「させられる」忍耐より、「する」忍耐の方がいいとは限らない 

2017年05月26日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-4. 「させられる」忍耐より、「する」忍耐の方がいいとは限らない 
 愚かしい忍耐がある。悪行のための自発的忍耐がある。忍耐は、すればいいというものではない。「させられる」ものより、「する」ものの方がいいともいえない。むしろ、善行はいやいやにさせられることが多いかもしれない。悪行は、だが、悪意の内面を隠し忍び続け、被害者の抵抗に耐えて、おそらく、かなり自ら「忍耐する」ことが必要となろう。
 自分が率先してする忍耐の多くは、エゴのもので、場合によると、周囲には迷惑なことかもしれない。する忍耐は、させられる忍耐よりも、よからぬこととなる可能性もありそうである。物事の判断が十分にできない者、こどもなどについては、自発的な忍耐ではできることが限られるから、外からこれを善導して「忍耐させる」ことが必要になることもある。自発的な自由な忍耐と強制的な不自由の忍耐と、どちらがいいかは、一概には決められない。
 しかし、その忍耐がひととして好ましいことである場合は、他人に言われる前に自分で率先してする方がよいことはいうまでもない。周囲から強制・強要されてしぶしぶする、「させられる忍耐」よりは、自分から進んで「忍耐する」方が好ましい。子供の場合、するべき忍耐は、しだいに自分からすすんで「忍耐する」ことへと成長するものであろう。自発的にする方が忍耐の中身自体がよくなるであろうし、自分にも周囲にも、忍耐にかかわっての手間暇がすくなくて済む。効率的である。
 だが、効率ということでは、強制される方がよいことも多い。自分でする場合、苦痛の受け入れはつらいから、ついつい、甘くなり、忍耐の限界を低くして成果はあがりにくい。それに対して、そとから強制され求められ「忍耐させられる」場合は、自分の限界を高くに置かされるし、自分でも高く置くことになる。とくに、励まされるような場合は、大きな成果を出しうる。苦痛も甘受も主観的で、忍耐の限度はかなり融通がきくからである。
 


「忍耐させられる」から「忍耐する」への展開

2017年05月19日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-3. 「忍耐させられる」から「忍耐する」への展開
 苦痛は、いやなもので、自然的には、進んでこれを甘受して忍耐するようなことはない。その点からいうと、まずは、勉強や忍耐といったひとの営為がなるには、それにと点火するものがいる。おのずからに、自主・自発になるとしても、はじめは、こどもがそうであるように、外的に強制される「させられる」忍耐となるのがふつうである。それ以前に、「させられても、しない」状態がある。いくら外的に強制しても、忍耐する意志をもたない限り、ひとの忍耐は成立しない。苦い良薬を我慢しない幼児は、口に押し込んでも吐き出そうとする。忍耐以前の状態である。
 外的に強制して、「忍耐させる」「させられる」ことが成立するのは、当人が、いやいやながらも「忍耐する」気になる段階である。仕方がないと自らが自発的に苦痛を甘受する状態である。いやなニンジンを食べるのは、外的に強制されてであり、「忍耐させられる」のである。外的強制といえども、最後のところでは、当人が自発的に意志して受け入れている。「させられて、する」のである。「しつけ」は、この忍耐させるものの代表になろうか。
 その外的強制を内化できれば、納得して「忍耐する」自主的なものとなる。強制とか懇願を想像で自身が先取りして、あるいは、それをもっともと了解して、自らがおのれを鞭打って、いやな苦痛を甘受するのである。未来に目的を描き出して、その手段として(苦痛甘受の)忍耐が必須と自覚するようにもなろう。忍耐しない自由もある、やめる自由ももった任意でする自主的な忍耐である。ニンジンはいやだが、健康にいいのだからと、自身から我慢して食べるのである。
 「忍耐する」と「させられる」の違いは、その場の風向き・気分の問題となることもしばしばである。する気になれば、させられていても、する忍耐となる。自主的にしていても辛くなると考えが変わって、させられていると思い直すこともある。宿題をする子供は、嫌々にはじめても、興に乗れば、自分から、「もうちょっとだ」とすすんで忍耐する。だが、難しい問題で立ち止まるようになると、「毎日毎日、辛抱させられて」と、嘆くことになる。
 


忍耐は、学ぶ・育つなどと同じく当人の自発性が中心になろう

2017年05月12日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-2-1. 忍耐は、学ぶ・育つなどと同じく当人の自発性が中心になろう
 「打つ」という場合は、「打たれる」方は、「打つ」面はなく、もっぱら「打たれる」だけであろう。だが、「学ぶ」「育つ」とか「忍耐(我慢・辛抱)する」は、自分のことを自分でするのである。対象も自分になるから(忍耐も、要は、自身の苦痛を忍耐するのである)、自身は能動でありかつ受動ともなる。
 哺乳類の場合、子は、親がしっかりと補助するから、自らに育つのだが育てられることになる。学ぶとか忍耐するのもそういうことになる。忍耐するのが根本だが、忍耐させる、させられることになる。さらに、忍耐の場合は、忍耐させることが利害に直結することもあり(辛苦の労働は、雇い主の富の源泉である)、むりやりの強制が、育つ・学ぶよりは多くなる。被支配者・弱者は、辛苦を忍耐させられることとなる。自発性が根本ではあるが、他者による強制・強要が忍耐する場面にはしばしば見られることになる。 
 他者による強制の「忍耐させる」「させられる」が多いとしても、自分のうちの苦痛を自分が受け入れるのが忍耐の要であり、自分がする気にならないと忍耐は成立しない。学ぶのと同じである。いくら親が強制して机につかせパソコンの学習用の画面を見るようにと学ぶことを強制しても、すきがあれば動画を見ているようでは、学ぶことは成立しない。最後のところは、本人がその気で自発的に学ぶのでなくてはならない。忍耐も同様で、最後は、自分が苦痛を耐えようとすることがなくてはならない。きらいなニンジンを無理やり口にいれて我慢させようとしても、忍耐する気がなければ、吐き出す。わめきちらし口を堅く閉じてしまう。する気になっていなくては、忍耐は、させられない。「打つ」場合は、これが拒否されようと、それは無視して、打つ方が一方的にこれを実現できる。だが、忍耐させることは、学ぶのと同様、当人が受け入れる気になっていないと、自発性がないと、成立しない。


「忍耐する」と「させられる」の区別は、当人次第のところがある

2017年05月05日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-2. 「忍耐する」と「させられる」の区別は、当人次第のところがある
 ひとの忍耐は、自分の理性意志が「忍耐する」自発的なものである。かつ、最後まで感性・個我は、嫌で強制されて「忍耐させられる」のである。苦痛なのだから、気が乗らず、外から強要され懇願されて、「忍耐させられる」ことも多くなる。させられるとしても、自分で自分の苦痛を「忍耐する」のである。受動・能動(強制・自発)の両面をつねにもっての忍耐である。そのときは進んで自分から忍耐していても、あとになって、これを否定的にとらえることが生じたときには、「あのときは忍耐させられた」ということになる。
 忍耐の結果が大きな価値をうみ、価値ある忍耐であった場合は、専らに外的強制によっていたのだとしても、自分が辛苦に耐えたことにはまちがいないから、自分がしたということになる。「忍耐する」自分を前面にだして振り返ることであろう。だが、結果がさんざんだったとすると、ひとのせいにしたくなり、「忍耐させられた」となる。
 ときには、奴隷として、支配者の利益のために自分が命をすり減らし犠牲になり「忍耐させられる」こともある。しかし、ここでも、一面では「忍耐する」のである。忍耐せず暴発して終わってもいいのだが、自分の生命を大切にするために、奴隷として苦痛を「忍耐する」のである。その後、味方が来て解放してくれたりすると、忍耐させられたのだが「忍耐して」よかったという。
 忍耐は、する・させるは、常に両面があることなので、一概にどちらかでは決めにくいものになろう。しても、させられても忍耐は忍耐である。自分がするにしてもひとから強制されるにしても、苦痛は苦痛で変わらず、忍耐は忍耐で変わらず、つらいのである。