痛い・苦しい・辛いに還元できない不快への留意

2022年07月26日 | 苦痛の価値論
2-6. 痛い・苦しい・辛いに還元できない不快への留意  
 忍耐の対象ということで、痛み・苦しみ・辛さをあげた。これらは、苦痛という強い不快であるが、不快感情は、多様で広範囲にわたる。苦痛以外の不快も、引きよせる快の反対の不快としては、大なり小なり嫌悪され回避されるものである。だが、火急の回避を迫る苦痛のように、それが予想されるとその手前で回避され、したがってあまり体験することのないものとちがって、些細な不快は、さして気にすることがなく、日常的に頻繁に体験される。日常を動かすのは、苦痛ではなく、苦痛以前の小さな不快である。
 あらゆる感情は、快か不快かに分けられる。その不快の極端なものが苦痛である。並みの、あるいは些細な不快は、苦痛には入らないが、日常的には、その苦痛以前の不快と快に満ち満ちていて、そのもとによりよい生へと微調整しつつ生活しているのが一般であろう。少し寒くて不快なら、服を寒くないものにする。少し暑いなら、服を一枚脱ぐか、気にせず、暑さの不快を放置する。不快ではあっても、凍傷や火傷の痛みとちがい苦痛で緊急の対応を迫るものではなく、よりよい事態の選択に資する不快であり、日々の生活は、この些細な不快によって動くことが多い。苦痛・辛苦の出てくる場面は、あらかじめ察知して可能な限りこれを回避するから、実際に体験されるのは、ごく限られた場面に限定される。
 理性は、不快でもそれが受け入れられるべきだと思えば、これをうけいれる。全体のために個我の欲求・快を抑止して、不快をひきうけることは、道徳などでは、普通のことである。自然的には不快を避けるが、精神的生においては、個我には不快でも、全体を思うと自身が犠牲になるべきで、不快を引き受けねばということになってもいく。その不快は、だが、多くは、些細な不快で、苦痛までにはならないことである。気に入らない、乗り気がしない程度の不快は、苦痛とちがい、忍耐するところまでいかないような、軽い不快である。そういう些細な不快・快が日常であり、苦痛以下、苦痛以前のものとしてある。勿論、精神的生においても、苦痛そのものは、巨大な力をもっている。絶望など、これの回避・消滅を求めて全力をつくすべき切実な反目的となる。したがって、できるだけ絶望にならないようにと努力してこれを回避し、実際にこれを体験することは少なくなる。
 芸術の世界になると、快となる美を求める世界であろうから、不快は遠のく。音の芸術の場合、まず、苦痛となるようなものは前提として回避する。ロック音楽のような鼓膜を破りそうな騒音もあるが、これを楽しむ者は、激辛の食べ物のように、その大騒音を痛快としているのであろう。通常の音楽は、不快な不協和の音があるとしても、それは苦痛ではなく、協和音の快を際立たせてくれるささやかな不快に留まる。その不快な不協和な音を交えての快の音楽である。そこでは、苦痛とか辛さの感情は登場しないであろう。もちろん、作曲するとか演奏する者には、辛苦は不可避であろうが、それは、美しく心地よい音楽自体においてではなく、その美を生み出すための暗中模索の営為にいだくものである。

辛さの反対極は、無であったり充実感であったり

2022年07月19日 | 苦痛の価値論
2-5-6. 辛さの反対極は、無であったり充実感であったり
 辛さから解放されると、ほっとする。それは、強烈な不快からの解放で、それがなくなるだけで十分という安堵感である。痛みと同じで、それから解放されると心身が安楽となり生気を取り戻す。無の安らぎである。だが、その感じられる状態は続かない。痛みの無、無痛、その安楽は、痛みがなくなると消滅する。かりに無痛・無損傷が快・楽として意識されるのだとすると、心身のいたるところが快を生じて、無数の快にとらわれて他のことに気を回すこともなくなってしまうであろう。同様に、辛さの無化した快・楽は、辛さの不快感情が消えていく間に快を感じるだけで、完全に辛さが消えたときには、その快・楽も消える。息を止めておくことの辛さは、息することで解消され、息出来て気持ちいい。だが、その辛さが消え去っていくとともに、その息出来ての楽・気持ち良さも消えていく。いつまでも気持ちいいのでは、気になってほかのことができなくなってしまうし、息する度に気持ちいいのでは、この快を享受しようと過呼吸に陥ってしまう。消えなくては障害を生じる。
 だが、痛みの反対の無痛は、損傷のないことだが、辛さの場合は、意志の阻害が無化するだけではない。意志の通らぬ辛さの反対は、意志が通ることであり、その意志の営為のスムースであることは、意識されて問題ないどころか、そのスムースさが感じられることは、その意志の促進に資することである。痛みでは、痛み、損傷した箇所以外は、無数あることでそれを無痛の快として意識していたのでは、その無数の快に気を取られて、なすべきことができなくなる。しかし、意志の阻害の辛さは、それがなくなって無になるのではなく、その阻害がなくなってから、意志の営為は促進されるのであり、それがよりよく促進されることに感情をいだくのは、死ぬまで反復する呼吸のような場合は別として(呼吸は、スムースになると意志無用となる)、意識を一層それに向けることができて好都合である。意志阻害の辛さに対して、意志促進の感情があれば、意志は大いに駆り立てられていく。阻害感情の辛さに対立して、スムースにいくことの感情として、爽快感、高揚感、充実感等をいだく。辛さは、そういうことからは、そのペアとなる対立感情をもつ。苦に対して楽があるように、辛には、反辛としての充実感や高揚感が対立する快として存在する。
 ではあるが、苦しさとその反対の楽・楽しさのペアとちがう点も大きい。苦の場合は、その反対の楽・快は、多くの場合、それ自体が目的となる。反目的の苦に対して、目的としての快・楽である。食欲で言えば、空腹の不快・苦と、満腹しての快である。満腹の快を食欲は目的として求める。ムチの苦とアメの快である。だが、辛さの反対の快・楽は、目的にはならない。単に、その意志のスムースにいくこと(意志の目的とするものの追及)へ付随するだけの感情であって、その爽快感とか高揚感を目的とするものではない(ギャンブルは、例外で、その価値獲得の意志の通ることにいだく快感自体が目的となる)。

「辛さ」の漢字と和語

2022年07月12日 | 苦痛の価値論
2-5-5. 「辛さ」の漢字と和語   
 漢字の「辛」は、針のように鋭い刃物をかたどったものだといわれる。皮膚表面を切るのではなく、突き刺して深く傷つけ痛めつける鋭利な刃物である。刺して深刻なダメージを与える痛みに「辛」をいうのであろう。和語で「つらい」は、つらつらと連なる、苦の果てのない状態の形容であろうか。鞭打たれ続ける奴隷のように、苦が長々とつらつら(熟々)と持続することでの苦の極限の状態であろう。「辛」の漢字は激痛、痛みの強さをいい、和語の「つらさ」は、つらつらと連なる苦の長さをいうのであろう。
 つらつら、づらづらの連なりは、いくつものもののつながった横拡がりになろうが、縦方向での連続的な延長に「つる」がある。苦の長い連なりは、「つる」という連続的なつながりの方がイメージとしてはより近い感じがする。文法的には難がありそうだが、つらいは、「釣る」で見てもよいであろうか。釣って引き延ばしての辛さである。引きつるとは、引っ張られて強烈に緊張した感じであろう。「鶴」も「蔓」も「弦」も、長く伸びたものである。苦痛が長々と続く辛さである。苦から、痛みから逃げようとしているのを、内奥からこれを引きとめつづけて、敗けるな耐えろとぎりぎりの状態を営々と続ける。忍耐を貫き、耐える状態、つらいは、蔓のように長く伸びて、「つらぬき」とおすこととも言えようか。苦しみ・痛みを最後まで耐えて、つらぬくのが辛さであると。
 苦痛で「つらい」というのは、はじめからではなく、だいたいが、苦しい思いをかさねての最後の段階にいうことであろう。「辛」は、針などで深部を傷つける。痛みが多く表面的であるのとちがい、深部を刺し貫いての苦痛である。あるいは、苦をつらつらとつらねて、これを耐えつらぬくところに辛さは生じる。その長い苦しみを耐えるのは、意志をもってである。自然感性的にはその苦を放棄したり逃げたりするのに対して、その意志がこれを抑制して葛藤に耐える。苦の限界になり、敗北を目の前にしての悲しみさえも抱く。つらなる苦しみ悲しみに、つらさをつのらせつつ、おのれをつらぬき通すのである。

つらさには、悲壮感が伴う

2022年07月05日 | 苦痛の価値論
2-5-4. つらさには、悲壮感が伴う  
 「早起きが辛い」と目覚めにいだく辛さは、動かなくなっている心身を動かそうとする意志の力みのもとに感じる。朝、早く起きようと思っているのに、眠気がとれず、心身が、動きだすことに抵抗して、早起きを思う意志は、この抵抗において辛さを感じることである。意志は、煩悶するが、思うようにならず、眠りから抜け出すことに抵抗する自身の心身に、情けないと思い、敗北感もいだく。意志することへの困難さに打ちのめされそうになっていて、それでもと、意志は悲壮な思いをもって気力をふり絞るのだが、無力を思い知らされ、予期される敗北に、その辛さは、悲しみをも感じることになる。
 「いまの生活が辛い」というが、快適な生活が阻止されこれに苦しさを抱くのとちがい、辛さでは、これに耐える自身について、もうどうにもならないと、それから自身が逃げ出したい、その生活を遺棄したいと思うようになる中で、その思いを抑えて我慢する状態にいだくものであろう。苦しい状態では、なお、その苦しみの対象に積極的に関与してその妨害物に当たり、その妨害物に抑止・抑鬱を感じる。だが、辛さでは、その苦痛の生活自体が耐えがたく、これから逃げ出したいという姿勢になり、これを押さえつけることに意志は力むが、その逃げ出したいという思いを抑えがたく、これに辛さをいだくのであろう。苦しい生活では、自身において、生活を守ろうとする姿勢をもっているが、辛い生活になると、苦もぎりぎりの状態となって、その生活の破綻が間近になっていて、その敗北の予感に、悲しみもいだく。「生活が辛い」という場合、これを遺棄したいと思うことになるぐらいに、その生活の根本において冷酷無残な仕打ちを感じ、辛く当たられて「辛い」という状態である。逃げ出す以外には手はないと、破綻を目の前にした状態で、悲痛な思いにある。
 つらさは、苦の直接的な感受に対して、一歩距離をとって、反省的である。ひどい苦だからこれから逃げたいと引き下がり、苦痛に対決する心身の先頭の主要部分は後退しはじめるなか、残された自己の中枢、精神は、そこに踏みとどまり、敗退の悲しみを予期しつつも、なお悲壮の思いをもって耐え続ける。辛(から)くも前向きの姿勢を維持していて、その悲壮の壮、勇気を振り絞り、断念せず、辛さに歯をくいしばって耐えるのである。