのことはうわの空となる。この一点集中による他の事態の無視、意識からの排除は、意識集中においては、常に生じる。それは、いやな苦痛を離れるためにも使われうる。不安という苦痛の状態に囚われて意識がそれに占領されている時、これから逃れるには、(一点への)その意識集中をあえて別のものに向ければよい。月に、花に気を向けるようにし、それへと意識が集中すれば、そのスポットライトを当てたものに意識・気は奪われる。花なら雄蕊や花弁の様子にと一層注意を深め、これにさらに意識は集中して、不安の意識は、うわの空になって、不安を離れうる。

意識を覚醒させる苦痛

2023年11月07日 | 苦痛の価値論
3-6-5. 意識を覚醒させる苦痛    
 眠った無意識状態から刺激を与えられて意識は回復し目覚めるが、その手段となる刺激は、快ではなく、不快、苦痛の方がスムースであろう。快では、心地よく微睡み、眠ることになる。逆に苦痛は、覚醒させる。痛みは、ひとを快の夢うつつから目覚めさせる代表的な手段となる。起きろと、布団をはぎ取って寒風を感じさせたり、体をたたいて起床を促す。禅で眠くなったとき警策で殴打することがある。苦痛が、研ぎ澄まされた意識を覚醒させる。
 この覚醒状態になる意識は、広義の意識である。何かに注意集中するときにいう意識ではない。この世に連れ戻し、眠り等の無意識から意識へと回復するときの意識である。それは、知情意等の心の活動を、その統御主体(私)が、自身の営為として自覚できる状態にすることであろう。無意識でも、心の活動はある。だが、それは、自身には自覚できない。その心の活動を自身が自覚できている主観的体験が、意識になろう。苦痛は、ひとにとって、緊急事態が生じたことを知らせる信号であり、心身を統括している私(統覚主体)は、ぼんやりと他人事にすまして傍観などしている場合ではなく、自分のこととして自覚的に意識をもって対処していくことが必要となる。心身を統括し指令を出していく人格主体の私自身が自らのこととの自覚をもって、自身のうちの全情報を集め、全手段をもって対処していける状態になっているのが、意識になろう。
 逆に意識を失う、なくするという状態になる場合は、そういう現実世界への自覚をもっての対処ができなくなっていく。酩酊とか眠りということになる。それは、心の動きが鈍化し、心身を統率するこの私という人格主体が自覚的な働きを失うことであろう。対象世界を認識する心の動きが鈍化・停滞し、これを統括する自身が麻痺状態になって、やがて無意識にとなっていく。苦痛では、限度を超えた耐えがたいものになるとき、そういうことが生じる。激烈な苦痛を前にすると、統括主体の自身は逃げ出したくなり、その極においては、気絶、失神ということで、無意識になって苦痛を感じないようになる。特に精神的な苦痛はその人格と深く結びついているので、耐えられない苦痛がまといつく場合、人格主体自体を棄てて、他人事にと離人症的になったり、その苦痛体験を自分の意識・自覚のうちには残さず健忘症となったりもする。苦痛を持たざるをえなくなっている自己・主体を棄てて、別の人格を作りこれに新規に生きるというようなことにもなる。