不安への勇気の忍耐

2011年12月29日 | 勇気について
3-2-7.不安への勇気の忍耐
 不安は、危険があるのにその展開が不明確で、対処しようにもどう対処していいのか分からない状態である。まちがいなく危険の可能性はあるから、放置することはできず注意の持続が必要だし、どうなるか未定なので、可能なあらゆる対処の構えを準備していなくてはならない。持続した緊張が強いられることになる。不安への勇気の忍耐は、この緊張状態から逃げずこれを耐え忍ぶ。忍耐は、快・欲求は阻止し不快はこれを甘受して耐える。危険に毅然とした勇気は、胸を締め付ける不安の不快感を感受してこれを忍び、不安から逃げたい、未定をなくしたいと焦燥する欲求を抑えて耐え続ける。
 恐怖なら、危険の具体的なあり方に注意をむけられ、それに見合った逃走とか萎縮とかの対応がとれるが、それらのことが不安には取れない。かといって、危険のありうる状態なので気が抜けず、どう構えていいかも不定で、不安では、その未定の否定的未来に緊張しつづける不快に耐えていくことになる。生否定的な(未定・不定という)無の息づまる空気に圧迫され、脅かすその無に気をもみ不快な覚醒状態をつづけさせられる。過敏になったこころは、横になって安らぐことが許されず緊張しつづけて、不安がつのると、いらいらと焦燥・憔悴して疲労困憊となる。一秒でも早くその不安感から解放されたいのだが、勇気は、必要な限り、それを抑止し、じっとこれを甘受して、持続の地獄に忍耐する。
 恐怖のように、特定の危険への特定の身体反応といったものがとれないからであろう、不安では全般的な緊張状態以外の身体的反応は外的には顕著ではない。が、心臓がドキドキしたり呼吸が浅くなったり、消化不良となるなどの、身体内での反応はときにかなり強くもつ。それは、どうすることもできない生否定的な緊張の持続に由来するものであり、安らぎを禁じられた、不安にさいなまれる心の身体への表現である。この身体的反応のうち呼吸については、不安の抑制にしばしば利用される。呼吸は、自律神経のもとにあると同時に意識でも操作できるので、不安状態の心身を意識的に鎮めるのに好都合である。調息をして(並行して調身ということで筋肉を弛緩させつつ)おだやかな安らいだ呼吸にし、調心へとすすめて行く。勇気は、不安の不快を甘受して耐えるが、その不快をより耐えやすいようにと小さくして、これを持続させていく。
 忍耐は、受け入れたい快・欲求は、阻止し抑圧する。不安が切に求めてやまないものは、なんといっても不安から逃げたい安らぎたいという欲求の充足、安堵にある。これを勇気の忍耐は、不安の事態に耐えねばならない限り、抑止する。さらに不安では、無・未定状態を解消して明確にことを限定したいと焦燥するが、これを勇気は押しとどめる。不安に駆り立てられると、一刻もはやく未定を規定に決着させ落ち着きたいと、短絡的対応に走りたくなる。不安では、「待てない」状態になる。だが、しゃにむにの決着は、短慮なため、否定的な結果をもたらすことになる。こどもなら、不安に駆り立てられると、いてもたってもおれず、車の来ているのも見えなくなって、道路の向い側にいる親の方へと走り、轢かれるようなことになってしまう。勇気の忍耐は、ここでは、その衝動を抑制して自暴自棄的に見境のない行動にでることを防ぐ。

危険はゼロにすべきだが、恐怖もゼロにするのがいいのか。

2011年12月26日 | 勇気について
3-2-6.危険はゼロにすべきだが、恐怖もゼロにするのがいいのか。
 恐怖は、不快な感情だから、できれば感じることなしに済ませたい。そのことが危険消去と一体ならば、良い。だが、危険がそこにあるのに、不快感だからというので、恐怖をなくすることは、考えものである。恐怖をゼロにして安堵感にひたっておれば感情的には楽であるが、その危険は見逃されがちとなろう。自然的に恐怖感が生じるということは、危険がそこにあるということである。であれば、強烈な不快感にならない程度の恐怖感は、残しておくべきであろう。
 恐怖できるというのは、能力である。「怖いもの知らず」は、感情的には楽でよさそうだが、危険を簡単には察知できないことになるから、大変である。ひとは、高いところを恐怖する。猿は、樹上で平然としているから、うらやましいが、彼らが樹上で平気なのも、ひとが高所を怖がるのも、理にあった感情的反応である。あのかわいらしいチンパンジーですら、その腕力はとてつもなく強力である。だが、ひとにはもうぶら下がって樹間を渡っていくような手足の能力はない。高所を恐怖して当然である。高いところは危険で、恐怖せず平気だったら慎重にかまえることがなくなり、たちまち落下して死傷の憂き目にあうこととなる。
 巨大な危険が迫っているのに、それを察知するだけの恐怖心をもたずに、大禍に遭遇するようなこともある。集団になると、危険への恐怖感が増幅されてパニックになることもあるが、逆に鈍感になってしまうこともある。皆が危機感をもち恐怖していたらパニックの方に向かうが、逆に、自分が恐怖していても周囲の多くが平然としていたら、そちらに流される。9.11(テロでツインビル崩壊)でも、3.11(東日本大震災)でも、助かるはずの人が危機感をもって対応できなかったために死亡するということがあったようである。9.11では、悠長に構えて、歌を歌ったり避難途中で休憩をとっている集団がいたという。3.11では、10メートルの津波が来るとラジオがいっているのに聞き流したり、そう周囲の者に伝えても、ぐずぐずして避難をしないひとも多くいたという。安易に構えて多数が命を落としたのである。巨大な危険だと感知すれば、恐怖して大急ぎで逃げるはずを、10メートルの津波といっても、体験したことがなければ、過去に見聞した小さな津波に似たものとみて、その危険度を低く見積もることになったのであろう。
 戦争状態になると、死への恐怖は小さくなり、ついには、死が平気になったりもする。今大戦の沖縄戦では、少年・少女が最期、集団自決するような悲惨なことにもなった。手榴弾を囲んで平然と爆死していった(たまたま、不良品だったため生き残った少年が後にそう話している)。肉弾戦を見聞きし、死が日常事になった状況下では、自分の生死も羽毛よりも軽いものに感じられたのであろう。微塵も恐怖を感じることなく、少年たちは自決の道を選んだということである。

勇気を競うのは、攻撃の果敢さより、恐怖への忍耐をもってする。

2011年12月22日 | 勇気について
3-2-5.勇気を競うのは、攻撃の果敢さより、恐怖への忍耐をもってする。 
 勇気を競う「肝試し」は、外からよく見える危険への果敢な取り組みをもってすれば、分かりやすいだろうに、多くの場合、そとからは見えにくい、内心における恐怖への忍耐の勇気をもってする。肝試しというと、筆頭にあげられるのは、幽霊の出てくる墓場であった。幽霊は、ひとを恐怖させるものだが、これと果敢に戦うといっても幽霊だから、戦いようがない。恐怖に打ち勝って墓場をまわってくるのが肝試しであった。
 果敢な攻撃の勇気ではなく、恐怖への忍耐の勇気が競われるのは、なんといっても勇気は後者が中心になるからであろう。果敢に見えても平然としていると見えても、自身がこころのうちで恐怖から逃げようとし臆病になっていたら、ひとがどう評価してくれても、自身、勇気がなかったと忸怩たる思いにとらわれる。勇気は、こころの問題である。心において、恐怖にしっかりと対決して恐怖に忍耐できてこそ、勇気をもったと自身で誇らしく思うことができるのである。
 果敢な攻撃の勇気は、外の危険と戦うのだから、外からよく見え比較しやすいと一見思えるが、意外にそれがむずかしいところもある。腕力の強い者がそうでない者と競う場合、同等の意欲をもってすると、成果をあげるのは、強者の方になる。心構えとして、強者は、果敢になっていなくても、ひ弱なものが果敢になっての攻撃の成果よりも、勝ることであろう。同等の成果をあげたとしたら、ひ弱な者が果敢で勇気を出したのであり、強者はそうではなかったのである。強者は、果敢になる必要がなかったのでもあろう。これでは、純粋に勇気を競うということには成り難い。
 そとの危険との戦いに果敢さの勇気は発揮されるが、その戦うための能力が違うのでは、ハンディキャップをつけねば、果敢さの競いにはなりにくいことになる。その点では、内心の恐怖と戦う勇気の方は、自分のうちの恐怖と戦うのだから、同じものと皆が戦うのである。もともとから臆病で恐怖心が過度になりやすいひとがいるとしても、それも勇気のうちでの問題である。そのひと自身も、「自分は臆病で勇気がない」と自覚していることであろう。
 しかし、こころのなかで自分自身(の恐怖)と戦うのでは、ほかのひとの勇気とは比較はしにくい。ということで、皆がほぼ同一の恐怖心をいだくであろうものをもって競うということになる。肝試しは、それに注意することが必要で、その材料探しに苦労することになる。へびは、多くが強く恐怖するからいいようなものの、ひとによっては全然怖くないひともあって、そのひととでは競うことが出来ない。ひとは、猿なら滑稽なぐらいに、高い所を恐怖する。地面にはいつくばって生きてきたから、そうなったのであろうが、これは、かなり、いい材料となる。高所から水に飛び込むのはいい肝試しになる。しかし、最近は、高層アパートに住むひとが増えてきて、それに慣れたひとは、高所を怖がらなくなっているという。ときどき、高い階から子供の落ちる事故が報道されるが、地面にへばりついた生活をしているものには不思議なのだが、その高度に慣れたら、自分を支える腕力がそなわるのでもないのに、平気になれるもののようである。

外からは見えない勇気-恐怖への忍耐は、平然としている。

2011年12月19日 | 勇気について
3-2-4.外からは見えない勇気-恐怖への忍耐は、平然としている。
 「勇気を出す」というが、果敢な攻撃の勇気は、危険なものを撃破するから、そとに行為として現れて、周囲からよく分かる。だが、恐怖を忍耐する方の勇気は、心中の恐怖を制御するのだから、出すといっても外からは見えない。身体反応の部分は見えるが、それも逃走とか悲鳴とかを抑制し、平然とした対応をとるので、恐怖しているのかどうかも分かりにくい。恐怖に忍耐する勇気の理想は、平然とした対応ができることである。そこには、恐怖も見えず、勇気も見えない。心中は、大嵐で、恐怖に戦戦兢兢とし、勇気は己の感性(恐怖)をおおわらわで抑制しているのであるが、それをどこまでも心の中で忍び耐えて、そのおもては、平然としている。それがこの勇気の理想であろう。
 ひとの尊厳は、理性の自律にある。自然感性を理性が支配し自由にできることにある。勇気では、恐怖への忍耐において、感性(恐怖)への理性の制御・支配が端的であり、ひとの尊厳がそこにある。果敢の勇気の方は、攻撃に勢いをつけようとするもので、自然にさからったものではない。が、恐怖を忍耐する勇気は、いわば、殴られる苦痛を身に引き受け忍ぼうというのであり(動物なら逃げるのを、ひとは、逃げずに耐えるのであり)、自然感性を抑圧し、反自然・超自然の理性的立場を顕在化させる。だが、そのことは、心中の展開として、外からはかならずしも見えない。なにごともないかのように、平然として見えるのみである。この勇気において、おのれの尊厳は、おのれは知っているが、他人には必ずしも明確ではない。
 勇気は、恐怖に忍耐することを肝要とする。その忍耐は、こころのなかでの問題であり、勇気は、こころの有り方が肝要ということになる。正義の場合、こころはあまり問題ではない。なにを行うかという事実が大切である。試験で「カンニング(不正)をしたいな」と思うことは、罪にはならない。不正は、実行してはじめて罪となる。だが、勇気の場合、こころの問題が中心になる。果敢に勇気を出しているように見えたとしても、内心では脅えきっていたのだとしたら、いくら、ひとから「勇敢だった」と称賛されたとしても、少しも嬉しくはないであろう。自分の臆病であったことを自分は、よく知っているのである。 
 正直とか好意とかも勇気と同じくこころが肝心である。いくら、好意的に見えていても、内心は打算的で嫌悪でもしていたとしたら、好意的ではないことになる。正直も、本当は嘘をつこうとしていたのだったら、正直ではなくなる。これらは、こころが正直・好意的なら、事実が反対になったとしても正直であり好意的である。ただし、これらは、周囲にそれがなんらかの形で表現されてのものでもある。そとに出さない正直・好意は、まだ正直でも好意でもない。だが、恐怖を忍ぶ勇気は、内心のものであり、かつ、そとに出さない。そとには、なにもないかのように平然としているのが理想である。

恐怖での欲求や反応を抑圧し、耐え忍ぶ勇気

2011年12月15日 | 勇気について
3-2-3-2.恐怖での欲求や反応を抑圧し、耐え忍ぶ勇気
 忍耐は、不快は甘受して、反対の快とか欲求は、これを受け入れず、抑制・排除する。恐怖の忍耐では、後者で顕著なものに、逃走への衝動(≒短絡的欲求)を抑制することがある。恐怖すると逃げ出したくなるが、勇気は、これを必要に応じて抑制する。悲鳴なども、随意的で意識して発声するものだから、恐怖しても勇気をもった意志は、これを阻止でき、悲鳴をあげないようにと歯を食いしばって忍耐する。恐怖の不快感情自体について、忍耐は、これを甘受するのだが、他方では、この不快を消去したい、恐怖を無化したいという感性的欲求をもっている。この恐怖解消の欲求についても、勇気の忍耐は、不快(恐怖)甘受の必要な限り、当然、これを抑制している。
 恐怖すると、逃走と逆に、腰を抜かし動けなくなったり、筋肉を思うように動かすことができなくなる場合もある。そこでは、勇気は、動く方が適切な対処になると判断した場合、なんとかしてこれを動かそうと、不随意化した筋肉に命令しつづけ、動く筋肉を代用にして必要な動きを確保しようと努力しつづける。萎縮してこちこちにかたまるような場合も、それをほぐし、勇気は、意志の命じる動きを確保し展開しようとする。注射が怖いひとは、つい萎縮し堅くなって、腕を出すことに躊躇し、身を引き勝ちになる。身を引きたい、腕を出したくないという衝動的な振舞いをする。これを抑えて、勇気は、身を前に進め、腕を差し出し恐怖に忍耐して、適正な対応をとる。
 恐怖の身体反応では、蒼白になるとか、震えることも顕著であるが、これらは、随意に意識で抑えられるものではない。随意の領域をはずれているので、勇気の理性意志は、これらを直接的には動かせない。しかし、それらに対抗的な随意の作用を行なうとか、その反応を抑止できる間接的な工夫を試みて、ある程度抑えることはできる。震えは、全身の筋肉に力をこめて震えにくくはできる。恐怖に震撼しつつも、サインしたり細かな手作業をしなくてはならない場合、震えを抑えなくてはならない。理性は、力を込めてみたり、逆に脱力してみたり、他方の手で支えたりして、震えを極力抑えられる方法を見出して、必要な手作業に集中することができようにする。
 逃走衝動や悲鳴については、それを抑圧する忍耐は、抑えつける方(勇気を出す理性)も、抑えられる方(逃走衝動・悲鳴への衝動)も、両方がしんどいことになり我慢することになる。だが、蒼白になったり震える場合は(腰を抜かした場合も似たものであろうが)、もっぱら理性意志側の忍耐となる。制御する理性(とその随意になる筋肉)の方は、対象を直接にはコントロールできず間接的に工夫をしてのことで、かつそれを持続させる必要もあって、大いに忍耐がいる。が、抑えられる方(震えなど)は、随意ではなく(あるいは神経が麻痺状態になって)意識内の展開にはならず、それ自身においては我慢することはないし、抑えられることに苦を感じることもない。