苦と快の計算は、かならずしも単純ではない

2024年07月09日 | 苦痛の価値論
4-1-1-1. 苦と快の計算は、かならずしも単純ではない   
 快と不快(苦痛)の差し引きを計算する、いわゆる快楽計算は、一見分かりやすく単純だが、ものによっては意外に厄介な計算になることもありそうである。若干渋みの残っている柿を食べるとき、甘味は食べることを誘うが、渋みがこれを拒否する。甘味(快)や食欲が勝てば、これを食べるが、渋み(苦痛)が勝ってくると、食べるのを止める。食べながら、快楽計算をしていると言えるであろう。だが、快不快の両方が二つの事柄とならず、並べて計量とはいかない場合がある。チョコレートなど、不快の苦味があっての得も言われぬ独特の美味である。苦はここでは美味にプラスする価値となる。単純に苦と快の差し引き計算とはならないであろう。それでも、味覚の場合、快も不快もあるからいいが、皮膚の知覚の場合、損傷での痛みはあるけれども、それに対応する快は存在しない。無事の他の部分は、無感覚にとどまっている。これが快楽を感じるのだとすると、全身、快だらけになってしまう。苦痛のみがあるのである。皮膚においては、苦痛のみ、回避・逃走のみが反応として存在する。皮膚の苦痛減少、解消のための反対の快は、皮膚のもとには存在しないとすると、どう計算することになるのであろう。子供に良くやる手は、快のアメを同時に与えて、皮膚の痛みの気を紛らわせることであろうが、大人の場合は、子供だましは効かない。 
 それでも、味覚の(ハチミツの)甘さの快と皮膚での(蜂に刺される)苦痛のどちらかを選ぶということを、熊も、おそらく空腹の人間も、せかされて実行するはずである。異質のものの計量は、等質化してなる。別領域の快不快(苦痛)を計量できるようにと、なんらかの形で等質化して量化し、その大小を比較して選択する。幸い、脳内では、快不快はどこのものであろうと同じように、脳内での生理的反応をもち、快楽様物質、ドーパミンなどのホルモンを出したりしていることである。そこで、あらゆる快不快は等質化されているから、快不快で比較は可能になるのであろう。 
 あるいは、快不快は単にその受容だけというのではなく、それらの心身の一般的反応として、苦痛からの逃走・回避の衝動と、快に魅され、これを引き寄せたいという衝動・欲求が大きいモメントをなすこともあろう。逃げようか、近づこうかと逆方向の意思をいだく。少々の苦はあっても、どうしても欲しいものを入手したいということで、快が勝てば、苦痛を甘受する。両方が拮抗すれば、立ち往生である。熊は、蜂に刺されて痛くて回避・逃走の衝動をもち、他方で逆にハチミツに魅されて何としても食べたいという食欲の強さとの拮抗状態になろう。快不快は、どんなものであれ後退と前進の計量となる。快、前進への力が大きければ、あるいは、後退を抑止するほかの要因(空腹の子熊がそばにいるなど)が大きくなっておれば、苦痛の抵抗を抑止しつつ前に進み快を実現する。
 快が複数あるときは、より快であろうものを選ぶ。だが、拮抗した快であった場合は、まよってどちらも選べないということがあろう。大魚は、小魚をとる。後者が大群であった場合、いくらでもとれそうなものを、意外に簡単にはとれないのだという。おそらく、たくさんの快が、同じ快が並んでいて、あれもこれもということで、どれかに決められないのであろう。同じ無数の快候補の中から、より美味しそうなものではなく、より捕食しやすいものを探すということになろうか。
 苦痛も一度に多く生じるようなことがある。怪我など、あちこち同時に傷つくことがある。それも、優先順がおのずからにある。大きな苦痛がまず意識される。これが片付いたら、小さな傷の痛みに気づくようなことになる。生理的にうまくできていて、小さい苦痛は、大きな苦痛の前では、小さくなっていて意識から消えている。大きな苦痛の処理が終わって楽になってから、意識に登場して、治療を求めることになる。意識してする快不快の差し引き計算のもとで、二番目の苦痛は、計算にどうかかわるのであろう。
 快は、いま快を抱いているよりは、苦痛を乗り越えたあと得られることが多い。つまり、苦痛は現在感じているもので、快は、単なる想像でしかないということである。回避すべき緊急信号を出している苦痛であるから、快は差し置いて、まずは苦痛対処ということになる。これが、苦痛と快楽の両方ともが未来形で単に想像上で比較する場合は、苦痛は、なお深刻でないから、快の方を優先することがありそうでもある。だが、苦痛を媒介にしてそののちにのみ、快が確保できるという多くの場合は、まず、苦痛を現実的に甘受させられるのであり、激痛にでもなれば、もうその先の快楽などどうでもいいと思いを変えることも生じそうである。
この記事についてブログを書く
« 動物的自然における苦痛甘受... | トップ |  快楽計算ではなく、価値計算... »