主観的な苦しさと、反省的な辛さ

2022年06月28日 | 苦痛の価値論
2-5-3-1. 主観的な苦しさと、反省的な辛さ 
 価値あるものを獲得しての主観的感性的な「嬉しさ」「幸せ」に対して、反省的理性的な「喜び」「幸い」があるように、「苦しさ」の主観的感情に対して、「辛さ」は、実践理性(意志)的で反省的なものになるように思われる。主観的に感受する感情面を苦しさが語るのに対して、辛さは、主観的に感じる苦しみの面に一歩距離をとって、客観的に反省的になって意識する。苦に耐える個我は、もうぎりぎりになり忍耐できず撤退しかけているのを、なんとか高所より意志が押しとどめようとする辛さである。苦を耐えきれずということで、意志の辛の高所にいたり、精神的な高みから苦痛を受け止め耐えるのであり、敗北を予期しての悲しみの契機も含まれることとなる。苦しみに耐えるものが、耐えきれず後退し、自己の内奥にと引き下がり、理性意志のもとにまで退却して、その内奥の最後の砦となる高尚な精神的自己のもとに立ちとどまって、最後の決戦をしようというのが辛さの段階であろうか。
 「寝苦しい」「寝づらい」、「息苦しい」「息しづらい」では、「苦しい」は、嫌な受動的な感情の体験内容を語る。「つらい」は、実行へと力む意志のもとでの困難な状態になろうか。痛みは、損傷の部位に発する。苦しさは、欲求主体としてのこの私が受け止める。辛いのは、この痛み・苦しみを受け止めて、苦痛に埋没せず高みに立脚しつつ逃げず耐え続ける意志主体の私である。
 子供は、痛みをもち苦痛となり、「痛い」「苦しい」という表現もする。だが、「つらい」というのは、おそらく、相当に大きくなってであろう。小さな子が、痛いというかわりに、「辛い」というと、大人のまねをしていると感じることであろう。小さな子が難病に苦しんでいるとしたら、「苦しい」「痛い」を越えて辛いのだが、「つらい」とはなかなか言えないのではないか。それをいうぐらいになると、ひととしての理性的な高尚な意志をもってその高みから苦痛に対決しえていると感じるのではないか。あるいは、子供の内奥にある高貴な反省的な精神が早々と顔を出さざるをえなくなり、これが先走って、つらいと漏らすのである。

精神的内奥に引き下がっての辛さ

2022年06月21日 | 苦痛の価値論
2-5-3. 精神的内奥に引き下がっての辛さ
 苦痛のぎりぎり・極限に「辛さ」をしばしばいうが、それは、苦痛から逃げようという衝動をなんとしても抑えねばと、意志が前面に出て耐える場面であろう。苦痛に耐える日頃の自己がぎりぎりになって、これから一歩さがり理性意志にまで内的に引き下がっての、最後の砦としての精神的な自己において耐えていくとき、辛さが出てくるとも見られよう。観想し超越した理性的精神の高みから、己の通らぬ阻害の辛さに耐えるのであり、さらには、この耐えがたさに悲観的なものを予期する状態でもあろうか。「つらい」という言葉は、子供には似合わないように感じられる。
 映画に『男はつらいよ』という喜劇のシリーズがあったが、この言葉は「男は苦しいよ」とはちがう。男は「苦しいよ」では、主観的な受動的感情に傾きすぎるが、「辛いよ」だと、己の尊厳の核をなす精神(理性意志)をもってぎりぎり耐え抜いて、敗北していく悲しい姿が見えてくる。ぎりぎりの忍耐において悲壮な思いをもって、逃げてはならない、まだ断念はしないぞといった勇気・気力を振り絞っているが、その思いが通らない困難極まりない状態である。そういう苦難のこころをそっと隠して周囲に心配かけないでおこうといった心構えももつはずの「男のつらさ」の(辛くなると必ず逃げる)コメディ版があの映画であった。 
 「苦しい(物質的経済的)生活だったが、(精神的には、辛くはなく)充実感に溢れていた」「苦はなく楽な仕事だったが、精神的には辛い仕事であった」と苦と辛さは区別される。「苦しい一月」「つらい一月」(「立場」「生活」)のちがいは、辛さが、ぎりぎりの限界の耐え難い大きな苦しみをもつとともに、自己を統括する内奥の精神までが懊悩するところにあるのであろう。価値喪失への悲しみ・無力感が加わり、かつ、これをなお断念せず悲壮の思いで耐える状態である。「辛い」は、「立場」「一ヶ月」を形容するとき、苦しみが大きくぎりぎりになったり、苦は気にならないが意志を貫こうとするのにこれが困難になってきて、尊厳をもった己の精神、理性意志が対処していくに、その尽力も限界となってきて、泣きたいようなものになろうか。
 大まかに言えば、痛みは、身体損傷での痛覚を中心にした火急の対応を迫る疼痛で、苦しみは、欲求・衝動等の思いの抑止に感じる抑鬱的な苦悶で、辛さは、意志を中心にしてその実践的営みのかなわぬところに抱く内奥の精神の悲痛だということができるであろうか。戦争で例えれば、痛みは、前線で傷つく兵士のもので、苦しみは、それを統率しながら戦うリーダーのもので、辛さは、前線の本部で、ダメージを受けた我が子のような兵たちを指揮する指令官のものになるのであろう。

意思がぎりぎりを尽くしても、思うようにできない辛さ

2022年06月14日 | 苦痛の価値論
2-5-2. 意思がぎりぎりを尽くしても、思うようにできない辛さ
 「生きているのが苦痛だ、苦しい」は、重病に息絶え絶えで消耗しているようなときにいう。これに対して「生きるのがつらい」になると、懸命に生きようと意思し努力しているのに、その意思のぎりぎりをもってしているのに、思うようにならず、悶え悲嘆し疲労困憊状態になっている姿が浮かんでくる。苦しみが、苦痛のその主観的感情内容自体を語るのに対して、辛さは、苦しくて思うようにならないことのその意思・営為の困難さを語るのであろう。あらゆる手を使って尽力しているのに、その思いは阻害されて通らないというその能動的実践的な窮状を語る。もはや、残された妙手は存在せず、主観的な苦しさを踏まえつつ、焦燥し煩悶しつつ、その先には、破綻が迫っているそのぎりぎりにある状態を辛さは語る。辛さは、主観的に苦しみを持ちつつ、さらには、敗北の迫っていることを踏まえての悲しみをも感じることであろう。苦しみは欲求等の思いへの阻害を感じるものだが、辛さは、その阻害・妨害に対決した意志の貫徹がかなわなくなってのその不如意の悶えを語り、その絶望的な状況に悲嘆の感情も交えた苦痛を語る。
 自分の子供が難病で、「痛い」「苦しい」と泣いているとき、親は、自分ではなにもできず、いてもたってもおれなくなる。その苦しむのを見ながら、出来れば代わってやりたいと思う。そのとき、親は、主観的に「苦しい」のだが、なんといっても「つらい」と感じることであろう。何とかならないかと思い、強い意思(意志や願い)をもってかかわり続けるのだが、その願い、思いとその営為は、空転するのみであり、いたずらにもがき悶えるのみである。意志は、行為しようとするのだが、何もすることができず、代わることが出来ない、その不可能の思いを、どこにもぶつけることができず、煩悶、焦燥し、辛い状態になる。自分の無力さに、無能さに敗北を思い悲しくもある。苦しみを深め絶望的な自身の無力に悲嘆して、「つらい」と胸をかきむしる。
 辛さは、苦しみ・痛みの度外れというよりは、別の領域の感情、心的状態となる場合もある。「聞きづらい」「聞きにくい」という。それは、苦しさや痛みが激しいからそうなるのではない。ここでの「辛さ」「難さ」は、意思、実践的な思いの通らないことが前面に出る。苦しさは無くても良い。聞くとき、苦しさは、そこにはないが、聞こうとする意志の阻害された聞こえにくい状態を、それらは語る。苦しさ・痛さの極限にいうのではない。ひとの能動的な意思・営為の通らないこと、その困難さを語る。「寝苦しい」「寝辛い」「寝難い」という場合でも、その「辛い」は、その苦しさが激しいものになっていうわけではない。寝苦しいは、主観的に苦痛の状態を語る。だが、寝辛い、寝難いは、苦しさがなくはないだろうが、ときには、苦しさは、なくても言いうる。背中を傷めていて、背中を下にして寝ることができない場合、その姿勢では寝難い、寝辛いということになる。が、寝苦しいかどうかは、不明である。つまり、苦が極端になって辛いのではなく、実践的に意思し営為を貫こうとするのに、そのことが行いがたいという不如意の事態に、意思の悶えに、その辛さはいう。暑さの苦痛については、「暑苦しい」は言っても、「暑つらい」は言わない。寝るとか息する、見る、聞くとちがい、暑いは、単なる受動状態で、意思の能動的な営為・行為とはならないから、言わないのだろう。辛いは、ひとの実践的能動的な願い・意思の営為が抵抗をうけてその思いが通らない状態にいうのだろう。苦・痛の極限には、意志が乗り出して耐えねばならず、そこでの意志の悶えとしての辛さをもって、そのぎりぎりの苦痛を「辛い」と表現するのではないか。

痛み・苦しみの限界としての辛さ

2022年06月07日 | 苦痛の価値論
2-5-1. 痛み・苦しみの限界としての辛さ
 息をとめていると苦しくなる。その苦しみが増してくると、最後は、辛い状態になる。苦しみのぎりぎりの限界が辛さということになる。忍耐は、苦痛・苦しみにするが、その苦しみは、忍耐し続けているとしばしば大きくなり、その我慢は限界になっていく。そのぎりぎりの限界において辛さが登場してくる。苦しみに我慢するが、その持続が困難な状態になってくると、もう駄目だという思いが生じてくる。この苦しみのぎりぎり、苦しみから逃げないで我慢しつづけることのぎりぎりに、辛さを感じる。呼吸停止の苦しみは、息したいという欲求が呼吸のための筋肉を動かそうとするのを、意志が抑止して、その欲求抑圧に感じるもので、肺や喉に発して身体全体で感じる生理的なものだが、辛さは、その苦しみへの平常的対応では無理・限界となって、自身の精神の内奥からの意志が前面に出てきて、その苦しみの受け入れの断念を阻止し続ける段階になるのであろう。通常の限度を超えた苦しみを精神(意志)の力みが引き受けての辛さである。辛さの感情は、心身全体での苦痛反応であるが、それを可能とするのは精神・意志にあるといっていいであろうか。
 痛みでも、耐えがたさの最後は、辛さになるであろう。足を麻酔なしで切断せねばならない場合、激痛に耐えることになる。それが瞬時なら、「痛い」で終わるが、続くのだとすると、だんだんに、疲労困憊状態になって、痛みは、「辛い」ものになろう。逃げないで苦痛を受け入れ続けるのだが、激痛甘受の持続は、意志が自身の逃走衝動を抑え続けてのことで、激痛が長くなるほどに逃げ出したい衝動も大きくなろう。弱気になりだし、逃げようかといった思いを持ち始めることでもある。激痛から生じるその弱気の思いを抑止し、歯を食いしばって耐える最後・最内奥の精神(理性意志)がここに登場する。その困難な状態とそこに生じる感情が辛さということになろうか。
 「まま子に辛くあたる」という。その辛さは、冷酷無情ということである。激しい苦・痛をもって当たるのである。自身が辛いという場合も、自身のぎりぎりのものになり、自身に、冷酷に対処して辛く当たり、激痛や苦悩に耐えさせる。辛さは、激しく厳しい、全身全霊をもってしなくてはならない、ぎりぎりの苦痛であろう。
 苦しみがぎりぎりになっての辛さなのか、そういう段階になると耐える意志が力むことで、その意志の力みの全力を尽くす営為に辛さを抱き、この意志の辛さを、限界を超えた苦痛に投影して、辛いと表現するのであろうか。意志が力まなければ、それ以上は無理と、耐えていた苦しみは放棄され終わりとなるから、意志がこれを引き受けて、苦しみの限界を超えて辛さとなるものに挑戦するのであろう。