気概・気骨

2011年01月26日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-6-1.気概・気骨
 「ベジタリアンの気概・気骨を示す」というようなことがある。気概・気骨は、挑戦精神に富んだたくましい気性からなる。気概や気骨が発揮されるところには、自身の誇りとする、守るべき信念、考え・振る舞いがある。だが、この(菜食主義などの)信念を他者は受け入れないことが多いし、自身の試みには種々の困難が生起してくる。批判や困難には臆し挫けがちにもなろうが、気概・気骨に富む者は、これを厳に戒め、気迫をもって奮い立ち、信念堅持のために己を尽くす強気の姿勢をとり、闘魂(fighting spirit)を顕示する。
 節制の困難は、欲求抑制の忍耐を長期にわたって維持することにあるが、気概・気骨は、このはてることなく続く節制を前に、不撓不屈の堅固な構えをもちつづけ、屈することを嫌い、長期にわたりこの忍耐を支えていく。
 気概には、「概」という「大まかさ」、「器量」(スケール)の大きさがある。気概は、弱気や屈服を潔しとせず、プライドをもち覇気をもって困難に堂々と立ち向かい、どこまでも挑戦していく大きな力、激しく逞しい闘志を保持している。気骨では、「骨」があり、芯があって、堅くしっかりしていて、おのれを貫き困難に挫けない面が際立つであろうか。
 気概・気骨は、たくましく、強気である。堅持する信念の意義を自覚し、これへのプライドをしっかりもつことで、その気をさらに強くし、これをより逞しくできる。それらは、筋肉が使われて大きくなるのと同じように、困難に耐える試練を重ねるごとに、一層強靭なものになる。

節制にも少々の闘魂が欲しい-気概・意地・根性-

2011年01月18日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-6. 節制にも少々の闘魂(fighting spirit)が欲しい-気概・意地・根性-
 はじめは意欲的でも、節制の成果があまり見られないと、しだいにその意欲も失われがちとなる。おいしいものが並ぶと、つい過食の戒めは、うわの空になる。際限なく続く節制の忍耐の前では、少しのつまずきにも、その断念を思い弱気にもなる。こういうとき、おのれを鞭打ち、困難に挑戦していくファイティング・スピリットが問われる。チャレンジ精神が問題となる。
 闘魂をなす「気概」・「気骨」は、勇気に必要だが、節制でも、克己の戦いという点において、これらの不撓不屈の精神の請われることがある。多くの場合、自分には甘くなる。うちなる敵との戦いといっても、病魔との闘いとちがって、節制の敵となる欲求は、殲滅するわけにはいかない。甘くならず臆することもなく、かといって、がむしゃらになるのでもなく、気概をもって屈することなく毅然とした態度を持続させていくことが求められる。
 節制の戦いは、困難な闘いとはいえ、危険・恐怖と戦う勇気とはちがい穏やかに経過するが、それでも苦に忍耐し克己につとめる意気を失わないだけの強い精神がいる。弱腰、意気地ない状態をふりはらった「意地」をもちたいし、「頑固」一徹もあっていい。あるいは、ひたむきで頑なな、しかし若干泥臭い「根性」なども、節制での闘魂をなすものであろうか。

節制での克己は、困難な持久戦になる

2011年01月12日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-5-2. 節制での克己は、困難な持久戦になる。
 戦争では、不戦で済ますのが最上、短期決戦が次善で、長期戦を最低とする。だが、節制の戦いは、長期の持久戦が基本である。一回や二回の戦いでかたがつくものではない。毎回の食事において繰り返して食欲との小競り合いが続く。休みのない戦いの日々となる。
 かつ、その終わりも、また、ないことが多い。永遠の持久戦ともなる。食の節制の場合、欲求自体が健やかな中庸型に落ち着くことで停戦となるが、油断はできない。気を抜いていると、過食傾向は復活してくる。同じ量を維持していたのでは、年とともに基礎代謝が低くなって栄養分の過剰摂取ともなる。
 節制の戦いの困難さの一因に、敵となる感性的欲求を殺してはならないことがある。食欲は、生に必須であり、過食はいけないが、ある限度までは、食を促進する必要がある。おいしいものに満ち溢れた現代では、ついつい、その限度を超えてしまうのである。食欲と美味しいものがある限り、節制は、しばしば、一生つづく戦いとなる。

苦甘受、快排斥のつらい戦い

2011年01月05日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-5-1. 苦を受け入れ、いとしいもの(快)を排斥する、つらい戦いである。
 節制は、欲求の不満(現実の苦)に耐える。と同時に、快への誘惑(想像の快)にも耐える。「病気」との闘いのように、苦をしっかり受け止め、これに耐えるとともに、「睡魔」との闘いのように、快楽あるいは快楽への誘惑を拒否しこれに耐える戦いとなる。
 感性的欲求(食欲・性欲)は、おのれの不充足の苦を甘受し、節制を戦う理性に与して、じっと耐える。空腹の苦に我慢し、嫌いなものを我慢して食べ、おいしいものを節してのいらいらに耐える。理性からいうと、欲求が意識にのぼっても、これを現実には働かないように種々工夫する。理性も疲れ苦しい思いをする。 
 睡魔との戦いは、眠りたいという自分の巨大な欲求を抑制する戦いである。負ければ、眠りの極楽にすいこまれる。節制の戦いでも、負ければ、快楽が得られるのだから、理性のうちでも、負けたいと思うところがある。負けて、おいしいケーキを死ぬほど食べて至福にひたりたいと。麻薬との戦い、禁酒の戦いでも、負けて、その快楽に浸りたいと衝動に駆られることがあろう。ただし、そのあと、巨大な災いがまっている。その快楽は、中毒(地獄)へ舞い戻るという恐ろしい結果をもたらす。