「大胆な、無鉄砲な!」といわれる。

2012年06月28日 | 勇気について

4-2-7.「大胆な、無鉄砲な!」といわれる。
 大胆な振舞いに対して、軽率・無鉄砲と批判されることがある。慎重に思慮してという慎重居士からいうと、そういうことになる。危険は、未来の禍いの可能性であり、いくら思慮してみても、未定で不明瞭にとどまるところが残る。どう危険が具体化するか、対決してみないと分からないところもある。自然災害での危険は自分の出方にかかわりなく確定していることが多いが、人や動物の危険は、こちらの出方で大いに変ってくる。相手に比して弱いということで危険と思い勇気を出し大胆になるのであるが、実際には、見掛け倒しで自分の方が強かったということになるかも知れない。大胆に攻撃姿勢をとると、相手の方がひるんで、危険な態度を引き収める可能性もある。
 無思慮で軽率では問題だが、向こう見ずで無鉄砲になるのは、熟慮した後のことであれば、やむをえないことである。知りうることには限界がある。こちらの出方で相手(の危険)も変ってくる。どこかで決断して実行に踏み出すことが必要である。無鉄砲で向こう見ずということが、大胆さには、ともなう。危険は、未来の禍いの可能性として、どう展開するか未定で見えないところをもつ。見えない向こうは、それとして受け止めて、それ以上の知を求めず、どこかで決断し実行に踏み出すことになる。向こうを見ない「向こう見ず」になるところが生じる。余計な向こうを見ないで、向こう見ずになれば、その向こうを見ての想像から生じる恐怖ももたないですむ。恐怖が少なければ、それだけ、こころは、萎縮し臆することから放たれて「放胆」になり、大胆に危険との対決に突進できることになる。
 もちろん、勇気の大胆さは、無謀な無思慮な無鉄砲さではない。熟慮をつくし人事をつくしてのものであるべきである。見境ない無謀・短慮の盲進の暴勇では、どこに攻撃の矛先がむかうか定かでなく、それでは、危険なものを排撃することはできない。いくら危険に無頓着になるといっても、ここを狙ったらいいとばかりに危険におのれをさらす愚かな無防備状態になるのでは、命がいくつあっても足りないこととなる。十分に深慮遠謀をもった上での、しかし、躊躇せずの、危険に賭ける英断が、大胆さであろう。
 果敢の勇気とくらべると、大胆の勇気は、同じく危険への積極的な対決姿勢をもつのではあるが、受動的静的で沈着という特徴をもつ。果敢は、危険なものの排撃にと激しく闘争心を燃やすが、大胆さは、危険なものを前に、これを小と見下し「来るなら、来てみろ」と受動的であり、危険に賭ける。大胆さは、危険からの防御について、無防御に平然と身をさらすにとどまるが、果敢さは、危険なものを攻撃し排撃する攻勢的なものであろう。大胆さは、戦闘場面では果敢とともにあるが、そこでも中心は、反撃されて危険になるときの受身・防御に関わる。それに無頓着で、よけいな先・向こうなど見ることはいらぬことと、向こう見ずに大様にかまえ、「ここは防御など無用。果敢さよ、ひるむな!」と沈着さをもって危険と対決するのである。


「先手なし」の非暴力主義も大胆である。

2012年06月25日 | 勇気について

4-2-6-2.「先手なし」の非暴力主義も大胆である。
 米国の西部劇では、決闘する善悪の二人の間では、悪者が先手をとる。撃たれる恐怖に負けた悪者がさきに銃を抜く。先手をとらない善人の方は、危険に対して大胆な勇気を見せることになる。だが、悪者が銃を取り出すのを見て、それより早撃ちの能力をもつ善人が先に撃つことができて、悪者が負けるということに決まっていた。肝心なところでは善人が先に撃つから、やはり先手であろうか。
 先手がとれないものとして、原爆のあげられることがある。「核の先制攻撃」はしないという核保有国もあるが、米・中・露の間では、しないのではなく、出来ないのであった。使用したら、即報復する態勢にあるから、双方の国が消滅することになるのである。しかし、核をもって反撃できない国に対しては、核を含めての先制攻撃は、有効である。攻撃で被害を被る前に、相手を無力化することは、つまり、先手必勝は、核の時代でもオーソドックスな戦い方である。
 不当な攻撃があってその後反撃をするはずの「正当防衛」は、当然、先手ではない。しかし、殺された後では、正当でも防衛・反撃は不可能である。後にといっても、被害を実際に受けるのを待つ必要はない。禍いが生じる前、つまり、その危険が生じているだけの段階で対応しなくては間に合わない。危険のレベルでの反撃は、相手からはまだ攻撃されてないのに、自分は攻撃して相手に(攻撃できないような)ダメージを与えることである。ということは、実質的には、「先手」をとることになろう。もちろん、相手からの危険が確実になるのを待つ必要があるから、その間、恐怖をじっと忍耐するという大胆な勇気が求められる。
 戦いでは、一般的には先手必勝だが、空手は、逆で、「空手に先手なし」という。つまり相手に先手をとらせる。攻撃ではなく、防御からはじめるということである。空手は、武器をもたない「空」の手をもってする。可能なら戦いをしないで済まそうということであり、防御に徹する非暴力主義の精神をもつ。攻撃による危険を重々承知しつつ、大胆にこれを受けとめて、その危険を小としていける防御の対応につとめる。その理想は、攻撃をかわし続けて、相手の攻撃意志の消滅をもたらすことである。
 空手の精神の真髄は「先手なし」なのだろうが、合気道と比較すると、なお攻撃的である。突く・蹴るの稽古は、かならずしも相手の攻撃を先行させたものではない。だが、合気道は、相手の攻撃を踏まえ、これを利用するわざになるから、先手自体が不可能である。護身術に徹した合気道は、相手の先手・攻撃がないと、わざ自体がなりたたない。「先手なし」の空手の精神を一層、徹底しているものといえよう。合気道や空手は、危険を撃破するのではなく、これをたくみにかわして、非暴力主義をどこまでも貫こうとする。敵にも人間的尊厳を配慮した、ヒューマニズムの武道である。


臆病ゆえに、先に手を出す事もある。

2012年06月21日 | 勇気について

4-2-6-1.臆病ゆえに、先に手を出す事もある。
 戦いでは、大胆なものが、危険に無頓着で、防御無用と即攻撃に向かうから、先手必勝で手をだす。だが、臆するからこそ、先に手をだすこともある。大胆な方は、危険に無頓着で危険排除の必要はないと平然としているのに、臆病な方は、危険を大とみて怯えることがある。この臆病な者が、危険を除去しなくてはと焦り、恐怖・不安に我慢できず、危険排撃の振る舞いに出る、つまり、先に手を出してしまうのである。勇者は、恐怖によりよく忍耐できるが、臆病な者では、過度に恐怖して、我慢の限度がすぐきて、恐怖に耐ええず、これから逃げたい一心になる。恐怖にとらわれて、冷静な判断がふきとび無謀状態になる。敵が攻撃してこないので、その強烈さの具体も描き出せず、危険なものの排除の衝動のみが台頭してきて、短絡的な行動に出る。臆病で過度に恐怖する者が、先に手を出すことになる。
 戦争で、待ち伏せしていて、チャンスが最大になったときに攻撃することがある。じっと攻撃を我慢して逸らないようにと忍耐しているのだが、敵兵が近づくほどに、恐怖は大きくなってくる。そのとき、怖くて、危険を主観的に排除することしか頭になく、反撃されることなどを思う余裕のない者が、無謀に、恐怖ゆえに、早まって弓や銃を発射してしまう。折角のチャンスを逃してしまうのみか、居場所を知られて攻撃を受けることになってしまう。敵が強力な攻撃をしてくるときには脅えてなにも出来ない臆病者が、攻撃がないので、その危険の具体に思いが及ばず、焦って、待ち伏せという策に辛抱できず、怖さをはやく片付けたいばかりに、先走ってしまうのである。
 喧嘩でも、ときに臆病者の方が無謀で狂暴な事件を起すことがある。臆病だと、危険を過度に見てしまう。大胆な相手は、まだ大したことではないと見て危険度を低くとらえているので、低レベルの構えしかしない。だが、臆病な方は、過度に危険と想像するので、その危険想定に見合った対応をしてしまう。相手は素手でと思っているのだが、臆病な方は、過度に危険とみて、それに見合うナイフをもってすることになる。恐怖にこころがとらえられて冷静さを失い、怖いものの排除のみに気を奪われて、相手の攻撃がどの程度になるかなど念頭にうかぶこともなく、無防備の相手に対して恐怖に震えながらナイフを使用する。臆病ゆえに、早まってしまうのである。
 大胆な者が先に手を出すのは、危険に無頓着で、恐怖によるためらいがなく、攻撃となれば、ストレートに先手をうつのが得策だからである。だが、臆病者が先に手をだすのは、逆で、過度の恐怖に陥ってしまいこれに耐えられないからである。相手からの反撃を思う余裕もなく、恐怖させる危険なものを排除したいという一心で、見境なく短絡的に、思わず手を出してしまうのである。


先手必勝と大胆に

2012年06月18日 | 勇気について

4-2-6.先手必勝と大胆に
 大胆になると、目前の危険や恐怖を小・些事と見なし、危険に臆したりためらうことがなくなる。危険に防御の構えをとることは、不要とみなす。したがって、対決し攻撃するべきであれば、防御態勢を構築することなく、ストレートに即時に攻撃にでる。危険に躊躇することなく、なすべき行動をただちに展開していくことになる。相手の出方を見極め、その対応を待ってから、その後から出ようというのではない。それでは、大胆ではなく、慎重ということになる。大胆さは、ためらうことなく即実行に出ることであろう。危険無視であり、先手をとるのが原則となろう。
 戦いは、本来的に、先手必勝である。攻撃にでれば、相手はそこで防御に手をまずとられるから、攻撃力をそれだけ失うことになる。第一、防御の構え自体ができていないこともあろうから、そうなると、不意打ちになる。大胆に奇襲攻撃をかければ、防御の態勢すらもとれないで敵は遁走することになる。そこまでではなくても、一般的に先手にでれば、こちらの好都合の戦い方がとれる。陣地も有利な場所を確保できる。「兵は先を貴ぶ(兵貴先)」(『尉繚子』「戦権篇」)、戦いは、先を尊ぶのである。
 危険があると、臆してためらい勝ちとなる。それがないとしても、ひとによっては慎重になることがある。戦いでは、生か死かとなることもあり、短慮な対応では、取り返しのつかないことともなる。それなりの慎重さは大切である。が、それが過ぎると、おくれを取る。優柔不断では、いつまでたっても、事は決することができなくなる。戦いがはじまっていたのだとすると、防御にまわるのみとなって、勝利することはできなくなる。大胆な勇気は、そうならないようにと、慎重居士にならないようにと、先手を大切にする。勇気を必要とするのは、弱者である。強いものは、普通に構えて勝てるが、弱者は、それでは必敗である。勝てるには、精神的に、強い相手に勝る勇気のエネルギーをもってしなくてはならない。大胆に、危険をものともしない対決・攻撃の態勢をとって有利にことをはこべるように、先手必勝の対応をする。 
 危険に賭ける大胆な勇気は、強いからではなく、本来弱いからそれが必要となるのである。弱くても、相手が戦いの、防御すらの構えももってなければ、有利に戦い、勝つ事が可能となる。奇襲・電撃作戦で、先手必勝を狙う。かつ、勝ったら即刻、これも大胆に引き払うことがいる。戦争自体がもともと非常のものとして、短期決戦が原則だが、勇気がいるような弱者の戦いは極力短期に終わらせる必要がある。本来、弱いのだから、相手が戦う体勢を本格的にとると、勝ちはおぼつかなくなる。第二次世界大戦で、日本やドイツは、弱い後進国だったが、奇襲、電撃的進攻で緒戦は勝ち続けた。弱いことの自覚が薄れていったこともあろうが、引く勇気をもてず、敗北となった。大胆な勇気は、攻撃する場面以上に、引くことも大胆に、躊躇せず行わなくてはならない。


「勇敢」の大胆との異同

2012年06月14日 | 勇気について

4-2-5-1.「勇敢」の大胆との異同
 危険なものに無頓着という大胆さだが、危険を思うときには、その禍いを想像してこれを覚悟することがあろう。その危険に関する覚悟のその悲壮面を意識させる勇気・大胆さがあってよい。「勇敢さ」は、これを含蓄した勇気になるのではないか。勇「敢」の「敢えて」は、その悲壮な思い、覚悟をふまえ、その穏やかならざる心にもかかわらず、敢えて、ということであろうか。大胆さは、危険を覚悟しており、その悲壮面をもっているはずだが、それを表には出さない。むしろ、淡々としていて、否定的な危険の結果などには目をくれることなく、楽天的に危険に無頓着ということになろう。その悲壮面、覚悟の面を「勇敢さ」が語るのである。
 危険におののき、悲壮な思いにもなりがちなところで、躊躇させるもののある場面で、これらを敢えて断ち、覚悟し、決断し、思い切って一歩を踏み出すのが勇敢さであろうか。「大胆」は、大きな心(=胆)であり、大様さがある。些事に拘泥することのない大きなかまえをもつ。だが、勇敢さは、こだわりを残していて、恐怖も強く、悲壮になりつつ、しかし、敢えて、これらを抑制し、断ち切り、決断して危険に対決する覚悟を決めたものであろう。猛犬に襲われている我が子を救うために、猛犬に対決する母親は、勇気をふるう。その有様は、「大胆」というよりは「勇敢」の方がふさわしいであろう。大胆なのであるが、「大」「胆」では、大やかな心では、強すぎるのではないか。弱さを、悲壮の思いを感じさせるものとして、「勇敢」で形容する方がぴったりするのではないか。
 勇敢さは、放置できない大きな危険とこれへの不安・恐怖を前提にしつつ、これにとらわれることをやめて、覚悟をきめて思い切った勇気ある態度をとる。思い切り難いものを思い切るという辛い思いがあり、悲壮で、かつ強い闘志がそこにはある。大胆のみならず、果敢の攻撃的な勇気においても、「勇敢」はいう。「勇敢にも猛犬のそばに立つ」と大胆さをいうのみでなく、「勇敢に猛犬を殴りつける」と果敢な攻撃の場にもいう。危険な反撃が予想され攻撃にひるみがちになるような場面で、敢えてそれを無視し覚悟してということで「勇敢」が言われる。臆し躊躇するような場面で、恐怖し悲壮な思いをいだきつつも、これを断固として抑圧して、敢えて、勇気を出すという勇敢さである。
 勇敢の悲壮感は、勇気をふるう当人のものであるより、これを見て評価する者の思いいれということもある。危険に大胆に対決する勇者を見て、「自分なら、ためらい恐怖し悲壮になる。それを断ち、敢えて決断することになる」という気持ちを、その勇者に投影するのである。勇敢な当人は、あっけらかんと危険に無頓着で大胆なのかも知れない。それを見て感服している者だけが、悲壮な思いをこめて、「勇敢」なひとだと高く評価するようなこともありそうである。