3-6-7. 未来の快を目指し、現在の苦に急き立てられて前進する
苦は、人を鍛えるが、快は、人をまどろませ能力発揮の機会もうばうと言われる。だが、快がそうなるのは、これにのめりこみ現をぬかすことになるからで、快も持ち方しだいでは、大いに有用となる。
快・不快(苦)は生の原動力で、動物はもちろん人も多くこれに導かれて生を営んでいる。快は、ことが首尾よく進んでいることを感じるもので、快であるようにともっていくことは、その生に好ましい状態になることである。だが、ときに快は、ひとに害悪となることがある。快が有害になるのは、その与え方、利用の仕方においてである。快は、ことがうまくいったときの褒美であり果実・報酬である。これが常時与えられ、ことを始める前に与えられたのでは、前には進まなくなる。もう報酬が得られているのであり、これを楽しみ、これにのめりこむばかりとなる。動物を調教するときは、快の餌を与えるが、それは、苦難の芸を上手にできたその褒美としてである。褒美の快につられて、難しい芸に挑戦するのである。芸をする前に快を与えたのでは、もう芸をする必要がないといっているに等しい。ひとの場合も似たものであろう。未来に快を描き、これを目指して、苦難の現在を前進させていく。未来の快、その人間世界での代表は、希望という快であろうが、希望は、いま、果実が与えられるのではない。今あるのは苦難・苦労である。だが、その苦痛を受け止めて進めるなら、一定の苦難の手段を実行したならば、未来の希望がかなえられ、快が帰結するというのである。希望は、ひとを駆り立てる力であり、いまは、それは実現されていないから、未来へと前進して、これを達成しようと努める。未来の憧れの快は、希望となって、ひとを導く。引き立てていく。未来へと先導する。未来の快は、ひとを覚醒する。その希望・快の褒美は、さきに出してはならない。快はいま与えるとこれにのめりこみ先には進まなくなる。未来に快は与えるべきである。三代目が家をつぶすのは、その現在に快が与えられるからである。逆に、苦痛は、未来に与えたのでは、これも停滞する。先には苦痛だけが待っていると思えば、現在に停滞して未来の苦痛を避けようとするだろう。
快は、ひとの営為を推進させるものとしては、これを未来にとっておく必要があるが、現在与えられて効果のある場合もある。苦痛が耐えがたく、その過激な苦痛に絶望して前進を諦念するようなときに、これを慰め苦痛を和らげ生気をとりもどすのに快は有用となる。苦痛は萎縮・緊張をもたらすが、快は、弛緩し伸張する反応であるから、苦痛と相殺することができる。あるいは、未来の希望も、それは、いまは快ではないが、未来の大きな快がひきつけ、想像で感情は生じうるから、その未来の快は今に感じられもし、それはひとを苦によりよく耐えさせる。戦争などの絶望状態のなかで、生き残ったのは、希望を失わない者だったと聞く。その現在の苦難を諦念せず未来を信じているものは、より大きな苦難に耐えうる。未来の希望という快が現在をも照らして、その光のもとに、絶望的な現在にあきらめることなく、耐えることが可能になる。
苦は、人を鍛えるが、快は、人をまどろませ能力発揮の機会もうばうと言われる。だが、快がそうなるのは、これにのめりこみ現をぬかすことになるからで、快も持ち方しだいでは、大いに有用となる。
快・不快(苦)は生の原動力で、動物はもちろん人も多くこれに導かれて生を営んでいる。快は、ことが首尾よく進んでいることを感じるもので、快であるようにともっていくことは、その生に好ましい状態になることである。だが、ときに快は、ひとに害悪となることがある。快が有害になるのは、その与え方、利用の仕方においてである。快は、ことがうまくいったときの褒美であり果実・報酬である。これが常時与えられ、ことを始める前に与えられたのでは、前には進まなくなる。もう報酬が得られているのであり、これを楽しみ、これにのめりこむばかりとなる。動物を調教するときは、快の餌を与えるが、それは、苦難の芸を上手にできたその褒美としてである。褒美の快につられて、難しい芸に挑戦するのである。芸をする前に快を与えたのでは、もう芸をする必要がないといっているに等しい。ひとの場合も似たものであろう。未来に快を描き、これを目指して、苦難の現在を前進させていく。未来の快、その人間世界での代表は、希望という快であろうが、希望は、いま、果実が与えられるのではない。今あるのは苦難・苦労である。だが、その苦痛を受け止めて進めるなら、一定の苦難の手段を実行したならば、未来の希望がかなえられ、快が帰結するというのである。希望は、ひとを駆り立てる力であり、いまは、それは実現されていないから、未来へと前進して、これを達成しようと努める。未来の憧れの快は、希望となって、ひとを導く。引き立てていく。未来へと先導する。未来の快は、ひとを覚醒する。その希望・快の褒美は、さきに出してはならない。快はいま与えるとこれにのめりこみ先には進まなくなる。未来に快は与えるべきである。三代目が家をつぶすのは、その現在に快が与えられるからである。逆に、苦痛は、未来に与えたのでは、これも停滞する。先には苦痛だけが待っていると思えば、現在に停滞して未来の苦痛を避けようとするだろう。
快は、ひとの営為を推進させるものとしては、これを未来にとっておく必要があるが、現在与えられて効果のある場合もある。苦痛が耐えがたく、その過激な苦痛に絶望して前進を諦念するようなときに、これを慰め苦痛を和らげ生気をとりもどすのに快は有用となる。苦痛は萎縮・緊張をもたらすが、快は、弛緩し伸張する反応であるから、苦痛と相殺することができる。あるいは、未来の希望も、それは、いまは快ではないが、未来の大きな快がひきつけ、想像で感情は生じうるから、その未来の快は今に感じられもし、それはひとを苦によりよく耐えさせる。戦争などの絶望状態のなかで、生き残ったのは、希望を失わない者だったと聞く。その現在の苦難を諦念せず未来を信じているものは、より大きな苦難に耐えうる。未来の希望という快が現在をも照らして、その光のもとに、絶望的な現在にあきらめることなく、耐えることが可能になる。