苦痛は、快よりも生保護にとって大きな価値であろう

2022年11月29日 | 苦痛の価値論
3-2-3-1. 苦痛は、快よりも生保護にとって大きな価値であろう 
 苦痛は嫌なもので回避衝動を伴うが、快は、ひとを魅了し、その享受へと誘う。苦痛を無視すると、生は損傷をうけ、生保護が否定されることになるが、快は無視しても、生にとっての不足分がそのままになるだけで、直接に、生に危機となるものではない。生命は、自己保存を枢要な営為としていて、その損傷には機敏な対応にでるが、そこで登場するのは痛覚である。損傷を受けていることを感知しての痛覚反応である。痛むことをもって、損傷を回避し、生は自己の保護を実現する。これに対して快は、受け入れたいものの感知をするだけで、生の損傷やその保護には、直接は関与しない。
 外的な損傷については、苦痛が生保護の中心になるとしても、食では、受け入れることが中心だから、苦痛は、働きようがないように思われなくもない。食は、生の維持に不可欠で、栄養のある美味しいものの摂取を求める。その点では、快がことの中心になって、苦痛の出番はない。だが、口に入るものすべてが栄養になるとは限らない。そこでも、身に有害で損傷を与えるものが入って来ることがある。それを受け入れないようにすることが必要である。舌、味覚で受け入れたいものを、美味しいもの・快と感じ取って喉へと送り込むが、そこでは、受け入れるべきではないものもチェックしている。舌は、まず、その先端で、受け入れてよい、あるいは、受け入れたいものを甘味として感じとる。受け入れ噛み砕きつつ、舌の奥では、苦いものを、つまりは、有毒で不快・苦痛となるものを感じとって、これへの拒絶反応をもつ(ただし、苦い・酸っぱいは、微量の場合は、味わいを深め美味を豊かにする)。あるいは、口内の皮膚では、直接的に痛みとなる辛いものを感じたり、嗅覚で不快となるものをチェックして、有害なものが喉の奥に入って胃に送りこまれるのを阻止する。昨今は、美味(快)のものばかりを食べるので、苦痛の感覚は働く機会が少ないが、やはり、受容の器官の口でも、苦痛は、身の損傷を被らないようにと、生保護をとチェックしている。
 生の保護・保存ということでは、どのような方面においても、苦痛は、大きな役割を果たしている。苦痛は、主観にとって回避したい一番の反価値であるが、同時に、生にとって掛け替えのない(手段的)価値になっていると言えよう。

苦痛がないと、生は維持が難しくなる

2022年11月22日 | 苦痛の価値論
3-2-3. 苦痛がないと、生は維持が難しくなる 
 苦痛は、主観的には、反欲求の対象で反価値となるが、苦痛がなくなれば良いというわけにはいかない。苦痛(痛覚)のないものは、傷だらけになる。苦痛は嫌で、それ自身のうちに回避・拒否の衝動をもつから、その苦痛のもとの損傷を回避したり、それ以上の損傷を受けないようにと、動く。そのことで、生は損傷に適切な対応ができ、無事の生が可能となるのである。しかも、苦痛は、それが有る限り、その苦痛(損傷)をなくするようにと切迫的な対応を求めつづける。苦痛は、生保存にとってありがたい機能である。が、主観的感情としては、その痛みは、それ自体の回避を迫るもので、回避したい反欲求対象として、反価値の代表となるのでもある。
 それは、生理的な苦痛には限らない。精神的な苦痛も、悲痛とか絶望とかは、これを感じずに済むようにと、真っ当な人生の展開へと懸命にならせる。あるいは、絶望したときには、それから逃れるために新規の希望を見出していくことへとおのれを駆り立てていく。絶望とか悲痛あるいは不安といった精神的苦痛がなければ、真摯で懸命な努力はしないかも知れない。失敗しても苦痛でなければ、同じ失敗を繰り返して平気となろう。失敗の苦痛が成功へとひとを駆り立てるのであれば、苦痛には、積極的な意味が、価値が見出せることになる。絶望とか悲嘆の苦痛は、いやで、回避したいと、その状態に陥らない状況をつくるし、それから脱出するために懸命になる。しかも、その絶望の苦悩を経験したものは、自己の改造も迫られて人間が出来てもくる。大きな反価値であるがゆえに、これから逃れたいと必死になり、そういう苦悩・苦痛を通して、人生をよりよいものにしていけるのである。
 その苦痛がないことでしばしば深刻な事態になる代表は、内臓であろう。内臓は、そとから自分で対処できるものではないので、痛覚をもたないのが原則である。よほど損傷がひどくなって周囲の痛覚のあるところに悪影響をもつようになってやっと痛むというようなことになる。現代の医学では、はやめに対処しておれば、内臓の損傷も悪化させないで済む。しかし、痛まないので、手遅れになることが多い。飲酒で肝臓が少しのダメージを受けても激痛がするのなら、即刻に禁酒することになろうが、少々では痛むことがないので、快楽の方を優先して、気づいたときは、もう遅いというようなことになる。

魚や昆虫には痛みがないかのようにして関わる

2022年11月15日 | 苦痛の価値論
3-2-2-2. 魚や昆虫には痛みがないかのようにして関わる  
 苦痛は、主観内のものなので、動物が相手の場合、概ね無視して無の扱いとなる。犬や猫の足が折れているとか、背中が切られているといった損傷には目を向けて、それに応じた関わり方をするが、主観内の出来事の苦痛は、あまり気にすることがない。魚などになると、切り刻まれて、おそらく激痛に痙攣しているのであろうに、その苦痛は無ととらえて、「活きのいい魚だ」と刺身を堪能して平然としておれる。
 ひとの苦痛と同じではなかろうが、苦痛は、動物的生の始まりとともにある、損傷への根源的な感覚であり、その事態からの逃走・排撃衝動をともなう大きな不快事になっていることには変わりはないであろう。もっとも、ひとでも、大けがでは、痛みを感じなくなってしまうことがあるように、魚も、切り刻まれた息も絶え絶えの「活きのいい」状態では、もう苦痛は感じていないかも知れない。
 魚などに苦痛を想像することが少ないのは、その姿かたちによるのであろう。ひとは、自分と姿が近いものには同じような痛みを想像する。だが、見かけが違ってくるとともに、痛みのような内面的なものには、想像力が及ばなくなる。昆虫などになると一層ひととの類似性は見えにくくなり、魚類の料理に痛みの少ない殺し方を勧める人たちでも、昆虫食で何千何万の虫をすりつぶして食品にすることは意に介さない。昆虫の痛みは、想像することが難しい。ひとが感じるような痛みは、ないようにも見える。しかし、動物は、植物とちがい、中枢において身体の損傷への感覚をもつはずで、それは、痛みであり、当然その損傷回避の反応と一体的で、ひとの痛みと原理的には同じであろう。
 とはいえ、ひとの生は、ほかの動物の生や痛みを気にしていたのでは、なりたたなくなる。蚊を叩きつぶすのを遠慮したり、蟻を踏みつぶすのを気にしていては、外を歩くこともままならないことになる。生きるために動物性たんぱく質を日々食料にしているが、多くの生命を奪っているのである。他の生き物の無数の犠牲(したがって、おそらく苦痛)のうえに、ひとの生は成り立っているのである。

痛みは、主観的なものゆえに、客観的には無視もできる

2022年11月08日 | 苦痛の価値論
3-2-2-1. 痛みは、主観的なものゆえに、客観的には無視もできる
 苦痛は、自身に生じている場合、最優先して対処することを急かすが、外から見ると無でしかないから、その苦痛に無関係の者は、何でもないこととして無視することが生じる。これが客観的なものだと、損傷などはよく見えることでその事実には抗いがたく、近くにいる者は、これを無視することはできない。だが、苦痛のように、主観のうちにのみ生じているものは、その主観内で終始することであれば、何の影響も客観的にはないから、無視することができる。苦痛を感じている当人がこれを表明しなければ、苦痛は、周囲の者にとっては、ないのと同じことになる。痛みは、あくまでも、個人主観のうちにとどまっているものである。
 ただし、個人は、一心同体となる家族のうちで生きていることで、肉親が主観的に苦痛をいだいているとしたら、その感情を、自身に体験したものをもとに想像をもって疑似的に感じていく。その度合いは、一心同体の程度に応じて異なるが、その苦痛への対処の巧みである大人と、そうでない子供では違い、何もできない幼児であった場合など、親の方が、一層の危機的意識をもって想像において疑似的にその苦痛を追体験し、いたたまれなくなることも生じる。
 同情できる間柄でも、痛みの感情そのものは、強い不快感情なので、一歩距離を置いて、一体的にはならず他者距離をもって眺めるだけとなるのではないか。これが、敵にでもなれば、痛んでいると知ると、むしろ、損傷を与えた場合と同じように、快とすることであろう。まるで無関係の者についてなら、苦痛をいだいていると知っても、無視して無と見なしておける。苦痛は、あくまでも当人の主観的なものなので、知らぬふりをしておくことは簡単である。

苦痛は、主観内の出来事に留まる

2022年11月01日 | 苦痛の価値論
3-2-2. 苦痛は、主観内の出来事に留まる 
 苦痛は、あくまでも主観的なもので、心、意識のうちに生じているだけである。損傷が客観的な反価値であるのに比して、単に主観内の苦痛感情としてあるだけのものとして、苦痛は、これを我慢しておれば外からは無であり、無事で何もないことにできる。
 そとからそれの分かる損傷とちがい、苦痛は、当人以外には、その痛み方の真実は、分からない(感情反応の表情等で外から痛みも間接的には知りうるが、感情の主観的な内容自体は、知りえないし、表情は偽ることも可能である)。その苦痛の有無から、その量的な度合いまで、当人の言うことを信じる以外ない。個人主観のうちにのみあるものとして、味や臭いと同じく、その体験内容は直接的には提示できず、痛みの表現は、もどかしいものとなる。ではあるが、無視・放置できないのが苦痛である。苦痛を体験した者は、これがあることを察知すると、他人のものであっても、主観的で確かめにくいものではあるが無視できないものとして、その度合いまでを想像して、自身の体験した痛みをもとにして、それの対処をと慮る。
 心のうちにのみある主観的なものと、客観的に生じているものとは、雲泥のちがいである。夢や妄想のような主観のうちにあるだけのものは、社会関係のうちでは無でしかないものとなることが多くの場合である。殺害を妄想しているだけのものと、これを実行したものは、まったく異なり、前者は無に近い扱いとなる。だが、主観的な痛みと客観的な損傷では、痛みの方が深刻で問題になることが起きる。単に主観的な痛みのみをもたらしたのだから、無と見なさねばならないということには、苦痛を受けた者は、納得しない。ひと同士が関りをもつとき、苦痛を生じさせられたら、まちがいなく反価値として、その償いをしてその反価値分を価値で埋めるか、それが不可能なら、同じ反価値の苦痛をもって仕返しをするのでないと気が済まないことになる。主観的な、したがって客観的には無の苦痛ではあるが、見過ごすことのできない重大な反価値である。
 損傷は、客観的なもので、明確になることだが、それに主観的な苦痛がともなわない場合、さして回避したいとか反価値だとは思わないことがある。髪の毛を切るのは、損傷だが、痛みがなければ、回避反応は生じない。だが、痛みがある場合、一本の髪の毛を引き抜いての痛みでも、ハサミで多くを切るよりわずかな損傷であっても、これを回避しようと動く。痛むのを無理やりに引き抜かれるとしたら、許せないということになる。客観的な損傷よりも、主観的な、外からは無でしかない苦痛の方を顕著な反価値とすることが多い。