2-1-1-2. 欲求・衝動も忍耐は苦痛にするが、怒りでもそうか
欲求についての忍耐、例えば、空腹とか尿意での忍耐は、その苦痛にする。しかし、忍耐の一大独立峰をなすであろう怒りへの忍耐では、その怒りは、苦痛を与える側の感情であるから、苦痛に耐えていると言えるのかどうか、躊躇するところがある。切り傷の場合、それが苦痛であるのは、その損傷自体から生じるもので、これを忍耐するしない以前に苦痛なのである。悲しみや恐怖の苦痛も、尿意の場合も、それに忍耐する以前に、それら自体が苦痛である。だが、怒りの場合、これを忍耐することは苦痛だが、怒りの感情自体は、切り傷や悲しみの感情の苦痛と同じように、苦痛といえるのかどうか。怒る者は、傷つき痛むのとは反対であって、傷つける側である。怒り自体のどこに苦痛があるのか、少し振り返って見なくてはならない。
まず、怒り(衝動・欲求)の感情自体が苦痛になるものかどうかであるが、「馬鹿やろう!」と怒鳴ってすっきりすることはあるとしても、怒ること自体は快ではなかろう。怒りは、まず、その対象を気障りなものみなすことに始まる。気障りと感じるということは、それが不愉快で嫌悪感をいだかせ、したがって苦痛を感じさせるということである。とすれば、怒りは、これを抱くとともに苦痛を感じているわけである。さらに、その気障りなものに懲罰をと構えるときは、緊張し血圧をあげて息巻くものであれば、これも不快ではあっても、快とは言えないであろう。激怒では、攻撃的緊張が高まり、血圧もあげて身体に大きな負担がかかり、疲労をもたらす。不快・苦痛である。
しかし、怒りの苦痛は、その怒り自体よりも、これを出すことを抑止しての、我慢するときの、つまり、怒りを出さないように抑制するときの苦痛がなによりも問題となる。うちに生じている怒りの攻撃衝動があり、それを出さないようにするには、これに見合うだけの抑止力を意志は発揮しなくてはならない。それでも時々は爆発するように、これを抑止し続けることは困難で辛いことである。おそらく普通はこれが怒りに関しての一番の苦痛である。そとに出ようとする衝動とこれを抑止する意志がぶつかり合うのであり、抑えられた衝動は苦しく、抑える意志は辛い。
怒りの忍耐でも、怒りの感情自体が、やはり苦痛であり、さらに加えて、その怒りの表出を抑止することが辛く、苦痛なのである。
欲求についての忍耐、例えば、空腹とか尿意での忍耐は、その苦痛にする。しかし、忍耐の一大独立峰をなすであろう怒りへの忍耐では、その怒りは、苦痛を与える側の感情であるから、苦痛に耐えていると言えるのかどうか、躊躇するところがある。切り傷の場合、それが苦痛であるのは、その損傷自体から生じるもので、これを忍耐するしない以前に苦痛なのである。悲しみや恐怖の苦痛も、尿意の場合も、それに忍耐する以前に、それら自体が苦痛である。だが、怒りの場合、これを忍耐することは苦痛だが、怒りの感情自体は、切り傷や悲しみの感情の苦痛と同じように、苦痛といえるのかどうか。怒る者は、傷つき痛むのとは反対であって、傷つける側である。怒り自体のどこに苦痛があるのか、少し振り返って見なくてはならない。
まず、怒り(衝動・欲求)の感情自体が苦痛になるものかどうかであるが、「馬鹿やろう!」と怒鳴ってすっきりすることはあるとしても、怒ること自体は快ではなかろう。怒りは、まず、その対象を気障りなものみなすことに始まる。気障りと感じるということは、それが不愉快で嫌悪感をいだかせ、したがって苦痛を感じさせるということである。とすれば、怒りは、これを抱くとともに苦痛を感じているわけである。さらに、その気障りなものに懲罰をと構えるときは、緊張し血圧をあげて息巻くものであれば、これも不快ではあっても、快とは言えないであろう。激怒では、攻撃的緊張が高まり、血圧もあげて身体に大きな負担がかかり、疲労をもたらす。不快・苦痛である。
しかし、怒りの苦痛は、その怒り自体よりも、これを出すことを抑止しての、我慢するときの、つまり、怒りを出さないように抑制するときの苦痛がなによりも問題となる。うちに生じている怒りの攻撃衝動があり、それを出さないようにするには、これに見合うだけの抑止力を意志は発揮しなくてはならない。それでも時々は爆発するように、これを抑止し続けることは困難で辛いことである。おそらく普通はこれが怒りに関しての一番の苦痛である。そとに出ようとする衝動とこれを抑止する意志がぶつかり合うのであり、抑えられた衝動は苦しく、抑える意志は辛い。
怒りの忍耐でも、怒りの感情自体が、やはり苦痛であり、さらに加えて、その怒りの表出を抑止することが辛く、苦痛なのである。