2-6. 痛い・苦しい・辛いに還元できない不快への留意
忍耐の対象ということで、痛み・苦しみ・辛さをあげた。これらは、苦痛という強い不快であるが、不快感情は、多様で広範囲にわたる。苦痛以外の不快も、引きよせる快の反対の不快としては、大なり小なり嫌悪され回避されるものである。だが、火急の回避を迫る苦痛のように、それが予想されるとその手前で回避され、したがってあまり体験することのないものとちがって、些細な不快は、さして気にすることがなく、日常的に頻繁に体験される。日常を動かすのは、苦痛ではなく、苦痛以前の小さな不快である。
あらゆる感情は、快か不快かに分けられる。その不快の極端なものが苦痛である。並みの、あるいは些細な不快は、苦痛には入らないが、日常的には、その苦痛以前の不快と快に満ち満ちていて、そのもとによりよい生へと微調整しつつ生活しているのが一般であろう。少し寒くて不快なら、服を寒くないものにする。少し暑いなら、服を一枚脱ぐか、気にせず、暑さの不快を放置する。不快ではあっても、凍傷や火傷の痛みとちがい苦痛で緊急の対応を迫るものではなく、よりよい事態の選択に資する不快であり、日々の生活は、この些細な不快によって動くことが多い。苦痛・辛苦の出てくる場面は、あらかじめ察知して可能な限りこれを回避するから、実際に体験されるのは、ごく限られた場面に限定される。
理性は、不快でもそれが受け入れられるべきだと思えば、これをうけいれる。全体のために個我の欲求・快を抑止して、不快をひきうけることは、道徳などでは、普通のことである。自然的には不快を避けるが、精神的生においては、個我には不快でも、全体を思うと自身が犠牲になるべきで、不快を引き受けねばということになってもいく。その不快は、だが、多くは、些細な不快で、苦痛までにはならないことである。気に入らない、乗り気がしない程度の不快は、苦痛とちがい、忍耐するところまでいかないような、軽い不快である。そういう些細な不快・快が日常であり、苦痛以下、苦痛以前のものとしてある。勿論、精神的生においても、苦痛そのものは、巨大な力をもっている。絶望など、これの回避・消滅を求めて全力をつくすべき切実な反目的となる。したがって、できるだけ絶望にならないようにと努力してこれを回避し、実際にこれを体験することは少なくなる。
芸術の世界になると、快となる美を求める世界であろうから、不快は遠のく。音の芸術の場合、まず、苦痛となるようなものは前提として回避する。ロック音楽のような鼓膜を破りそうな騒音もあるが、これを楽しむ者は、激辛の食べ物のように、その大騒音を痛快としているのであろう。通常の音楽は、不快な不協和の音があるとしても、それは苦痛ではなく、協和音の快を際立たせてくれるささやかな不快に留まる。その不快な不協和な音を交えての快の音楽である。そこでは、苦痛とか辛さの感情は登場しないであろう。もちろん、作曲するとか演奏する者には、辛苦は不可避であろうが、それは、美しく心地よい音楽自体においてではなく、その美を生み出すための暗中模索の営為にいだくものである。
忍耐の対象ということで、痛み・苦しみ・辛さをあげた。これらは、苦痛という強い不快であるが、不快感情は、多様で広範囲にわたる。苦痛以外の不快も、引きよせる快の反対の不快としては、大なり小なり嫌悪され回避されるものである。だが、火急の回避を迫る苦痛のように、それが予想されるとその手前で回避され、したがってあまり体験することのないものとちがって、些細な不快は、さして気にすることがなく、日常的に頻繁に体験される。日常を動かすのは、苦痛ではなく、苦痛以前の小さな不快である。
あらゆる感情は、快か不快かに分けられる。その不快の極端なものが苦痛である。並みの、あるいは些細な不快は、苦痛には入らないが、日常的には、その苦痛以前の不快と快に満ち満ちていて、そのもとによりよい生へと微調整しつつ生活しているのが一般であろう。少し寒くて不快なら、服を寒くないものにする。少し暑いなら、服を一枚脱ぐか、気にせず、暑さの不快を放置する。不快ではあっても、凍傷や火傷の痛みとちがい苦痛で緊急の対応を迫るものではなく、よりよい事態の選択に資する不快であり、日々の生活は、この些細な不快によって動くことが多い。苦痛・辛苦の出てくる場面は、あらかじめ察知して可能な限りこれを回避するから、実際に体験されるのは、ごく限られた場面に限定される。
理性は、不快でもそれが受け入れられるべきだと思えば、これをうけいれる。全体のために個我の欲求・快を抑止して、不快をひきうけることは、道徳などでは、普通のことである。自然的には不快を避けるが、精神的生においては、個我には不快でも、全体を思うと自身が犠牲になるべきで、不快を引き受けねばということになってもいく。その不快は、だが、多くは、些細な不快で、苦痛までにはならないことである。気に入らない、乗り気がしない程度の不快は、苦痛とちがい、忍耐するところまでいかないような、軽い不快である。そういう些細な不快・快が日常であり、苦痛以下、苦痛以前のものとしてある。勿論、精神的生においても、苦痛そのものは、巨大な力をもっている。絶望など、これの回避・消滅を求めて全力をつくすべき切実な反目的となる。したがって、できるだけ絶望にならないようにと努力してこれを回避し、実際にこれを体験することは少なくなる。
芸術の世界になると、快となる美を求める世界であろうから、不快は遠のく。音の芸術の場合、まず、苦痛となるようなものは前提として回避する。ロック音楽のような鼓膜を破りそうな騒音もあるが、これを楽しむ者は、激辛の食べ物のように、その大騒音を痛快としているのであろう。通常の音楽は、不快な不協和の音があるとしても、それは苦痛ではなく、協和音の快を際立たせてくれるささやかな不快に留まる。その不快な不協和な音を交えての快の音楽である。そこでは、苦痛とか辛さの感情は登場しないであろう。もちろん、作曲するとか演奏する者には、辛苦は不可避であろうが、それは、美しく心地よい音楽自体においてではなく、その美を生み出すための暗中模索の営為にいだくものである。