鈍感力は、気にしない工夫・習慣を重ねることで培われる。

2012年10月26日 | 勇気について

5-7-3.鈍感力は、気にしない工夫・習慣を重ねることで培われる。
 勇気は、恐怖に我慢する。その恐怖を小さく抑えて、確実に冷静に危険と対決できることが望ましい。危険には、過度に恐怖する傾向があるので、鈍感力が求められる。だが、戦争になれば、みんな、死にすら鈍感になる。優れた鈍感(への適応能)力を皆もっている。要は、危険と恐怖の経験を反復しイメージトレーニングもして、過敏にならずに済むようにと慣れることであろう。
 恐怖の感度への鈍感ということよりも、そのあとで反復して不安をいだき、悲観的に気に病み続けることがないようにという、心配性の反対の鈍感力を求める場合が多いかも知れない。恐怖・不安への忘却力である。これも経験して慣れ磨くものであろう。危険を些事と解釈しなおしたり、どうにでもなれと居直ったり、他のことに気を向けることで恐怖を忘却する工夫を反復することである。それが習慣化されるなら、気に病む癖は小さくなって、無頓着の鈍感力が身につく。あすはあすの風がふく、ケセラセラを習慣化することである。
 危険を感じるのは、自分の守るべきものに対してである。それがなくなれば、(守るべきものを喪失し絶望した者が時にそうであるように)自分の死すら平気になる。仏教では、無我をいう。おのれを空しうすれば、危険も恐怖も消えていく。世界も空となれば、危険も空無となる。そういう心境に近づき慣れていくなら、鈍感力の最大、恐怖も不安もない大安楽の境地も可能となろう。