一つの物が、多くの価値・反価値をもつ

2022年08月30日 | 苦痛の価値論
3-1-4. 一つの物が、多くの価値・反価値をもつ 
 ひとのもつ欲求は、多様多彩である。同じ物に関わるとしても、欲求のあり方が多様であるから、その物の価値も多様となる。同じ物がひとによって、欲求対象であったり、なかったりするから、それに応じて、価値あるものとなったり、無価値、反価値ともなる。水が欲しい者には、水は価値あるものとなるが、そうでなければ、無価値か、服が濡れることになるのだったら、その水は、反価値となる。同一人において欲求自体の変化に応じて、同じ物が価値にも反価値にもなっていく。美味の食べ物は大きな価値だが、満腹するようになると、その価値は小さくなり、過食気味になると、それは、見たくもないような無価値・反価値にと変わる。と同時に、ひとの欲求は、かなり似通ったものになるから、似通ったものを価値とすることになり、多様多彩な価値づけを行いつつも、同じような価値づけをして同じような価値観のもとに、同一の価値物の獲得にあくせくもする。みんなが同じものにおいしさの価値を見出すから、高価な食品や料理がなりたつ。それでも、個人により違いがあって好き嫌いがあり、一つの食品が万人に価値あるものと見なされるようなことは少ない。
 物自体は、単純ではないから、どこから見られるか、どうとらえられるかで、価値のあり様を変えていく。ひとつの物も、多くの特性・属性をもって存在しているから、そのどこをとらえるかによって、その物の価値は、異なったものとして現れることになる。同じ新聞紙でも、その役立ちは多様である。なんといっても、それは、情報の媒体としての価値をもつものである。だが、そこで求めるものが物を包むことであった場合、新聞紙は、包み紙という価値物に変化する。湿気をとりたいという場合は、吸湿剤にと早変わりする。燃えやすい性質をもっているから、着火のための可燃物としても使用されて価値を発揮する。もちろん、無価値・反価値にもなる。衝立が欲しいと思ったときには、新聞紙は、立てられないだろうから、無価値に見なされる。消火しようと思ったときには、水は有用な価値だが、新聞紙で包んでも一層燃え上がるだけであって、反価値になり変わる。


価値の受け手が価値を成り立たせる 

2022年08月23日 | 苦痛の価値論
3-1-3. 価値の受け手が価値を成り立たせる 
 価値は、もの自身に内在する特性・属性ではない。このものを受け取る側からみて、そこに欲求を満たす特性のあることをもって価値があるという。求める者が、価値のあるなしを決める。日照り続きという客観的事実は、価値でも反価値でもない。価値を決めるのは、それに関わっている者の方であり、農業者にとっては、それは、干ばつという反価値である。だが、太陽光発電をする者には、めぐみの快晴という価値である。
 ただし、勝手に価値・反価値が決められるのではない。日照りという客観的事実自体は、関係する者が創造することではない。その客観的な存在自体、その特性自体は、対象世界にあることである。かつそのこと自体で価値となるものではない。その対象のもつ特性自体は、利用するものがいようといまいと変わらず、価値でも反価値でもない。価値は、その客観的な事実を利用し役立てる側において成立・顕在化する。これを利用するものが、そこに自分の欲求を充たすもの、価値を見出すのである。それまで、何の価値もないと見なされ放置されていたものが、だれかによって、利用できるものとなるなら、その無価値のものは、突然、価値あるものに変身する。石炭とか石油は、農業者にとっては、無価値どころか、作物の生育を妨げる反価値の大地でしかなかったろうが、近代にはいって、これが燃料として利用できることとなるとともに、価値あるものにと大変身した。
 社会生活での価値は、人々がそれを求め、その欲求を充たすことができるところに見出される。したがって、時代によって同じ物事が、価値を変えていく。民主主義は、現代では大きな価値だが、かつては、過激な思想として反価値と見なされることが多かった。美の世界でも、ゴッホの絵など、彼が生きていたときには、まるで無価値と無視されていた。だが、現代はちがう。民族によっても評価を異にするが、ゴッホは、彼が日本の浮世絵などに影響されたこともあって日本人の琴線に触れるものをもつのであろう、日本では、とくに高く評価されている。それでも、個々人での価値づけは異なったものでありうる。ゴッホを好きになれない日本人も、したがって低い価値しか与えない者も当然いることであろう。

ことばとしての価・値、value, worth

2022年08月16日 | 苦痛の価値論
3-1-2. ことばとしての価・値、value, worth  
 価値の英語value、フランス語のvaleurは、ラテン語のvalor(価値、有効性)からきているようである。valorは、valeo(力がある、能力がある、有効である)による。価値は、能力があり、有効なものということになる。能力あり役立ち有益なことが価値ということになるのであろう。日本語での価値の「価」も「値」も「あたい」と読むが、「あたい」は、当たるであろう。見合っている、当たっている、ふさわしいものということであろう。
 英語での価値には、worthもある。これは、ドイツ語のWert(価値)と同じ系列の語になろうが、Wertは、Wuerde(尊厳・品位) wuerdig(値する、尊い)と同系であろう。価値あるものは、高く位置づけて尊びたいものということであろうか。優れた卓越した特性をもっているということであろう。 
 漢字の「価値」の「価」は、旧漢字では「價」で、人が賈(あきない)することを示す。「値」は、人が「直」つまり、真っ直ぐで、まっとうな、妥当の状態を語るものになるようである。価も値も人偏であり、ひと(の欲求)の関わったもので、売買する者等において、その欲求を充たすにふさわしい、これに適切・妥当なものを価値とするのであろう。どんなものであれ、欲しいひとには、価値であり、欲しくないものには、無価値ということになる。買い手が求めているのは、その商品における使用価値であり、売り手の見ている価値は、どれだけのお金になるかという交換価値である。両者のねらっているものは、同一の商品についての別々の価値ということになる。
 価値は、価値をもつものだけで成り立つのではなく、それに相関的なもの(普通にはこれを求める人)があって、これに有効な、妥当な適切なものとして成立する。価値あるものは、ひとの欲求にとって、ふさわしく、充足にあたいするもので、したがって有益で役立ちがあって尊いものということになるのであろう。

価値があるとは

2022年08月09日 | 苦痛の価値論
3-1-1. 価値があるとは 
 苦痛は、普通には、価値ではなく、生を傷めつけるマイナスのもので、反価値であろう。だが、忍耐では、苦痛は、(目的のための手段となって)価値をもつ。あるいは、苦痛は、避けたいもの・反価値であるがゆえに、(これを避けて生を保護することになり)価値あるものとなる。反価値が価値だなどということになると、価値とは何なのかと疑問が湧いてきそうである。価値・反価値を少しチェックしておこう。
 価値は、それ自体において成り立つものではない。竹があってもそれが価値か反価値かは決められない。それを利用する者をもって、そのひとにとってのそのかかわりのなかで価値は成立する。竹は、住宅敷地に侵入するものとしては、そこの住人には、有害なものとして反価値物である。だが、タケノコを食べたい者にとっては、竹は食にとっての価値物になる。竹細工に利用する場合は、役立つ素材として価値となり、同人が竹林の向こうの風景を楽しみたい場合には、それを妨げる障害物として反価値となる。竹は、価値でもあり反価値でもあることとなる。これらのかかわりをもたない者にとっては、竹は、群生する背の高い植物として捉えられるだけで、価値でも反価値でもない。価値は、それにかかわるものにおいて成立する有益なものということで、反価値はその逆に排除したい有害なものということになろう。
 価値は、これを求める者にとっての価値で、その欲求を充たすものをもつ。それのための役立ちがあり、有益であるということになる。反対に、反価値は、その生を脅かし有害で損傷を与えるものと見なされることで成り立つ。価値における創造の力の反対で、生に損傷・害悪をもたらす破壊的力をもったものが反価値である。価値が、欲求を充足できる有益なものであるのに対して、無価値は、そういう欲求を充たすもののない無用・無益のものであり、反価値は、有害なものとして、反欲求となるもので、排除したいものということになろう。
 価値は、物自体の属性ではなく、これを役立てる者がいて、この役立ち・有益という特性をもつことを価値とするのであろう。価値づける者がいて、それから見て自身の欲するものを充たす、役立て得る特性をもって価値とするのである。小石は、価値にも無価値にも反価値にもなる。重石とするものには、軽すぎて価値は見出せないが、投石用にと思う者には、価値となる。それで自分が傷つくとしたら排除したい反価値物となる。価値は、単独にそのもの自体にあるのではなく、その対象の属性・特性に有益なもの有用なものを見出し、これを欲し求めるところに生じる。

反価値の苦痛は、価値をもつ

2022年08月02日 | 苦痛の価値論
3. 苦痛の価値論Ⅰ-自然的な「苦痛の反価値論」  
3-1. 反価値の苦痛は、価値をもつ
 忍耐における苦痛甘受では、苦痛が創造的な意味をもつ。だが、自然的には、苦痛は、傷害など生否定的なことに生じ、感情としては、大きな不快であり、回避したい一番の感情である。快の感情は、買ってでも享受したい価値あるものになるが、その真反対が苦痛である。価値がないどころか、価値あるものごとをつぶす損傷にいだくものであり、その苦痛感情自体、受け入れることは耐えがたいことで、苦痛は、排除したいともがき悶える反応を引き起こす不愉快極まりない反価値になる。
 だが、忍耐では、この反価値の代表の苦痛が積極的なものになる。苦痛を回避せず受け入れることで、価値あるものが実現されるので、これを甘受する。苦痛を受け入れることがあって、大きな価値が得られるのであれば、反自然的なその苦痛の甘受は、価値創造の手段として価値あるものとなる。「肉を切らせて骨を切る」「損して得取れ」であり、苦痛(の甘受)は、踏み台・手段としての価値をもつことになる。
 さらに、苦痛は、生保護のためにある感情として、生の根源的な価値となるものであろう。生保護は、苦痛をもって、傷害となりそうな事態を感じ取って、これを回避することでなる。つまり、苦痛は、生損傷を防ぐために大きな役立ちをしているのである。その主観的な感情としては、苦痛は、嫌悪感や抑鬱、煩悶等をもたらす不快感情の代表で、これをなんとか避けたいと皆の願う反価値の存在になるが、その回避反応は、生損傷からの回避として生保護の中軸となり、苦痛は、生のために大切なもの、価値となるのである。
 反自然的に、ひとが忍耐において、苦痛を回避せず、逆に受け入れるからといっても、その苦痛自体が価値となるわけではない。バラの棘に触れて痛むとき、その痛み自体は、価値(=受け入れたいもの)ではない。この苦痛を受け止める者にとってその感情は、やはり、マイナスの回避したい感情であるから、その限りでは、まちがいなく反価値である。だが、忍耐では、その苦痛を受け入れることによってのみ、大きな価値あるものが確保されるのであり、目的実現の不可避の手段として有用で役立つもの、価値となる。あるいは、苦痛を避けることで生保護がなるのであれば、苦痛は、反価値(避けたいもの)として価値になるのである。