欲求・衝動も忍耐は苦痛にするが、怒りでもそうか

2021年05月25日 | 苦痛の価値論
2-1-1-2. 欲求・衝動も忍耐は苦痛にするが、怒りでもそうか  
 欲求についての忍耐、例えば、空腹とか尿意での忍耐は、その苦痛にする。しかし、忍耐の一大独立峰をなすであろう怒りへの忍耐では、その怒りは、苦痛を与える側の感情であるから、苦痛に耐えていると言えるのかどうか、躊躇するところがある。切り傷の場合、それが苦痛であるのは、その損傷自体から生じるもので、これを忍耐するしない以前に苦痛なのである。悲しみや恐怖の苦痛も、尿意の場合も、それに忍耐する以前に、それら自体が苦痛である。だが、怒りの場合、これを忍耐することは苦痛だが、怒りの感情自体は、切り傷や悲しみの感情の苦痛と同じように、苦痛といえるのかどうか。怒る者は、傷つき痛むのとは反対であって、傷つける側である。怒り自体のどこに苦痛があるのか、少し振り返って見なくてはならない。
 まず、怒り(衝動・欲求)の感情自体が苦痛になるものかどうかであるが、「馬鹿やろう!」と怒鳴ってすっきりすることはあるとしても、怒ること自体は快ではなかろう。怒りは、まず、その対象を気障りなものみなすことに始まる。気障りと感じるということは、それが不愉快で嫌悪感をいだかせ、したがって苦痛を感じさせるということである。とすれば、怒りは、これを抱くとともに苦痛を感じているわけである。さらに、その気障りなものに懲罰をと構えるときは、緊張し血圧をあげて息巻くものであれば、これも不快ではあっても、快とは言えないであろう。激怒では、攻撃的緊張が高まり、血圧もあげて身体に大きな負担がかかり、疲労をもたらす。不快・苦痛である。
 しかし、怒りの苦痛は、その怒り自体よりも、これを出すことを抑止しての、我慢するときの、つまり、怒りを出さないように抑制するときの苦痛がなによりも問題となる。うちに生じている怒りの攻撃衝動があり、それを出さないようにするには、これに見合うだけの抑止力を意志は発揮しなくてはならない。それでも時々は爆発するように、これを抑止し続けることは困難で辛いことである。おそらく普通はこれが怒りに関しての一番の苦痛である。そとに出ようとする衝動とこれを抑止する意志がぶつかり合うのであり、抑えられた衝動は苦しく、抑える意志は辛い。
 怒りの忍耐でも、怒りの感情自体が、やはり苦痛であり、さらに加えて、その怒りの表出を抑止することが辛く、苦痛なのである。

損傷と欲求不充足は、同一の場合もある

2021年05月18日 | 苦痛の価値論
2-1-1-1. 損傷と欲求不充足は、同一の場合もある
 損傷と、内の欲求は、異なったものであるが、同じ事柄について違った方向から見たものになることもある。損傷は、生にマイナス・欠損が加えられて損傷・苦痛となり、欲求は、マイナス・欠損のあるところでこれから回復したいと欲して、その不充足のマイナス状態に苦痛を抱く。失恋は、自分の性愛への欲求が不充足になり、これを回復したいと欲するところにいだく苦痛であり、外的に、愛するひとから冷たく拒否されて心がそとから傷つけられ、痛むのである。
 欲求は、生理的なものでは、損傷による苦痛と同じく、生理的な痛みを生じることがあって、当該の部位に損傷によるのと似た苦痛をともなうことがある。食の空腹は、欲求自体の不充足感の苦痛とともに、別の固有の生理的な苦痛を胃において感じる。肥満肯定の多食の人がときに弁明して、胃に何か食物を入れておかないと胃酸が胃を溶かして傷つけ胃が痛くなるのだということがあるが、若干なんらかの損傷が胃に生じているのであろう。口に苦痛を感じず、胃に感じるのは、食物が確実に栄養となる場所にまで届くことが肝要とふまえてのことであろう。皮膚の痛みも、皮膚の損傷に感じるとともに、それから逃れたいという欲求が生じていて、それを充足できないことで苦痛になることもある。蚊に刺されての痒みの苦痛は、掻きたいという欲求をもって、これを満たして掻けばその苦痛はおさまるが、この欲求を不充足にしていた場合、苛立ち辛く、その刺されての痛みを大きくする。尿意は、膀胱が膨らんで排尿欲求を生じることになるが、同時に膀胱や尿道あたりの緊張をもっての生理的な苦痛を伴う。その生理的な苦痛が切迫的な痛みとなり、排尿欲求の不充足の不快・苦痛と一体的になって、排尿を迫ることである。
 精神的営為では、欲求不充足は、こころを蝕み、これを傷つけて、痛みを生じる。欲求があるから、価値あるものが獲得されていくのだが、この欲求が、不足するもの、欠けるものを意識して損傷を作り出す。その不充足・損傷に精神は苦痛を感じる。肉親の死は、家族の欠損・損傷で、悲しみの苦痛を生じるが、それは、肉親への愛の欲求がつくる。その愛の欲求を満たせなくなり辛いのである。


損傷による苦痛、欲求抑圧の苦痛

2021年05月11日 | 苦痛の価値論
2-1-1. 損傷による苦痛、欲求抑圧の苦痛
 苦痛は、その発生領域の違いから精神的な苦痛と生理的な苦痛に大別できるが、忍耐するときの対応のちがいの点からは、主として主体のそとから来る損傷への苦痛と、うちに生じる欲求への抑圧の苦痛との違いが目立つ。擦り傷のような外傷に由来する苦痛と、うちに生じる欲求の不充足、たとえばダイエット、食欲抑制で生じる苦痛とは、大いに異なった苦痛感情となる。外傷の苦痛を避けるには、外からの加害に注意する必要がある。欲求での苦痛の解消は、自己内の欲求をなくしたり欲するものを獲得してなる。
 苦痛は、損傷によるものの場合、その損傷の部位に生じて、これに注目させこれを放置しがたいものと捉えて危機的対応を求める。足が痛いのは足が傷ついたことにより、風邪で頭が痛いのは、脳のどこかが傷ついているのであろう。身体への外的な刺激は、皮膚に感じるが、皮膚の損傷をもたらすほどに大きくなければ、苦痛刺激・痛みにはならない。触られている・触れているという触覚の対象にとどまる。だが、それが損傷をもたらすようなものになると、痛覚刺激となる。損傷での苦痛は、それが生理的なものであれ精神的な傷であれ、その生において価値を有し機能しているものが傷つけられ欠損したこと、あるいは反価値が押し付けられたことへの火急の報知として生じる。
 他方で、欲求においても、不快・苦痛は感じられる。呼吸欲求の抑止、その不充足は、刻一刻と苦痛の度を大きくしていく。欲求の不充足感は、価値あるものが現に不足している欠損していると感じているのであり、これを確保したいということである。苦痛は、その切迫を知らせるものである。欲求は、自身に不足しているものを志向するが、その欲求の苦痛は、それの今ないことに、欠損にいだくものであろう。求める価値あるものそれ自身については、これが得られることを楽しみとし想像して愉快とするが、苦痛は、それのないこと、欠損の現実にいだく。欲求は、あるいは、現に反価値物(老廃物など)が存在するので、これを廃棄して、なくしたいという欲求でもある。呼吸欲は、酸素不足を充足したいということでの苦痛であり、炭酸ガスを排出したいという欲求である。マイナスの状態に苦痛を感じている反欲求は、これをゼロにまで回復したいという欲求である。それが強いとき、切迫的な尿意・便意のように、苦痛となって、ひとを欲求充足へと駆り立てる。 

苦痛の量と質

2021年05月04日 | 苦痛の価値論
2-1. 苦痛の量と質 
 苦痛を意識的に作り出すものとして犯罪への刑罰がある。軽度のものから重罰までがあるが、その与える苦痛の違いは、まずは、量的な面から、懲役1年とか2年とかいう。質的なちがいも加味しては、ムチ打ちや石打ちの生理的な苦痛、単に刑務所に閉じ込めて自由を奪うだけのもの、苦役をもってするもの等、与える苦痛は、量と質の両方面から工夫されている。「苦は、色を変え、様を変え」というように、苦痛といっても、色とりどりで様々な質と量からなる。この世界は、「苦界」ともいうように、苦痛に満ち満ちており、生まれてから死ぬまで多種多様の質と量の苦痛を味わうことである。
 苦痛の量的な違いは、その受けた損傷の大きさのちがいとなる。大きな痛みは、おおきな損傷を示す。蚊やアブに刺された軽い痛みは、皮膚にかすかな跡しかのこさないのが普通である。が、蜂に刺された場合は、じんじんと強く痛み、刺された周辺が炎症を起こす。しかし、痛みが小さくても、痛覚のない肝臓に重大な損傷を受けている場合もある。皮膚の場合、痛覚があるけれども、ある量の損傷になるまでは作動しない。ある閾値以上の刺激が痛覚をはたらかせ苦痛となる。大きな損傷は激痛を生じる。小さな痛みでは、その発生部位に注目が強制されるだけであるが、激痛になると心身全体をまきこむ。さらに大きな苦痛は、生に大きなダメージを与えて失神させたりショック症状を引き起こすようなことになる。
 苦痛では、質的な違いも顕著である。感覚に由来する苦痛と、社会的精神的な損傷(価値喪失)による悲しみのもたらす苦痛は、同じく苦痛であっても、感じられるものは感情としては、まるで異なる。何が損傷を受けているかということでの違いであろう。手が損傷をうければ手が痛いと知覚して私が苦痛を抱く。悲痛、悲しさは、社会的存在としての私の損傷・価値喪失であり、これに身体も反応し萎縮し涙をともなう苦痛となる。外的損傷による苦痛と、うちの欲求を不充足にとどめる苦痛の違いも異質を際立たせる。手足を骨折した苦痛と、愛(の欲求)のかなわなかった失恋の痛みは、質を異にする苦痛である。