浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの同一性

2020年09月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-4.浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの同一性】時間に関わる異常なものとしては、通常の夢のように、時間的継起の秩序を破壊していて時間自体を無視した、支離滅裂に異常なものがある。あるいは、一寸法師やかぐや姫の成長のように、時間自体は通常の継起の速度にありつつ、そこでの通常に比しての遅速をいうものもある。これらと、ここで問題にしてきた浦島と死者の登場する夢での奇怪な時間異常とは、異なる。浦島も死者の永遠も、時間自体は支離滅裂の夢とはちがって、過去から未来への継起の秩序をふまえるし、かぐや姫のように一つの時間継起のもとでの異常な速度をいうのでもない。その時間自体の速度が、自分たちの世界と異世界で根本的に異なることを語る。時間という継起の秩序を有した、進み具合にちがいのある二つの時間の間で生じた奇怪さを扱うものになる。 
 浦島の異世界(竜宮)と死者のあの世での時間異常は、どんなところでも本来同一の、ひとつのはずの時間について、異なった二つの時間、二つの継起の秩序が見出されることにある。それは、いずれも、一方では、通常の世俗の時間が展開していて、他方に同時にその同じ場面に、別の継起の秩序をもった時間があることである。その別の時間とは、端的にいえば、時間の停止、時間展開がゼロに留まるという事態である。あの世にいった死者が夢にでてくるとき、生きている者の登場するのと異なり、死者は、死んだ時点から、あの世で過ごしている時間のもとでは、一切年取らず、いつまでも死んだ日までの若い姿で登場する。つまり、あの世に行ってから時間がストップした状態に、時間展開がゼロに留まる。あの世の不老不死の時間が、この世のひとの夢に現れて奇怪さを感じさせるのである。同じように、浦島体験でも、故郷のひとの時間展開は、旅の間、ゼロに停止したままである。帰郷時、そのゼロの時間、つまり昨日の今日のはずと感じている時間があり、他方には、旅の間の時間展開がある。その時間停止と時間進行の二つが帰郷時には見られて奇怪な異時間体験をもつ。あの世のひとの場合も、浦島体験でも、一方に通常の時間展開があり、他方で時間が停止し無時間となっているのである。
 浦島の場合も、死者のあの世の時間異常も、その根本は、一方の時間展開がまるでゼロになっていて時間的進行のないことであるが、それは、記憶の更新がないということに基づいている。時間の進行、その過去の時間の把握は、記憶をもって成り立つ。記憶がない状態では、時間における過去は成立しない。時間が流れていることは、今が過ぎていくことは、さっきの今は、もうないのだから、記憶されない限り、単に無、ゼロになるだけである。昨日も一昨日も、記憶がないと成立しない。昨日の記憶がなければ、あるいは一日中眠っていてなにも意識に残るものがなかったなら、昨日という一日は無となる。その眠りとか昏睡状態が長期になった場合、その間は、なにも記憶がなくなり、目覚めたとき、「さっき寝たのだが」と時間は無になるはずであろう。記憶が時間の自覚を可能にする。その記憶の更新がひとつの領域においてゼロになるのが、浦島(の故郷)とあの世の死者である。浦島では故郷については、旅立ち以降記憶更新はない。帰郷時には、その記憶更新ゼロのまま、昨日のように旅立ちの日を感じて帰郷時をその翌日のように感じる。時間更新ゼロである。死者も同様である。死んで以降は、記憶の更新は停止する。若くして死んだならその若さのままで、それ以降の記憶更新は不可能である。死んで以降も夢に出てくるが、周囲の生者は、夢でも現実でも時間のもとでどんどん変貌していくのだが、死者だけは、記憶更新なく時間ゼロで、若いままとなる。
 この記憶更新ゼロの状態は、長い眠りとか、世俗からの隔離(現代見られるものでは刑務所とか洞窟や建物への長期の閉じ込めあたり)、長い間あっていない人などでも生じる。メルヘン(昔話)では、この記憶更新ゼロに基づく時間異常を種々に語るが、大きくは、浦島的なものとあの世の永遠に類したものの二つに分類することが可能であろう。浦島的なものとしては、異境に迷い込んで奇異な時空間に遭遇するものとか、眠りつづけて時間停止状態になる「眠り姫」のようなものがあり、塔とか洞窟に閉じ込められて世間の時間的変動から隔離されこれを無として記憶更新ゼロとなっていた話等があがるであろう。他方、死者の永遠という一点の記憶更新ゼロの方は、夢に出てくる死者の話、天国や地獄に関わっての話があり、現実のなかでは、長くあっていない人とか、ずっと昔の記憶しかないところとかに持つことになる。さらに、この世界での不老不死とか異常な長命という話も、死者に準じた永遠の時間の話になるともいえる。ほかのものはどんどん変化しているのに、一つのもののみは、いつ見ても不変であれば、記憶更新なしではないが、新規の更新内容はなしとなり、実質的には記憶更新なしと同等となって、あの世のひとの不変・不老不死に近くなる。古池の大蛇が不死にみえ、八百比丘尼や常陸坊が何百年もの長命であるのは、(本当は入れ替わっているのに、それが分からず)記憶内容が常に同一に留まることで、いつ見ても変わらない夢の中の死者の記憶更新ゼロに似たものとなっていることに起因する。
 浦島異時間体験とあの世の死者の永遠の体験は、区別されるが、ひとつにすることもできよう。あの世的時間異常も、その長く会ってない人とか場所に実際に出会えれば、浦島体験になる。浦島体験も、帰郷せず、故郷の人を想起する段階では、時間ゼロのままで、旅先の人と並べて想起するときは、あの世のひとと同じく、故郷の人のみが変わらない姿で登場することである。その記憶更新・進展のゼロと、他方で継起して展開する一般的な時間の二つの時間が浦島とかあの世の時間になるとすると、記憶更新0ではないが、時間(記憶更新)が一般には10進んでいるのに、5とか2しか進まないものとか、逆に20とか50のスピードで進むものも、別種の時間異常とみなしていくことができる。成長の遅速が顕著で異常な一寸法師とかかぐや姫、あるいは、動物の世界に入り込んでの急速な時間展開等は、これになる。記憶更新ゼロの浦島やあの世の永遠の場合は、この世の現実にはないことなので、その奇怪さに好奇心をかきたてられるが(錯覚ではあるが、現に閉じ込められた者の体験談ではあることで、時間という世界の根本形式についての奇怪な(錯覚)体験として、興味がそそられる話となる)、遅速では、その奇怪さはない。面白さという点では、劣る。が、現実的なことという点では、つまり、錯覚ではなく、これは、どこにでも現に生じていることであるから、真実という点では、遅速の時間異常の物語の方がまさる。
 一寸法師のような遅々とした成長のもとでは、一般の時間が10進むのに比して2とか3の速度で、停滞した状態が続く。八百比丘尼とか常陸坊の話は、何百年と生きた不老不死に近い存在として、時間展開ゼロではなく、ゆっくりとのんびりと進むもの、あるいは遅々として進まないものと見ることもできよう。現代でいえば、遅々として時間が進まないものというと、長期の療養とか、引きこもりが目に浮かぶが、そういう、一般的な生から引き離された生の時間的停滞では、それからもとの社会にもどったとき、世界の激変を見るだろう。停滞し、希薄化しゼロに近くなった自分の時間と、客観世界の無慈悲に過ぎゆく継起の秩序の時間である。引きこもった者がそとに出たときには、激変している世界の急速度の時間の流れに戸惑うことになるであろう。時間の奇怪さということでは、浦島には、到底かなわないが、身近にある現実的な時間異常を語るものとなる。そういうのも異時間の話ということであれば、我が国の昔話では、かぐや姫、一寸法師とか、三年寝(ものぐさ)太郎などがあがる。時間展開の異常を語り手も聞き手もあまり意識することのない桃太郎なども、急速な成長をしたのであり、時間異常を示す昔話の中に入ってくることとなろう。 

(終わり)


浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの違い

2020年08月23日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-3.浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの違い】時間について、ひとは、記憶で過去を描きだすとともに、未来方向への時間を想像・予期をもって描く。通常は、予期の範囲内になっている未来であり、それへの構えを作って対処しているが、それが、意外にもそうなっていないと、戸惑い、これに驚くこととなる。浦島は、故郷の記憶更新がない状態で帰郷した。いうなら昨日の今日という状態なので、故郷は変わってないと予期している。だが、それが大きく変貌していて予期を覆し、驚かされることになる。逆に、あの世のひとの夢では、死後何十年も経っていて年をとり変わっているはずとの通常の予期のもとで見たら、まったく昔の姿のままで、変わっていないことに驚かされる。その奇怪な異時間は、浦島では、長い旅とか長期の隔離の終わったところに生じる。だが、夢の中の死者では、その出会いの瞬間にその異時間を感じさせられることになる。  
 その異常な時間への関与という点では、あの世のひとの夢では、自分は夢見ているだけで、あの世のひとの異常な不変・不老の状態に、あの世の時間のなかに、巻き込まれているとは感じない。自分を含めて、夢に登場する身近な生者は皆年を取って現れているのに、あの世に行ったひとは年取らないのだなと、傍観者として観察するだけである。だが、浦島の方は、自身がその奇怪な状態に巻き込まれていると感じる。同じ時空に立っているはずなのに、自分の時間が二重になっていると感じて動転させられる。皆が自分の知らない間に何かをしていて、自分は疎外され取り残されていると感じる。あるいは、自分がおかしくなっているのであろうか、変な世界にまきこまれているのではなかろうか等と不安になることもある。異常な時間展開を傍観者として眺めて過ごすわけにはいかない。自身がその異常な時間の体現者となる。 
 浦島的異時間は、異常な時間展開の途上では、これに気づかず、それの展開を終えて故郷に帰り振り返ってそうと分かることになるが、この、長い疎隔状態から解放されたとき抱く帰郷時の異常な時間感覚は、そう長くは続かない。それが錯覚であることには、浦島では、すぐに気づくことになるのが普通である。故郷の人たちが、現実が、日々それの錯覚であることを自覚させていく。だが、夢であの世にいった者が年取らないことは、あの世という別世界を信じている者では、その信仰心を共有する人たちの間ではあの世の不老不死を当然とした言動をとることもあって、錯覚とは思わないで、あの世の永遠を信じ続けることになる。浦島体験では、その現実が、異時間感覚の錯覚であることの反省を迫るが、死者の夢では、それがないので、夢見るたびに、あの世の永遠という思いを深くしていくことになりかねない。死者は、変わりようがない。何度見ても、不老不死で現れて、永遠の世界であることへと一層思いを強くしていきかねない。
 浦島もあの世の死者も、時間を成り立たせる記憶更新のないことが奇怪さの原因である。が、記憶更新ゼロになる理由は、浦島では、自分がその世界から出ていき疎遠状態を作ったことにあり、あの世の人の不老不死の方は、あの世に行った人の方が消えていってしまったことに原因がある。浦島では、故郷全体が消えていって記憶のうちに固定して不変となってしまうが、あの世の場合は、死んだ人のみが消えて固定して不変となっているのである。浦島の場合、異時間発生の原因は、自分(が長旅に出たこと)にあるが、あの世の場合、死者(が冥土へと旅立ったこと)にあるわけである。
 異常な時間の広がり、範囲の点では、あの世にいった人の場合、その死者だけが、変わらないということで異常なのである。あるいは、死者に限らず、長らく会わなかったひとのことを想起したり夢に見る場合もそうだが、そのひとだけが年取らず、変わらないで現れる。自分や周囲はみんなその年月分変化しているのに、その夢のなかに現れた死者とか長く会っていない人物のみが変化せずということである。自分の頭の中で現在の同級生の集合写真を作ってみたら、死んだ友、卒業してから長年会ったことのない同級生だけは、卒業時のまま、死ぬ時までの姿で若々しく写っている。だが、浦島体験の方は、異常なのは、長く留守にしていた故郷の人全員がそうであるのみでなく、よく見ると、山も川も故郷のすべてが留守にした時間分変化しているのである。自分が昨日の今日と思っているものすべてが、実際には長い時間の留守分の変化を見せる。家族が一挙に10年年取ったと奇怪に思ったが、裏庭に植えたばかりだった栗の苗木は、もうたわわに実をつけており、10年の年月を感じさせずにはおかない。異時間感覚は、自分の故郷に関する記憶更新ゼロによる錯覚であると多くの現実が語る。
 

夢の時間展開は奇怪だが、普通には異時間感覚は抱かない

2020年08月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-2.夢の時間展開は奇怪だが、普通には異時間感覚は抱かない】
 誰でもが思い当たる異常な時間展開というと、おそらく夢がその筆頭にあがる。自身が子供になる夢もあれば、突然、自分の葬式になったり、途中から友人の送別会になったりする。奇怪きわまりない。だが、これは、時間自体が奇怪な展開をするのではなく、夢が(実在世界の)時間を顧慮せず、夢見る当人のその夜の関心や連想のおもむくままに映像を並べて、時間の継起的な形式を無視した支離滅裂な状態にあるだけであろう。天国のようにゆっくりと時間の過ぎるのでも、カゲロウのように過激な速さの時間でもなく、時間という過去・現在・未来へと流れる継起的秩序自体を無視しているにすぎない。夢では世界の根本形式としての継起の秩序、時間自体が存在していないのである。 
 夢は、一晩の眠りのほんの一時の出来事である。その夢の中では、あたかも長期の時間展開であるかのような夢を見ることもある。自分の一生の夢をみることも可能である。それは、時間の異常さを感じさせるものではないが、現実世界とは異なる継起の様相として、夢での時間の在り方といえなくもなく、これも異時間体験の末端に置くことはできよう。浦島太郎の説話のなかには、これを夢のなかでの話にとアレンジしたものがある。川へ釣りにでかけて、乙姫に誘われて竜宮に行き、結婚し、そこで生活して、やがて帰郷するが、帰ってみたら、まだ川には釣り竿があり、その間の何年もの経過は、釣りのわずかの時間のことだったという話である(関敬吾『日本昔話大成』 角川書店 昭和53年 第6巻 28頁 参照)。夢では、主観の想像・妄想と同様、時間は支離滅裂であったり、長年月のこともあったりして、現実の実在世界からいうと奇怪だらけで、ことさらに時間自体についての奇怪な感覚になることは、あまりないし、あっても、夢のこと、妄想・妄念の観念世界のこととして実在世界の時間秩序とは無関係に、別扱いにするのが普通となる。 
 どんなに長くてもわずか一晩の夢なのだが、その一晩の夢のなかでは、何十年もの生活を展開することがある。一晩の夢において、自分が青年のときから、結婚し事業に成功し、老化して死ぬまでのことを展開することがある。「邯鄲の夢」など、粟粥を作ってもらう食事準備の間に居眠りして、その間に自分の一生の栄枯を体験する夢を見た。醒めてみたら、粟粥はまだ出来上がっていなかったと。「一炊の夢」である。ここでは、夢見る時間は、一晩とか、わずかの微睡の間とちゃんと自覚している。夢の内容が一生に渡っていることが同時に現実だと錯覚などしない。その夢のなかでは、現実の日課、毎朝顔を洗って食事してと詳細に反復するといった手間暇は一切とることがない。夢の内容自体を少し反省すれば、大事件のみを、それも勘所をつまみ食いして追っていった長期間にわたる夢だったと、自覚できる。白昼夢で壮大な自分の一生を見るのと同じで、(ただし白昼夢と違い、夢は随意にはならない)妄想・妄念であることの自覚がもてる。ただ、感情的には、夢で自分が殺されるのを見たあとは、起きて想起するとき、その内容には、自身の感情反応をもって、恐怖心をいだくことにはなる。その恐怖心から、現実を見れば、実際に今日は自分にそういうことが生じるかも知れないと、現実への影響をもつこともある。だが、それを反省してみれば、「夢で良かった」と分別でき、現実とは混同しない。夢の中での時間経過も、現実とはちがい、根本的に無秩序でしかないと自覚できる。  
 逆さ浦島とか「一炊の夢」の場合、時間経過は長大で一生に渡るようなものでも、それは、目覚めてから思うときには、夢の中、体験する当人の頭のなかだけでの夢想・幻想との自覚がある。夢の中では、肝要な出来事のその核となる断片のみを抜粋して飛び飛びに見ていく。関心事をそのエキスのみを順序不同に急いで見ていくだけであって(おそらく、継起的な時間展開の夢になるよりは、自分の葬式を見て続いて自分の結婚式の場面となり、いつのまにか子供や親せきの結婚式や葬儀に変わる等と時間的には支離滅裂な夢になるのが普通であろう)、その夢の中での時間展開が植物の生長の動画の早送りのように急速になっているわけではない。もちろん、夢から覚めた世界には何の時間的影響もない。その夢の時間が同時に、夢から覚めたときの現実の時間と一つになるのなら、二重の時間ということで奇怪であるが、そういうことになるのではない。夢でなくても、想像において、あるいは、白昼夢で、自分や子供の一生を見るとしたら、ほんの5分か10分のうちに、詳細なその生の展開を見ることができる。実在的世界でなら、日々、食事をし大小の用を済ませ歯磨きをし等々ということが延々とつづくのだが、それらは、一切省略しての、現実の要点のみの断片的な想起であり、現実と混同することはない。太陽系の一生を想像する場合は、何億年もの詳しい展開を、ものの5分で描きうるだろうが、それ自体は、時間そのものを超高速で何億年と展開するものではない。その何億年いう太陽自体の展開する時間と、その長大な時間展開を想像する時間は、無関係にとどまる。逆さ浦島で、釣りをしている間の夢に竜宮城で楽しい日々を過ごしたからといっても、その居眠りの30分と竜宮での3年は、別々の経験と自覚する。居眠り状態の心身の体験があり、その間に、心中で異世界にと遊ぶ夢の体験をもったということである。その実在世界の30分が即同時に異世界の継起の秩序としての時間の3年であった(その間、毎日、日に一回、つまり、千回以上も洗顔したり大便を繰り返したというようなうんざりする夢を見続けた)というのなら、浦島的な異時間体験になるが、そういうことではない。夢と現実は区別される。電車のつり革を握って通勤の30分の間に、サラリーマンが白昼夢に遊び、自分が社長になって世界中を駆け回り高野山に墓をつくってもらって信長たちと並んで空海のそばで安眠したというような50、60年にわたる人生を描くのと同じである。うたたねの間の夢は、自身の一生の夢であったとしても、それを現実と錯覚することはない。 

長旅での異時間体験とあの世の永遠との比較

2020年08月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
4.長旅での異時間体験とあの世の永遠との比較 
【4-1.二つの異時間体験とも、記憶更新ゼロに基づく】昔話(メルヘン)において異世界を語る時、その世界では時間までが異なると言うことがある。その異時間の在り方について、ここでは、ふたつをあげてきた。ひとつは、浦島のそれで、異世界にいって故郷を長く離れその帰郷時に感じるもので、もうひとつは、夢に出てくる死者の歳とらないことからするあの世の永遠という時間である。時間の異常さということでは、成長速度が急速な竹取物語の「かぐや姫」とか、逆に遅々として成長しない「一寸法師」などもあがるが、これらは、時間自体は世俗と同じである。同じだから、普通の成長に比して遅速が言われるのである。さらに別種の時間異常に、「眠り姫」のような、長期に渡って眠ったり、世俗から隔離され閉じ込められての時間の停滞とか停止を語るものもある。この場合は、世俗の時間と、主人公の生きる世界の時間とのあり方が異なる話になり、異時間体験をする。これは、浦島体験とあの世の永遠の夢体験のうちでいうと、前者の方に似たものになる。この世俗から隔離された状態(長い眠りとか閉じ込め)にとどまった後に世俗に帰り両世界の間の異時間体験をする話である。
 浦島(したがって、また、眠り姫とか長く隔離される話など)にしても、あの世の死者の異時間にしても、いずれも二つの時間からなる。そのひとつの時間は、記憶更新がなく時間経過がゼロにとどまり続けるものであり、もう一つは時間展開のあるもので、記憶の更新があり変化・変動のある時間である。その記憶更新の有無をもっての時間展開のギャップにいずれの異時間体験もなりたつ。浦島の場合は、変わってないと思うこと(記憶更新ゼロ)をもとにして、意想外に変わっているという奇怪さへの驚きの体験で、あの世の話は、この世の者は皆変わっているのに、あの世に行った死者のみは変わってないこと(記憶更新ゼロ)に驚く体験談である。眠り姫など長期に渡って世間から隔絶状態にある話の場合は、その眠りや隔絶の間、記憶更新がないままに、目覚めてのち、周囲の激変に驚くものになるから、一種の浦島体験ということになろう。
 浦島の異時間体験は、それが生じつつある異世界にいるときに感じるのではなく、ことが終わってから感じる。振り返って奇怪な体験だったと分かる。ふたつの異なった時間展開が生じていたことを発見して驚く異時間体験になる。その核となる事態は、一方の時間について、それの展開が自身のもとでは、無に留まり、したがって、昨日の今日という感覚になることである。時間は、記憶をもって過去を捉える。記憶が過去の時間を体感させてくれる。もし、記憶がなければ、昨日とか昨年ということはなりたたない。10年前のことだったとしても、その後の10年の記憶が無ならば、それにつづく今日は昨日の今日ということになる。途中の10年の記憶更新がなければ、それがゼロであれば、昨夜眠って今朝起きたのと同じである。この記憶更新ゼロの事態が一方にあって、他方でそれに10年の経過があれば、両方を合わせたとき、記憶がなくても実際には10年展開しているから、突然、昨日から今日にかけて10年分の変貌を見せることになる。目の前のものがまばたきした間に突如、10年分の変貌を見せるのである。
 この浦島異時間体験は、浦島のように、別の場所にいって、その間、元のところの記憶を更新することがないといった隔離した状態で生じるだけではなく、記憶更新がなければそうなるのだから、眠りでも生じる。通常の眠りでも、寝て起きたときは、その間の時間経過はゼロとなり極小の浦島体験をしているのである。子供だとその体験を素直に感じとるから、「さっき寝たばかりなのに、もう朝?!」と睡眠中の記憶更新ゼロにともなう時間感覚の奇怪さに驚く。年とともに、それに慣れてくるから、大きくなると、この記憶更新ゼロの無時間を錯覚とみなし就寝の時間経過という知的理解の方を優先することに慣れて(感覚的には太陽が動いているのに、知性を優先して太陽は不動とするように)、奇怪さは感じなくなる。この眠りが長ければ、眠り姫のように、一時代前の状態の記憶のままで停止することになり、目覚めたとき、突然、周囲の長い時間経過後の世界を見るという体験になる。浦島異時間体験は、一方の時間が眠りとか隔離によって生じた記憶更新ゼロの続いたもので、他方で実際には長時間が経過していて、ゼロ時間が即長時間となっていることに仰天する。だが、目の前の現実が、異時間体験を主観的な妄念だと日々否定することになるから、眠り・隔離のもと記憶更新のないために生じた錯覚だと分かり、簡単にその異常時間の体験は、消滅していく。
 天国や地獄のあの世の時間の異常さの感覚は、少し浦島体験とは異なるが、これも、記憶更新がないこと、時間経過をゼロにしていることが異時間を生じる原因となっている。この体験は、浦島のように事が終わってから感じるのではなく、異時間を担う者の現れるその現場で異常を感じて驚愕する。これは、夢のなかで生じることが多い。自身の知るあの世にいった死者が夢に帰ってくるとき、何年たっても年取らないで現れることをもって、あの世の時間を永遠とか、この世に比して言うと相当にゆっくりしか流れないと感じるのである。死者についての記憶は、死んで以後の更新はない。死ぬ前、最後に見た記憶でストップする。その後の夢では、身近な生きた者は、だいたいが年々年取って夢にも出て来るのに、死者は、あの世にいったとき以後の歳をとらない。あの世は不老不死で時間がゆっくりとしか展開していないように思えてくる。これも記憶更新がないところで生じる錯覚であるが、あの世を信じる者は、浦島体験を錯覚とみるひとであっても、これを錯覚とはしない。その死者のあの世での不老不死をふまえて天国・地獄の永遠を想像しても、これを否定する体験はしないから、反省を迫られることなくあの世の(妄想の)永遠の世界を描きあげていく。
 これは、死者のみに限定されることでもない。記憶更新がないひとについては、生きている人でも、死者に準じた体験となる。その昔会って以後音信不通にとどまって、以後の記憶の更新がなければ、古い記憶のままで夢や想像のうちに現れる。そのひとを想起するときは、その何年か前の姿のままとなる。年取らないままであろう(異境にいったままの浦島と、故郷の人も、相互にそういう存在になる)。中学校のときの片思いのひとと老人になるまで会うことがなかったとして、その愛しかったひとは、想起する場合、自分は老人になっているにもかかわらず、その中学生のままである。この体験は、浦島体験にもできる。その老人が同窓会にでて、何十年ぶりかにそのひとを見たとすれば、突然、初々しい中学生が老人になって現れて、浦島太郎の絶望感をささやかに味わうことになる。
 

臨死体験、幽体離脱

2020年07月23日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【3-4.臨死体験、幽体離脱】地獄・天国の時間的異常さ(永遠とか超スローな時間展開)は、夢に出てくる死者をもってそう判断するもので、実際にあの世に行ってみて体験したものではない。実際に死んであの世に行った者が異時間体験をしたという話があれば良いのだが、本当に行った者は、帰って来られないから、体験談をもってあの世の時間を云々することはできない。逝ってしまった人の体験談は聞けないが、逝きかけたひとの体験談はある。臨死体験である。臨死体験者は、天国の近くか、地獄にいって帰ってくる特殊体験をする。だが、真にそういう世界に行ったわけではない。かつ、あの世の入り口付近に行っただけのこともあってか、異時間をいうことはない。2日臨死状態になっていた場合、地獄での諸手続きに時間をとられ多忙な閻魔大王に一声かけてもらって帰る感じで、場面が、この世でないというだけのことで、この世と時間進行に変わったところはなさそうである。あの世への旅というか連行の間は、泊りがけということもないぐらいで、時間的な異常は、あるとしても、朝昼夜の別がない程度で(その「一日」のないことが持続すれば、つまり、月・日の経過がなければ、永遠と感じられてもくるのであろうが)、時間の流れの異同は言われることはない。
 ただし、閻魔大王から、事情がありそうだから3年ほど刑の執行を猶予しようと言われてよみがえった者が、3日で死んだというような話は聞くことがある。つまり、地獄の3年は、この世の3日に相当するということである。逆に、3日猶予しようと言われてよみがえってみて3年生き延びたというのもある。この世とあの世の時間の違いについて、両者では、逆の関係になっている。どちらかが伝承の間に関係を逆にしてしまったのであろう。おそらく、あの世では、ゆっくり時間が流れるのが基本であろうから、向こうの3日は、こちらでは、3年という方が正解であろう。もちろん、宗教的世界観を荒唐無稽とみなしている者からいうと、いずれも、とんでもない妄念・妄言にすぎない。つまり、臨死体験の事実があるのみであり、その内容は、夢と同様に、脳の内での幻覚にとどまる。臨死状態になって、地獄なり天国がその先に想定されるのだが、その道程において、しばしば、暗いトンネルを抜けると光が見えて、明るいお花畑のような空間に出たと語ることが多い。出生時の産道を通り抜ける記憶がよみがえっているのであろうという説は、ありそうな話である(暗い黄泉の国に行くのに輝くところに向かうというのもおかしな体験だが、しばしばそう語る。お花畑も、誕生の時のことだとすると了解できる。誕生の当座は、きらめく新鮮な色は見えても、まだ、形も遠近も見えないから、百花繚乱ぐらいに見えたはずである)。落下などで奇跡的に助かった人が、その死に至ると諦念したわずかな時間の間に、過去のことが走馬灯のように浮かんできたと語ることがある。トンネルの先に光明をみるのは、臨死状態で生の総決算を出生時にまで遡ってして幻覚を見ているということなのかも知れない。
 夢は、時間の秩序を踏まえずあちこちに飛躍して支離滅裂だが、臨死体験は、身体は仮死状態で魂の一部みが生動性を保ち、身体のあるこの世の秩序に気を使った状態にあってか(気を使わないひとは、即、身体を棄ててあの世に直行する)、時間の秩序も踏まえているように見える。これと同じく身体を放置して魂のみの自在に動くものに、元気な者の幽体離脱がある。これは、身体が元気に眠っている間に魂だけが起きて身体から脱け出す体験で、そう長くは身体を放置もできないから、一般的には時間は臨死体験どころではなく短時間で、あわただしく近所に出歩いて悪戯をする程度のものが普通であり、その時間経過は、起きているものがすることと似通っている。身体は眠った状態に残して、金縛りを少し進めて身体的束縛を離れえた魂が、その秘めた願望あたりを実現する幻覚体験をもつのである(もちろん、その時は、幻覚とは思わない。後に幽体離脱していたときに悪戯をした相手にこれを聞いてみると、知らないというから、幻覚だったと自覚することになる)。 
 幽体離脱して何日も過ごすとか何年も離脱していたといった話は一般的には聞かない。一晩の睡眠中での出来事というのが基本である。ただし、何日か続くことがあっても、眠りの特殊な在り方として、可能ではあろう。冬眠・夏眠する動物がいるが、ひとでも、それの強いられる状態になれば、その能力はもっているだろうから(眠り続けるだけのことだから、そんなに高度に特殊化した能力はいらないであろう)、その休眠期間は、まどろみ状態になっている感じで白昼夢をもっとリアルにした妄想を抱き続けて楽しむといったことがあってもいいのではないか。『今昔物語』に賀陽の良藤が二週間ほど狐の巣で狐と夫婦になって生活する話があるが(『今昔物語集』巻第16第17話 参照)、これは、幻覚状態が二週間つづいたということであろう(行方不明になって13日目に発見されたが、良藤は、13年の月日を彼女(狐)と過ごしたと述懐している。この世の1日が、その幻覚の異世界の1年という計算になる。ここでは異世界(畜生界)の方が圧倒的な速度で時間を進めている)。あの世に遊ぶというようなことは、幽体離脱では一般的ではないが、妄想・白昼夢と同じく、行こうという願望をいだくだけで、行先をあの世にすることは簡単にできるし、若干長めの離脱も、工夫すれば、できるのではなかろうか。
 幽体離脱では、身体を放置して魂だけが抜け出した状態だから、身体的制限は気にせず、魂の描くことを自由自在に体験でき、あの世に行って見たければ、そう思うだけで、日頃の想像や白昼夢と同じで、それが実現する。身体的制限がないから、かぐや姫の月世界にいくのも、海中の竜宮にいくのも、身体が息をする必要もなく自由に実現できる。異時間体験にしても、したい、そうありたいと思えばそうなるから、あの世の永遠も時間の急速度の進行も体験可能であるが、自作自演のバーチャル体験だから、そういう世界自体の真実の体験・検証にはならない。浦島の場合も、ひょっとすると、亀をつりあげて大海原を漂うなかでの、賀陽の良藤に似た朦朧体験だった可能性がなくもない。ただし、そうなると、異時間体験は、この世のわずかな時間(朦朧体験のわずかな時間)があの世の長大な時間(乙姫さまとの何年もの生活)となり、「邯鄲の夢」「一炊の夢」式のものになって、浦島とは、逆の異時間体験になってしまう。
 幽体離脱の得意なひとのなかで、俗っぽいところへ離脱しようと思わず、身体を抜け出した魂をもって、身体・物体を超越した理念界のようなところに行って見ようという人があるなら、プラトンのイデア世界のようなものを見つけて体験できるのではないか。ひとの心の中には、自身の知りえていない、自覚できていない膨大な情報の世界が存在している。ソクラテスは、知るとは、想起(アナムネーシス)することだといったが、目をつむって省察すれば、そういう未知の世界の一部が見えてくることである。この未知の世界に踏み入ることが、幽体離脱をもってすれば、楽々と出来そうである。イデア界は、永遠不滅の属性をもつから、生命の不老不死をいう天国の永遠とは別種のイデア・理念の永遠というような世界を見出せる可能性がある。新プラトン主義のプロティノスとか、神秘主義のヤコブベーメなどは、それに類似した体験をした人だったのであろうか。かれらは、そういう永遠の世界を見出していたのかも知れない。イデア界あたりは、幽体離脱をした魂をもってチャレンジしていける永遠に類した世界になりそうである。