果敢さへと鼓舞するもの。

2012年07月30日 | 勇気について

4-3-5.果敢さへと鼓舞するもの。
 果敢さは、危険と戦うのであり、困難を生じ犠牲がともなう。その犠牲に報いるものがあれば、果敢さは、鼓舞される。果敢な戦いの目的・意義が大きければ大きいほど、果敢さも大きくもてることであろう。火事で、大切にしていた時計が持ち出せてなくても、取りに入る気にはならないが、子供が取り残されていたら、果敢に火の中に飛び込んでいって捜すことになろう。
 勇気にかぎらず、鼓舞・叱咤激励というと、アメとムチが、賞罰がよくあげられる。ひとの欲求・衝動(低いところでは快)とその反対(不快)を利用して、その自発性の尻をたたき、前に引っ張っていくのである。果敢さでもこれが効果的である。果敢になれば、大利が可能となるのであれば、大いに無理もできる。賞金の大きい競技では、そうでないときと違った勢いで果敢になる。ムチも、それが嫌で避けたいものであればあるほど、尻を叩かれて、果敢になる。「この大会で負けたら補欠に格下げする」と言われたら、必死になって果敢に戦うことであろう。
 ひとは自らを内的に鼓舞するものでもある。使命感とか信念は、自身を駆り立てる。自分にしかその使命は実現できないと思えば、そのことに責任の重さを感じ、よろこんで犠牲になろうとすることであろう。ひとは、理性的精神的存在である。使命や信念以外でも、その果敢な挑戦が正義・フェア・義務等と価値付けられたものならば、果敢さは、より輝かしいもの・重大なものとして、一層奮起することであろう。
 社会的存在として、ひとは、自分の社会的評価、席順を気にする。果敢な勇気も、この評価によって鼓舞されることになる。勇気ある者という評価自体、高い評価なので、ひとを勇気へと鼓舞する。節制する者という評価とはちがう。節制は、できて普通で、できない者は(酒、たばこのように)罰しようというぐらいである。だが、勇士は、誇らしい優秀な存在として高い社会的な賞賛を得る。国家も勇気では勲章を出す。
 さらに、ひとは、社会的存在として、力を合わせ助け合うので、集団として危険と戦う場合、支えられて各々が果敢さをもちやすくなることがある。集団の力は頼もしいから恐怖を小さくしてくれ、かつ、成員間では競争心があって、見栄もあるし、「われこそは!」と自尊心をもって果敢になる。単なる応援だけでも、戦う者は、果敢さを鼓舞される。自尊心があれば、かっこうの悪いことはできない。味方が大勢いて期待してくれていると思えば、励みになる。
 果敢な勇気では、ひとを駆り立てる感情が大きな役割りを果すことがある。果敢さは、攻撃であり破壊である。攻撃的、破壊的な感情、つまりは、憎悪、敵への嫌悪や怒りをもつなら、敵を攻撃するに果敢になる。その攻撃が「仕返し」「報復」であったとすると、攻撃は欲求となり、徹底した破壊・殲滅を求めることになる。これを放っておくと残酷な果敢さになってしまう。逆に果敢さを抑える感情、萎縮させる恐怖とか贈与する愛については、これを抑制することが、容赦ない闘争本能を開放することにつながる。


果敢さにブレーキをかけるもの。

2012年07月26日 | 勇気について

4-3-4.果敢さにブレーキをかけるもの。
 勇気は、危険なものに対決しこれを排撃するが、危険なものは、恐怖をもたらすから、この恐怖を抑えつつ、危険と対決することになる。恐怖は、危険なものの前で萎縮したり逃走して生の防衛をしようとするから、危険排除の攻撃の姿勢と反対の構えをつくる。つまり、果敢な攻撃と反対の対応になり、果敢さにとっての大きなブレーキになる。このブレーキをなくすれば、果敢さはストレートに発揮されることになる。猛犬のそばにボールが転がっていったのを取り戻そうとするとき、咬まれるかもという恐怖が出てくると、簡単に大胆・果敢になるわけにはいかない。だが、その猛犬が鎖につながれていると分かったら、恐怖がなくなるから、とたんに、大胆になり、棒切れをもって果敢になれる。大胆・果敢の勇気では、恐怖抑制(忍耐)の勇気をもてることが肝要だということになる。
 果敢さは、攻撃的な勇気であり、うちにと萎縮する恐怖がこれを妨げるが、さらには、反攻撃的な慈しみ等の感情が攻撃の果敢さへのブレーキとなることもある。自分の攻撃で傷つく相手が哀れをさそうなら、果敢さは、萎えることであろう。無慈悲になり、非情にならないと、果敢さは貫徹されにくいこととなる。果敢さへのブレーキは、この場合、慈悲心とか、同情心、敬愛の心などになる。果敢さは、果敢さを貫く必要があるかぎりでは、これらの優しい心を抑制することとなる。戦争では、自分の銃で同じ人間が死ぬのだと分かれば、慈しみの心は耐え難いものとなろう。果敢にはなれない。敵が婦女子を楯に利用している場合、か弱い者を前にして銃の引き金をひく必要がでてきたときは、これを悪魔と見なしたりでもしないかぎり、慈愛の心は、果敢になることを強く阻止するにちがいない(大胆さは、それ自体は攻撃的なものではなく、危険への無頓着という受身の姿勢にとどまるから、慈愛などの反攻撃的なブレーキは、かならずしも大胆さには影響しない。対象への慈悲・同情を禁じてそのブレーキを解いたからといって、攻撃的に容赦なく果敢にはなっても、直接的には大胆さが増すということにはならないであろう)。
 果敢さは、躊躇せず、容赦せず、徹底的に攻撃する猛烈な闘志である。だが、ひとは、慈悲心をもち、寛大になり、許すこと、容赦することのできる存在でもある。キリスト教の愛は、敵をも許す。仏教は、ひとのみか虫けらにまで慈しみのこころをもって接する。危険をもたらすものであっても、これを赦せるのがひとの愛である。その容赦を停止して、容赦しないのが、果敢さである。「敢えて」という果敢さは、この愛に背いて、慈悲のブレーキを「敢えて」解いて、無理矢理強いて攻撃する非情・無情さを貫こうというのである。
 感性的なものでなく理性的なものが、果敢にならないようにとブレーキをかけることもある。相手に恩義や負い目・借りがあることを意識したら、攻撃に躊躇することになろう。かりに、攻撃するとき、果敢に猛烈にあらゆる手段をとってということで、汚い手をつかうとしたら、ファアの精神に背くことなので、良心・良識は恥じて、ここでも躊躇することになる。


果敢さは奮迅の勢いをもつ。

2012年07月23日 | 勇気について

4-3-3.果敢さは奮迅の勢いをもつ。
 弱者は、危険な強者に自然的には勝てるわけがないから、逃走したり萎縮したり、あるいは逆らわず従順になる。だが、ひとは、理性のもとに勇気を持つことで、これをくつがえすことが可能となる。強い危険なものを凌駕することでこれを排撃できる。その凌駕分は、勇気の担う分である。勇気は、果敢さをもって、猛烈な闘志を燃やし、危険なものに勝ることができる。臆し恐怖する心を抑制し、この危険なものを激しく果敢に攻撃していくことになる。
 果敢さは、血気盛んであり、闘志満々である。強(こわ)く怖い危険なものを排撃することは、並みの攻撃ではできない。強い相手に勝る攻撃力を集中する必要がある。果敢さは、おのれの攻撃力の最大限を発揮する心の構えである。闘志をみなぎらせ、奮い立つ。果敢になれば、勝つことが可能であり、そうでなければ、弱者であるから、敗北は必至である。おのれの勇気しだいということであり、果敢な勇気にすべてがかかる。果敢さには、高い士気が求められる。屈することなく迫っていく気迫を持たねばならない。覇気があって、戦いと勝利への大きな意気込みが必要である。
 勇気の大胆さは、危険に無頓着で、まどろんでいてもいい。だが、果敢さの勇気では、休んだりまどろむようなことはない。覚醒して攻撃的に奮起している。果敢な攻撃に際しては、興奮し覚醒して的をしっかりと捉え、攻撃方法を明確にして、的確な対応をその都度怠らないようにする必要がある。興奮しているが、怒りの興奮のような見境のない原始的な暴発ではない。果敢さは、理性的に十分に覚醒しての興奮である。「いさましい」という勇気は、「い」「さむ」(醒む)であろう。「い」は、強調か、胆(こころ)であり、こころが醒め、しゃきっとするのが、いさむ(勇)である。
 ひとは、攻撃的になる場合でも、種々に自己抑制している。恐怖はもとより見栄とかフェアとか温情等々のブレーキを効かせて攻撃を抑制している。果敢さは、このブレーキを解除する。果敢さは、攻撃にためらいをみせない。容赦することがない。もてるエネルギーの全てを攻撃にと注いでいく。勇気の「勇」は、湧くということである。こころを縛らないで放胆しておけば、おのずからに勇気は湧いてくる、自縛・自制をやめれば、闘争本能が解き放たれ果敢になるということなのであろう。
 さらに、果敢さは、攻撃への集中力を確保しなくてはならないから、大胆にもなる。防御にまわすべき力をも果敢さに振り向け、無防備になってまでも全力を集中して戦いの果敢さを作り上げる。戦いに出せる総エネルギーが一定という場合には、大胆であればあるだけ、果敢になれる。防御にとられるエネルギーをできるだけ小さくすること、つまり、防御無用の大胆さをできるだけ大きくすることで、その分、攻撃に力が集中でき、より果敢になれる訳である。あるいは、大きな危険のあるところには大きなチャンスがあるもので(危険な急流に飛び込むなら、人命救助が可能に)、これを大胆に冒すなら、果敢さの成果が飛躍的になるようなこともある。もっとも、大いに大胆になるとは、危険を一層、小・些事とみなすことであるから、小さな危険には、攻撃意欲もあまり湧かない、つまり、果敢さが生じにくくなるという場合もありうる。


大胆とちがい、果敢は、殺人も辞さない。

2012年07月19日 | 勇気について

4-3-2-1大胆とちがい、果敢は、殺人も辞さない。
 大胆さは、危険に無頓着になるだけで、いくら大胆になっても、それだけでは、ひとを殺すようなことにはならない。大胆な攻撃で人を殺すとしても、それは、攻撃が殺すのである。大胆さは、そこでは、反撃とか仕返しの危険に平気になるだけで、それ自体は、人を殺すような能動性はもたない。しかし、果敢さは、攻撃の猛烈さであり、危険の排撃を徹底するために殺人にすすむこともありうる。そこでためらうことのないのが果敢さであり、殺人を断行する猛烈さを果敢さの勇気はもつ。
 もっとも、殺人については、戦争というそれの求められ正当化される場であっても、ふつうには、なかなか果敢にはなれないようである。臆し躊躇する。敵も同じ駆り出された一市民で、戦争がなければ、肩を並べることもあろう青年である。日頃、ひとは尊厳を有する存在として特別扱いで接していたのである。動物殺害なら物を壊したのと同等のあつかいなのに、ひとの場合、殺人として重大な犯罪と見なしてきたのであるから、そう簡単にその重しを取り除くことはできない。
 近代の戦争の例からいうと、特殊な訓練をしていない場合、躊躇なく発砲して敵を殺せる兵士は、せいぜい1、2割にとどまるものだという。それを米軍は、朝鮮戦争では5割に、ベトナム戦争では9割以上にあげたという。勇猛果敢な兵士に仕立て上げたのである。自分の銃で人が死ぬのを見ることになるような発砲の場合、(人を生け贄にしたり、物扱いで売買したり、食肉の一部と見なしていた時代とちがい、ひとを尊厳と見なしあっている)現代人の普通の神経では、ためらいなくできるものではない。米軍では、特訓して、死ぬのは、尊厳をもつ同じ人間ではなく害獣や虫けらでしかないと見なせるようにしたという。
 穏和な現代人は、そう簡単に殺人では果敢になれるものではないが、憎悪心をもてば、時代を超えてみんな果敢になる。殺人事件といえば、まずは怨恨関係を洗う。憎悪では、抹殺し殲滅することでむしろ気が済む。憎悪しあうものの間の紛争では、「殺せ!」との命令がなくても殺しあい、陰惨な報復合戦がしばしば生じる。国民を戦闘的にするために、敵国への怒りや憎悪心を、いわゆる「敵愾心」をかきたてることを国家がすることもある。効果的であるが、歯止めがきかなくなり、ときに残忍な大量殺人を結果する。 
 戦争では、憎悪も怒りの攻撃性も、勇気すらもなしで、平然と殺人を行う方法もとってきた。それは、自分が人を殺す現場に立ち会わないこと、「見ない」ことである。傷つくのを見れば、恐怖も哀れみのこころも生じて、ためらいをもつ。だが、おぞましい光景を見ないようにすれば平気である。遠方からの砲撃・空爆では、だれでもが平気で大量殺人を行ってきた。いくら戦争とはいえ、ひとりで続けて何十人ものひとを切り殺すこと・撃ち殺すことは、精神的にも肉体的にも困難である。だが、空爆なら、何万人もを、無辜の子供が何百人何千人いようとも、口笛を吹きながら平然として殺すことができてしまう。


大胆をふまえて果敢さが向かう先

2012年07月16日 | 勇気について

4-3-2.大胆をふまえて果敢さが向かう先
 大胆も果敢も同じ勇気の対応であるが、危険なものへの姿勢が異なる。大胆さは、危険に無頓着で、危険を無視する。果敢さは、危険を排撃しようというのだから、その危険をしっかり直視する必要がある。大胆さでは、危険への「鈍感力」が求められるが、果敢さは、鈍感ではならず、危険の動向に鋭敏で、それの排撃に俊敏であることが求められる。大胆さは、危険に賭ける点で受身で他律的であるが、果敢さは、自らの全力を攻撃に注いで危険なものを自身で排撃するのであって、相手の成り行きにまかせるようなものではなく、終始、自律的である。また、大胆さと果敢は、ひとつに結ばれているとはかぎらない。例えば、多くの場合の人質は、危険と恐怖に平然とした大胆さは必要だが、逃げ出す余地のないところでは、果敢な(攻撃的)勇気を出す機会はもたない。
 大胆も果敢も危険なものに向かった勇気の対応だが、その目するところを別にすることがある。大胆は、防御つまり相手の攻撃(≒強いところ)にかかわり、これを小と軽視して無頓着になる。だが、果敢さは、相手を攻撃するのだから、その急所(≒弱いところ)をねらうことになる。危険(強く怖いところ)とその源(とくにその急所)が別という場合、大胆と果敢さは別々の事態に対処することになる。
 猛犬に果敢になる場合は、大胆さと同一の危険に対決する。その危険は咬まれることで、大胆さは、これに無頓着になることである。果敢さも、この咬まれる危険の排撃に集中する。だが、危険な人間との対決となると、大胆さと果敢の目するものは異なってくることが多い。危険なものは凶器・武器であり、大胆さは、この武器への防御は無用で、平気ということである。しかし、この危険を排撃しようとする果敢さは、武器自体を取り上げ破壊する場合もあるが、基本的には、それを使用する人物(特にその急所・弱点)に向かうものとなろう。凶器を取り上げても、なお、別のものをもって襲撃してくることになるから、危険を絶つには、その源となる人間自体を排撃することが必要である。果敢さが攻撃の徹底・貫徹であれば、単に一つの凶器を取り上げるだけでは不十分で、危険を根元から排撃するために、危険をもたらす人物自体を排撃することが求められる。 
 戦闘機の空中戦では、敵の戦闘機に大胆になり同時に果敢になる。敵機の機銃の危険に無頓着で大胆になり、敵機を狙って果敢に挑む。だが、空爆になると、大胆と果敢さはまったく別の対象にいだくことになる。地上の者は、爆弾が落ちてくるのを見て、これは少し離れたところに落ちるから平気だと爆弾に大胆に構えるが、この爆弾に果敢に挑むことは自殺行為でしかない、というか、挑みようがないであろう。空爆へのその大胆さに連なるものとしての果敢さは、爆弾にではなく、爆弾を落とす敵機を高射砲で狙うとか、その飛び立つ飛行場や航空母艦にミサイルを撃ち込むといったところにいだく。あるいは、無差別爆撃に対する抗議の声を果敢にあげていくことになる。