3-2-3-1. 苦痛は、快よりも生保護にとって大きな価値であろう
苦痛は嫌なもので回避衝動を伴うが、快は、ひとを魅了し、その享受へと誘う。苦痛を無視すると、生は損傷をうけ、生保護が否定されることになるが、快は無視しても、生にとっての不足分がそのままになるだけで、直接に、生に危機となるものではない。生命は、自己保存を枢要な営為としていて、その損傷には機敏な対応にでるが、そこで登場するのは痛覚である。損傷を受けていることを感知しての痛覚反応である。痛むことをもって、損傷を回避し、生は自己の保護を実現する。これに対して快は、受け入れたいものの感知をするだけで、生の損傷やその保護には、直接は関与しない。
外的な損傷については、苦痛が生保護の中心になるとしても、食では、受け入れることが中心だから、苦痛は、働きようがないように思われなくもない。食は、生の維持に不可欠で、栄養のある美味しいものの摂取を求める。その点では、快がことの中心になって、苦痛の出番はない。だが、口に入るものすべてが栄養になるとは限らない。そこでも、身に有害で損傷を与えるものが入って来ることがある。それを受け入れないようにすることが必要である。舌、味覚で受け入れたいものを、美味しいもの・快と感じ取って喉へと送り込むが、そこでは、受け入れるべきではないものもチェックしている。舌は、まず、その先端で、受け入れてよい、あるいは、受け入れたいものを甘味として感じとる。受け入れ噛み砕きつつ、舌の奥では、苦いものを、つまりは、有毒で不快・苦痛となるものを感じとって、これへの拒絶反応をもつ(ただし、苦い・酸っぱいは、微量の場合は、味わいを深め美味を豊かにする)。あるいは、口内の皮膚では、直接的に痛みとなる辛いものを感じたり、嗅覚で不快となるものをチェックして、有害なものが喉の奥に入って胃に送りこまれるのを阻止する。昨今は、美味(快)のものばかりを食べるので、苦痛の感覚は働く機会が少ないが、やはり、受容の器官の口でも、苦痛は、身の損傷を被らないようにと、生保護をとチェックしている。
生の保護・保存ということでは、どのような方面においても、苦痛は、大きな役割を果たしている。苦痛は、主観にとって回避したい一番の反価値であるが、同時に、生にとって掛け替えのない(手段的)価値になっていると言えよう。
苦痛は嫌なもので回避衝動を伴うが、快は、ひとを魅了し、その享受へと誘う。苦痛を無視すると、生は損傷をうけ、生保護が否定されることになるが、快は無視しても、生にとっての不足分がそのままになるだけで、直接に、生に危機となるものではない。生命は、自己保存を枢要な営為としていて、その損傷には機敏な対応にでるが、そこで登場するのは痛覚である。損傷を受けていることを感知しての痛覚反応である。痛むことをもって、損傷を回避し、生は自己の保護を実現する。これに対して快は、受け入れたいものの感知をするだけで、生の損傷やその保護には、直接は関与しない。
外的な損傷については、苦痛が生保護の中心になるとしても、食では、受け入れることが中心だから、苦痛は、働きようがないように思われなくもない。食は、生の維持に不可欠で、栄養のある美味しいものの摂取を求める。その点では、快がことの中心になって、苦痛の出番はない。だが、口に入るものすべてが栄養になるとは限らない。そこでも、身に有害で損傷を与えるものが入って来ることがある。それを受け入れないようにすることが必要である。舌、味覚で受け入れたいものを、美味しいもの・快と感じ取って喉へと送り込むが、そこでは、受け入れるべきではないものもチェックしている。舌は、まず、その先端で、受け入れてよい、あるいは、受け入れたいものを甘味として感じとる。受け入れ噛み砕きつつ、舌の奥では、苦いものを、つまりは、有毒で不快・苦痛となるものを感じとって、これへの拒絶反応をもつ(ただし、苦い・酸っぱいは、微量の場合は、味わいを深め美味を豊かにする)。あるいは、口内の皮膚では、直接的に痛みとなる辛いものを感じたり、嗅覚で不快となるものをチェックして、有害なものが喉の奥に入って胃に送りこまれるのを阻止する。昨今は、美味(快)のものばかりを食べるので、苦痛の感覚は働く機会が少ないが、やはり、受容の器官の口でも、苦痛は、身の損傷を被らないようにと、生保護をとチェックしている。
生の保護・保存ということでは、どのような方面においても、苦痛は、大きな役割を果たしている。苦痛は、主観にとって回避したい一番の反価値であるが、同時に、生にとって掛け替えのない(手段的)価値になっていると言えよう。